股尾前科の事故

2つ(3件)の重大事故を書きます。

□■□ 鉄道人身障害事故「JR東海道線救急隊員轢死事故」は、2002年11月6日に大阪市淀川区の東海道線で発生しました。
負傷者の救出作業中の消防局の救急隊員が特急列車にはねられて死傷しました。

事件・事故は、2002年11月06日19時12分に起きた
JR西日本東海道線塚本―尼崎間(複々線区間の下り外側線で事故が起きる)で、石垣の上のフェンス(高さ1.1m)を乗り越え線路の敷地内に侵入し遊んでいた市立中学生2人の内の1人が、フェンスに面した最も外側の下り線路内で大阪発姫路行き「新快速」(3643M)にはねられ重傷を負った。
「新快速」は約450m先に停車。
「新快速」の車掌と、約50m手前に停車した後続の特急「北近畿17号」(3027M)の運転士が現場に向かった。
無線連絡を受けたJR西日本新大阪総合司令所の指令員が外側下り線の運行停止を指示した。
19:15頃、「新快速」の車掌が男子生徒を線路脇に運んで保護。
指令員は各列車に「負傷者が線路脇にいる」と一斉無線で2回連絡。
19:20~27頃、指令員が塚本駅へ救急車の派遣、JR尼崎駅員に現場出動を指示した。
JR尼崎駅員3人が現場到着し中学生を確認、「新快速」の車掌から事故処理を引き継いだ。
特急「北近畿17号」の運転士が、駅員に「徐行なら通れるか」と尋ね、駅員は「最徐行なら通れる、指令にも最徐行で通ることを伝えてくれ」と返答した。
駅員も指令に状況を伝えようと携帯電話から発信を試みたが、つながらなかった。
19:30頃、列車に残っていた「新快速」の運転士は、指令員から「運行再開は可能か」と聞かれ「可能」と返答。
「現場の状況はどうか」には、「現場から離れているので分からない」と回答。
指令員は、「新快速」の運転士に運行再開を指示、列車に戻った特急「北近畿17号」の運転士に、「現場を十分注意して運転し、支障の有無を指令に連絡するように」と要請し、「新快速」に続いて特急「北近畿17号」に運転再開を指示した。
19:34頃、特急「北近畿17号」の運転士は、運転再開し最徐行で現場を通過した。
19:36、特急「北近畿17号」の運転士は現場通過後、指令員に「現場に駅員がいるため、最徐行で」と無線連絡。
指令員は「運転に支障はないか」と尋ねたところ、特急「北近畿17号」の運転士は「支障はない」と返答。
指令員は、一斉無線で周辺の列車に「怪我された方がまだ線路脇にいる、注意して運転を」(「注意して運転」とは、普段以上に注意を払って運転することで、速度を落とすことを要求するものではない)と呼びかけた。
これら無線のやりとりは、大阪駅で待機していた京都発鳥取行きの特急「スーパーはくと11号」(61D)の運転士も聞いていた。
指令員は、外側下り線を走行する新快速電車を内側線に振り替え、特急「スーパーはくと11号」を外側下り線に走らせるよう指示した。
19:37~38、指令員が現場の駅員(52)の業務用携帯電話を通じて「新快速は内側、外側(事故線路)はまだ大阪を出ていないので5分くらいはない。次は、はくと」と連絡。
駅員は、携帯電話で指令員に「進行方向左側にけが人がいる」などと伝達。
駅員からの報告を受けた指令員は、事故で停車している列車の各運転士に対し、「駅員2人が現場に到着し、少年を保護した」との一斉放送を流した。
淀川警察署員3人が相次いで現場に到着した。
警官は現場の駅員に「運行状況は?」「電車は大丈夫か」と尋ねた。
駅員は「電車は大丈夫」「外に1本(事故のあった下り外側線路を特急「スーパーはくと」1本が通過の意味)。
新快速は内に振った(外側下り線を走る「新快速」を内側の線に変更の意味)」と返答した。
19:39頃、指令員は再び一斉無線で周辺の列車に「怪我された方がまだ線路脇にいる、注意して運転を」と呼びかけた。
19:42、指令員は、大阪駅で停車中の特急「スーパーはくと」(本件列車)に進行信号を出した。
19:43頃、淀川消防署の消防・救急隊員6人が現場到着。
負傷した中学生を救助するため、淀川消防署の消防・救急隊員6名線路内に入った。
救急隊員は警官に手招きされ、中学生の首をギプスで固定する作業を始めた。
警官+消防隊+救急隊(2件目事故当事者)+1件目事故の原因当事者である中学生
合計10名が事故現場にいた。
駅員は救急隊員が警察官と話をしているのを見ていたが、運転再開を救急隊員には伝えなかった。
19:43~、指令員は、「はくと」の運転士を個別無線で6回呼び出したが応答はなかった。
指令が、通勤帰宅時で特急も内側下り線に通すと混雑すると判断したためか、後続特急は外側下り線のままにしたことが原因として指摘されています。2件の事故共に、この線で発生している。
19:45、救急隊員2人が線路内に入り負傷した中学生を担架に乗せようとしていたところ、時速約105kmで通過した特急「スーパーはくと11号」にはねられた。
救急隊員の1人は死亡、もう1人は重傷を負った
20:00頃、消防救急センターから指令に、上下全4線の運行停止要請が入った。
20:05頃、指令から上下4線の運行停止を同センターに連絡。
20:45、上下4線の運転を再開。

http://araic.assistmicro.co.jp/araic/railway/report/03-5-1.pdf

http://www.sydrose.com/case100/329/

駅員や後続の特急「北近畿17号」(3027M)の運転士の連絡ミス、運行を指令する指令員の判断ミスなどで、救助作業中の安全確保が適切でなかったためである。

・運行を指示する指令員が、列車に戻った「新快速」の車掌から「けが人を保護し、駅員に引き継いだ」「運転再開に支障はない」との報告を受け取った際、中学生の保護が終わって安全な状態になったと誤判断、「新快速」については車両の最後尾が事故現場を通過しているため運行再開可能と判断してしまった
・駅員が携帯電話で指令に状況を伝えようとするも、携帯電話の扱いに不慣れ(推定)で、つながらなかった。
・特急「北近畿17号」の運転士と指令員との不正確な連絡で、指令員が「安全な場所で救助作業が行われている」と思い込み、「後続列車の通常運転に支障なし」と判断してしまった。
・駅員から指令員への報告で、けが人がいる場所が線路とフェンスの間であることを含んでいなかった。
・救急隊員は駅員から運転再開の状況を知らされていなかった。駅員は、救急隊員が警察官と話をしているのを見て、救急隊員は警察官から運行再開の状況を知らされたと勝手に思い込んでしまった。
・駅員が警官との会話に鉄道の専門用語を使ったため、正しく情報が伝わらなかった。

有罪
大阪府警察本部は、JR西日本に線路内の救助作業中の安全対策に重要な手落ちがあったものとみて、JR西日本本社を捜索、業務上過失致死傷の疑いで調査を開始した。

大阪府警は03年7月、業務上過失致死傷容疑で当時の新大阪総合指令所長ら7人を書類送検。

大阪地検は同年12月、指令所総括指令長ら5人を在宅起訴し、所長ら2人を不起訴とした。

05年1月の大阪地裁判決は、総括指令長ら2人に無罪を言い渡し、ほかの3人は「安全確認を怠った」と執行猶予付きの有罪(禁固1年6月―1年)とした。

現行法では企業の責任は問われない。
そして、当事者の刑罰がかるすぎるという意見が多い。

11日、JR西日本は、再発防止策で、輸送指令が現場の状況を詳細に把握した上で、現場責任者が警察、消防に運転の再開 を連絡するなど事故時の役割を明確化した。

指令所と現場責任者との連絡のため「連絡専用携帯電話」を各駅に配備

新たに定めた鉄道人身事故対処処理要領および鉄道人身事故対策標準を係員に配布し、教育・訓練を実施した。

定常に戻そうとする意識が、安全確保を疎かにしてしまった事故であった。

国土交通省鉄道局は、消防庁と連携して、全国の鉄軌道事業者に安全管理の徹底を通達した。

航空・鉄道事故調査委員会(鉄道部会)議決
委員長 佐藤淳造
委員 勝野良平
委員 佐藤泰生(部会長)
委員 中川聡子
委員 宮本昌幸
委員 山口浩一

https://www.mlit.go.jp/jtsb/railway/rep-acci/2003-5-1.pdf

12月13日、全国消防長会近畿支部に所属する大阪、神戸、尼崎、姫路の各市消防局、高槻市消防本部など9消防機関とJR西日本、私鉄、大阪市交通局など9鉄道事業者による「鉄道事故安全対策調整委員会」設置され、初会合。軌道敷内での二次災害防止のための安全管理体制などを協議し、年度内に対策をまとめた。

この事故以降、JR線人身事故時の警察による現場検証などによる運転抑止時間が、安全確保を理由に、それまでの平均20 - 30分から平均1時間以上を要するようになりました。

後にJR福知山線脱線事故が発生した際、同社の運行管理体制のずさんさを指摘する例としてこの事故が報道などで再び取り上げられることにもなった。

■□■JR福知山線脱線事故

2005年4月25日午前9時19分頃、兵庫県尼崎市で西日本旅客鉄道株式会社(以下、JR西日本。事故当時の社長は山崎正夫(68)です)福知山線の快速電車207系7両編成がカーブを曲がりきれずに脱線して線路脇のマンションに衝突

福知山線上り快速列車が塚口駅を通過後、 尼崎駅に向かう途中の右カーブで転覆、脱線、
1両目はカーブの南東部に隣接していたマンションビルの駐車場に突っ込み大破、
外からは見えない状態の1両目は、救助隊にはしばらく気付かれず発見が遅れた。
2両目も同駐車場入り口の柱に叩きつけられて大破、マンションの過度に薄くなって貼り付く様な異様な光景が映し出された。
3、4両目は脱線して軌道から大きく外れ、5両目も脱線、
6、7両目は軌道に乗ったまま停止した。

事故の責任がある運転士は死亡した。極重悪人唯称仏

事故当日の股尾前科(23)運転手(--:--:-- は時間不明)
00:02:46~00:07:12までに5回ウェブサイトを閲覧
05:30頃 森の宮電車区放出(はなてん)派出所で起床
06:08 発点呼
06:51:30 7両編成、放出駅2番線に入る
--:--:-- 方向転換のため、西側の運転席から東側に移動
06:56:00 放出駅を東向きに出発
07:26:30 松井山手駅到着
--:--:-- そのまま東向きに引き上げ線に入る
--:--:-- 方向転換のため、東側の運転席から西側に移動
--:--:-- 松井山手駅2番線に入る
07:35:00 京橋行き区間快速として松井山手駅出発
08:07:51 京橋駅到着、(予定より1分遅れ)
08:09:50 尼崎駅行き普通列車として京橋駅出発(予定より50秒遅れ)
--:--:-- 大阪城北詰駅に到着。
車掌が乗降口を閉める前に 運転席右側の窓を開けて後方を確認すべきところをしなかった。
通常、閉扉後、2、3秒で出発するところを5~10秒経過してから出発。
--:--:-- 御幣島(みてじま)駅から加島(かしま)駅に向かう加島駅直前の半径 250mの左カーブ(図3、円で囲んだ部分)の99m手前(同図、×印)で、 ATS-P による最大ブレーキが約1.8秒間動作した。 この約5.2秒前には運転席でパターン接近表示灯が点き、警報が鳴動し、 手動ブレーキを段階的に使用している。
御幣島駅からは49秒遅れ、 加島駅からは47秒遅れの出発だった。
加島駅での大阪城北詰駅同様の運転手による 後方乗降口確認の手順がなされなかった。
08:26:30 尼崎駅到着
08:31:00 宝塚行き下り回送列車として尼崎駅を定刻通り出発
--:--:-- 宝塚駅ホーム手前約250mにある信号(図4、1RA2信号)は、 列車が2番線に進入することから、注意信号を表示しており、制限速度は55km/h であった。列車はこの信号をおよそ55km/h で通過したものの、その後加速を続け、 分岐(31号イ分岐)の約30m手前のATS-SWロング地上子(5・6RQ1)から、確認要求情報が送信された。
運転士はこの確認要求情報による赤色灯とベルに反応し、1秒以内に加速から手動常用ブレーキ操作に切り替えたが、このブレーキを作動させながら確認ボタンを押す『確認扱い』が完了せず
08:54:43 ATS-SWロング機能によるATS-SWロング機能による非常ブレーキが作動した。
その後、運転士は手動ブレーキを緩め位置まで段階的に緩め、1秒間緩めた後、再びブレーキ位置に戻した。
曲線分岐器を分岐側に通過するときの制限速度は 40km/hであり、その表示もあった。
しかし、非常ブレーキが自動的に作動したものの、 分岐通過時の速度は65km/hで、ATS-SW型地上子を挟んで44m手前にあった標識の表示速度だった。
08:54:55 2番線、尼崎方端に停止
08:55:04 運転士は手動ブレーキを非常位置にした状態で、ATS復帰スイッチを下に引く「ATS復帰扱い」を行った。
ATS-SWロング機能による非常ブレーキ作動時には、復帰の前に輸送指令員に連絡を行うこととされているものの、運転士はそれをしなかった。
08:55:24 加速開始、約18km/h まで加速。
その後、ブレーキを段階的に使用していた
08:56:12 ATS-SW誤出発防止機能により、非常ブレーキが作動した。
この非常ブレーキは運転ミスではなく、2番線ホーム、東の端に先頭車両を合わせる形でいったん止まった列車が、停止位置に来るまで通常の倍近くかかったため、誤出発防止機能が誤って作動したためである。
08:56:14 所定停止位置付近に停止。宝塚駅到着(44秒遅れ)。
08:56:17 ATS復帰扱いを実行。
08:59:04 宝塚駅を反対向きに出発するため7両目を降りる。運転士は約2分50秒間、 通常1分程度の約3倍、7両目にいた。7両目に到着した車掌を30秒ほど待たせた後、 運転士が運転席から出た。その際、すれ違った車掌が話しかけるも、運転士は無言で1両目に向かって歩いて行った。通常2分20秒かかる
09:01:24頃到着
09:04:00 同志社前駅行き上り快速列車として宝塚駅出発(15秒遅れ)
09:07:40 中山寺駅出発(25秒遅れ)
09:11:20 川西池田駅出発(35秒遅れ)
09:13:39 北伊丹駅通過(34秒遅れ)
09:15:26 伊丹駅停止位置を72m行きすぎて停止。
このとき、停止位置の643m、および468m手前で運転席には警告が発せられ、運転士は2つ目の警告に反応して手動ブレーキを作動させた。
しかし制動は間に合わず、列車が通常停止位置の前方44mに達したところで、車掌が自分のいる7両目の非常ブレーキを作動させた。
これにより、運転席に赤色灯が点灯し、その3.4秒後に運転士もブレーキハンドルを非常位置にした。列車は所定の停止位置を72m行き過ぎて停止した。
09:15:38 停止から12秒後に列車は後退を開始
09:15:43 3m後退しすぎた位置で停止、伊丹駅に到着した(1分8秒遅れ)
09:16:10 伊丹駅出発(1分20秒遅れ)
JR福知山線の脱線事故では、当時27歳の増山武司氏が車掌を務めていました。
--:--:-- 運転士から車掌に車内電話で「まけてくれへんか」と通話があり、車掌が「だいぶと行ってるよ」と応えたところで、乗客対応のため車内電話を切り、続けて車内放送を行った。その後、車掌は総合指令所に無線報告するも、30~40mと思っていた行き過ぎ距離を8mと過小報告、遅延時間も1分半と適当に伝えた。(車掌の罪)
「行き過ぎた距離を小さく報告して欲しいという意味だと思った」と車掌は証言しています。
09:18:22 塚口駅を惰行で通過(1分12秒遅れ、速度122km/h)
09:18:XX ブレーキ使用開始位置を通過
09:18:YY 時速118km/hで上り第4閉そく信号機を通過
09:18:49 時速116km/hで事故のあったカーブに突入。
カーブは円曲線部が曲率半径300m、制限速度は70km/hだった。
09:18:50 手動ブレーキ作動開始
09:18:54 1両目転倒開始・脱線。続けて、2~5両目が脱線。
09:19:04 最終車両、7両目が停止

事故が発生したカーブは半径304m、制限速度70km/hであったところ、
事故列車は116km/hで進入し曲がりきれず転覆脱線した大事故であった。

運転士の高見隆二郎さんは、運転席でブ レーキレバーを握りしめたままお亡くなりになられていたそうです。南無

近畿大法学部1年(当時18歳)Yさんは、大破した先頭車両に乗車していましたが、奇跡的に生存しました。

107人が死亡
562人が重軽傷、心と体に重い後遺症を負う。

ミスを正直に報告できない?
事故後、JR西は乗務上のヒューマンエラーを懲戒対象から除外しました。

事故後、JR西がマンションを含む一帯の約7500平方メートルを買い取り、一部を保存して整備した。
遺族らの心情に配慮し、事故の痕跡が残る柱などがある北側の一角は一般の見学者が立ち入ることはできない。

事故から19年目
マンションの一部を残す形で整備された施設では、午前10時前から追悼慰霊式が行われ、
遺族や事故でけがをした人たち、それに、JR西日本の幹部などが参列しました。
追悼慰霊式が行われた「祈りの杜」では午後3時半から近くに住む人など一般の人たちによる献花が行われています。

南無阿弥陀仏

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