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評:ハーシュ、不協和のバランス

 3種類の和音がある——ドミソ(トニック)、ファラド(サブドミナント)、ソシレ(ドミナント)。このたった3つの協和音の組み合わせで、いろんな曲を作ることができる。また逆に、ある学者は、どんな楽曲も分解すれば究極的にはこの3つの和音に行き着くと唱えた(シェンカー理論という音楽分析の有名な手法である)。ピタゴラスのギリシャ時代からラモー、バッハのバロック時代へ、そして現代に至るまで長い時間をかけて見いだされ、受け継がれてきた3つの協和音とその連結の仕方(機能和声≒コード進行)は、あらゆる意味で(西洋)音楽の根幹をなすもので、人類の遺産である——というのは言い過ぎだろうか。

 妙な言い方だが、そのような協和音が支配的な曲を美しくないとは思わない。しかし、そのような曲を聴いていると、僕にはだんだん協和音の存在が怪しく思われてくる。つまりこういうことだ。凹凸、陰陽、明暗、ネガポジ、善悪、+-、韻文散文、喜びと悲しみ。あらゆるものごとには二面性がある、と僕は思う。そして相対もまた、絶対のあるところに……。

 不協和(音)のないところに協和(音)は生まれない。

 時代によって、場所によって、文化によって、協和音・不協和音の捉え方は違う。どちらが良くてどちらが悪いというものではない。モーツァルトとシェーンベルクとセロニアス・モンクの不協和音(協和音)の役割、効果、意味性は、同一の物差しでは測れない。僕が思うのは、協和・不協和に対するバランス感覚は音楽を特徴づける一要因ではないか、ということだ。

 僕は、フレッド・ハーシュのピアノソロを間近に聴きながら、ぼんやりとそんなことを考えていた、考えさせられていた。氏は派手なプレイで押し通そうとはしない。細身の体から生み出される音は整然としている。整然なんて言葉はジャズには似合わない感じがするけれど、ハーシュは「そんなことはない」とでも言うかのように、たしかなテクニックで紡いだ音を、僕の耳に置き残していった。

 「ラウンド・ミッドナイト」が響いたビルをあとにする。屋内から屋外へ。夢から現(うつつ)へ。【り】


フレッド・ハーシュ - ピアノ・ソロ -
2018年2月22日
コットンクラブ(東京・丸の内)

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