浪江町津島1_201110

東日本大震災被災者のキオクとキロク。今すぐ役立つ!防災と減災のススメ。

私にとって二度と忘れることのない、平成23年3月11日(金)14時46分。

あの瞬間、そして被災地はどうなったのか?

震度7の巨大地震。

高さ30mを超える大津波。

そして、未だ収束の糸口がつかめない東京電力福島第一原子力発電所の爆発事故。


未曾有の大規模災害を風化させないために。

東日本大震災の教訓を後世に伝え、今後起こる大災害の防災・減災に少しでもお役に立てることを願って、被災した私のキオクとキロクをここに公開します。 

さらに!

私自身の被災経験をもとに、あの時あって助かったもの、無くて困ったものを考慮して作った被災から5日間を生き抜くためのオリジナル防災セットのセットリストをダウンロードすることができます!!

ここでは、今からすぐに、誰にでもできる、防災と減災に役立つノウハウを全て実体験に基づいて書いています。

これを読んだら必ず「意識」が変わります。

そして意識が変われば「備え」が変わります。

ぜひ、あなたとあなたの大切な人を守るために、このキオクとキロクを読んでみてください。


2019年3月11日で東日本大震災から8年が経過し、すっかり風化していることに危機感を覚えています。

災害は「いつ」、「どこで」、「どんな形」で発生するか分かりません。

経験した一人として言えることは、私たち一人ひとりが「意識と備え」を高めることで防災や減災に繋がる行動を起こすことが必ず可能であるということです。 

防災と減災の第一歩は「意識すること」と「備えること」です。

まずは各個人が防災や減災に対する意識を高め、備えていくことです。

その流れがあらゆる集合体に波及することで地域の防災力が高まっていきます。

まずはご自身で、ご家庭で、そして学校や自治会で、防災対策についてみんなで考える機会を持ち、意識を高め備えていきましょう。

以下に、私の被災について書き記します。

【私の被災状況】

■東日本大震災が発生した日:平成23年3月11日(金)午後2時46分

■被災した場所:福島県福島市 

■原発からの距離:直線距離で約60キロ。

■被災状況:震度6強の揺れ、ライフラインは全て不通。

■避難所に入らなかった為、自分達での非常時における生活を被災から2週間続ける。

■震災前の人口:約31万人、震災後の人口:約29万人(平成31年4月1日現在)

★文中に掲載している画像は全て私が撮影したものですが、震災当日の記録画像は有りません。後日、福島市内、南相馬市、浪江町、飯舘村で撮影した画像をイメージ画として掲載している箇所もございます。あらかじめご了承ください。(撮影時期:2011年4月~2013年3月頃)

【震災当日からの私の記録】
平成23年3月11日(金)14時46分。

仕事は休みで自宅にて被災。

携帯電話の緊急地震速報が間に合わず(約10秒位あと)、下から突き上げるような大きな揺れが発生しました。

火の元確認をする余裕もなく玄関に向かいました。

隣の家の中から悲鳴のような声が聞こえたので、揺れ幅が大きくなる中そのお宅に入り、一人暮らしの高齢者を抱えて屋外に避難しました。

畑にある柿の木に掴まり、揺れが収まるのを待つが全く収まる気配がありません。

すると、目の前で屋根瓦がガラガラと崩れ、蔵の土壁が剥がれ落ち、塀が倒壊したり見たことも無いことが起こりました。
今でも忘れられないのは、目の前で起きた3m位の地割れの瞬間。

あの時は「死を覚悟」しました。

揺れは約4分間くらい続きました。

あまりにも長く、成す術の無い状況に私も一緒に避難した高齢者の方も呆然としました。

地震がやむと急に吹雪になりました。

風雪は横殴りの状況で自宅の玄関を開けると、家財品の散乱ぶりに言葉を失いました。

地震後、ライフラインは全て止まりました。

電気。(復旧は3月16日)

ガス。(都市ガスは不通)

※プロパンガスは使えますが、火を使うことにより引火し爆発する危険性があるため、ガス会社からの指示があるまでは使用しないほうが良いでしょう。特に周囲でガス臭がするときは絶対に火を使わないで下さい。

水道。(復旧したのは3月末頃)

携帯電話も全く通じない状態になりました。

近所で指定された避難所(小学校)は開設しておらず、余震の続くなか比較的被害の少なかった母の実家へと向かいました。

道路はどこも大渋滞。

至るところで陥没や隆起。

車で走行するのに危険が箇所がそこらじゅうに沢山ありました。

特にマンホールの隆起に驚かされました!(地面から50センチ以上飛び出しています。)

この時、市内の避難所には続々と避難する人達が集まり、1人1畳分のスペースを確保するのも難しい寿司詰め状態になりました。

私たち家族と近所で一人暮らしをしている一緒に避難した高齢の女性を連れて、母方の実家へと避難しました。この日は震度4~5クラスの余震が何回も発生し、不安と恐怖のあまり一睡も出来なかったです。

そして、この時すでに東京電力福島第一原子力発電所爆発までのカウントダウンは始まっていたのです。母が持っていたポケットラジオから、刻一刻と状況が悪化していく原子炉の状況を聞いていると、今まで感じたことのない不安と恐怖が襲ってきました。

そんな中、食料調達や給水を受ける為に子どもからお年よりまで沢山の人たちが長時間屋外で過ごしました。

3月12日の午前中頃、市内のほとんどのお店から食べ物が消えました。

震災当日は気が動転していたため食料買出しに行けず、翌日朝からコンビニ4軒、スーパー2ヵ所を回りましたがスーパーは開店しておらず、コンビニ2ヵ所で菓子パン2個、500mlペットボトル2本、菓子1個しか手に入りませんでした。

3月12日の午後から自宅に戻ることにしました。

自宅の玄関を開けると、昨日目の当たりにした悲惨な光景が待っていました。ガラスの破片などが散乱しているので靴のまま部屋に入りました。

給水は2日目から開始されましたが連日長蛇の列。

市内に10台の給水車が配備され、一世帯当たり15リットルの給水制限の中、配給を受けるために2時間~3時間待ちが当たり前でした。

給水を受けるには、自分で給水タンク、空のペットボトル、給水バッグなど、広口で15L~20Lの容量のものを用意しておき持参すると良いでしょう。

私の自動車のガソリン残量は1/4で長距離走行は不可の状態でした。

★ガソリンは、半分になったら満タン給油を!!いざというときにガソリン残量が少ないと買い回りや避難が出来なくなってしまいます。

ガソリンスタンドも閉まったままで、お店前には営業する予定が無いスタンドに開店を待つ車で1キロ以上の大渋滞が発生していました。

震災発生から約1週間はガソリンスタンドは開きませんでした。

災害救助に向かう非常車両でさえ給油がままならず救助や救援活動に影響を及ぼしました。

この時、高速道路、新幹線、JR各種在来線、空路、全てが使えず物流が麻痺してしまいました。

そして、あの最悪な事故が遂に起きてしまいました・・・。

3月12日、東京電力福島第一原子力発電所1号機の水素爆発事故です。

これからどうなってしまうのか?

全く想像もつきませんでした。

頭の中には広島・長崎の原爆投下の悲惨なシーンがよぎりました。

出来る限りの事をしようと、部屋中の窓や隙間を布テープで目張り、エアコン、換気扇は全て停止、室内でもマスクを着用しました。

目に見えない、匂いが無い、痛みの感じない放射性物質の飛散はこれほど怖いものはありませんでした。

この段階では空間放射線量も全く測定も公開されていない為、どのくらい放射性物質が飛散しているのかも分りませんでした。

このような未体験の事故が起きてるにもかかわらず、食料、飲料水は毎日探さなければいけないので外出は避けられませんでした。

ビニール製の上着を着てマスク着用、帽子を被り肌の露出を極力控えました。

発災以降は、殆どの人達は仕事どころではありませんでした。その日を生きる為に食料と水を探す未体験のサバイバル生活です。

そして自然に「共助」の気持ちが生まれました。

見ず知らずの人と物々交換をしたり、手分けして食料調達をしたり、自宅の井戸水を無料開放したり・・・。

助け合うことの大切さを改めて痛感しました。

3月15日には3号機が大きな爆発を起こしました。この時は本当に死ぬかと思いました。

親戚宅のテレビに映し出された爆発のシーンは、1号機の時と明らかに違いました。
この時、とんでもない量の放射性物質が放出されていたのを知ったのは3月末のことでした。

あの時、手元に放射線測定器が有ったら、自分の判断も行動も変わっていたと思います。

この爆発以降初期の頃、外出時に「喉の痛み」と「肌がヒリヒリする」ということが現れました。

その後、3月末に発表された3月15日の夜8時の福島市内の空間放射線量は、1時間あたり24.08μsvでした。

※上記の写真は、事故後4ヵ月後くらいに福島市内某所で地表20cmを測定した時のものです。

誰もこんな高い空間線量など知らずに、給水や買い物に並び、外で炊き出しをしたり飲食をしていました。知らなかったことによって無駄な被曝を強いられました。

ガソリンは震災から1週間後位からようやく給油制限付き(一人2,000円まで)で給油が可能になりました。この時は給油待ちで7時間並びました。

給油待ちで列を作る車に自転車に乗った男が一台、一台声を掛けて先払いを要求して立ち去るという給油詐欺も発生し、地元ニュースで話題にもなりました。

★気をつけて下さい!先払いは絶対に有りません。支払いは必ずスタンドに入って店員さんを確認してから給油に精算して下さい。

私は被災してから5日間、避難所には行かずに、自宅の一室で非常生活をしました。停電しているため、まずは冷蔵庫内の食品を先に加熱しなくても食べられるものから食べて、500mlのペットボトルお茶を2日間かけて飲みました。

今回の震災で「想定外」という言葉が連呼されましたが決して想定外ばかりではなく、平常時からの意識や備えでできる防災・減災はあったと痛感しています。

私個人に置き換えて考えても意識と備えが不足していたと反省しています。

防災は、意識することから始まります。

そして備えが変わるのです!

是非、皆様におかれましてもこの機会に家族、学校、企業において防災・減災について考えてみてください。

次に、緊急地震速報が流れたらどうすればよいかを経験をもとにお伝えします。

【緊急地震速報が発報されたら】

●慌てずに周囲の状況に応じて、まずは自分の身の安全を確保してください。自助なくして共助の心は生まれません。

速報が流れてから強い揺れがくるまでに数秒から10数秒しかありません。短時間で身を守る為の行動を取ってください。日頃から自分の居る場所で起こす初めの一歩をシュミレーションしておくことが大切です。

●屋外では、看板、ガラス等、落下物に注意すること。ブロック塀や自動販売機など、転倒、倒壊する可能性のあるものから離れること。

「意識すること」と「備え」について

①「自助」「共助」を大切にしましょう。

残念ながら「公助」は遅れてやってきます。まずはどんな事があっても自分が生き延びる。生き延びてから誰かを助ける、または支えあう気持ちと行動が大切です。

②原子力災害が発生した際の行動は慎重に。

原発立地地域または隣接県(半径100キロ以内)で震度6強以上の強い地震が発生したら、原子力災害が起きる可能性があるということを意識し、屋内退避やコンクリート屋内退避をすること。すぐに屋外にでないこと。避難の際には原発の位置から風上方向に避難すること!なるべく肌を露出しない。

③非常食・飲料水は最低でも5日分程度を目安に準備しておきましょう。
インスタント麺、おかず缶詰、果物缶詰、お菓子、チョコレート、飴などを買い置きしておくことをおすすめします。火を通さないで食べられるものがあると助かります!お菓子は子ども達が笑顔になります。糖分補給にも役立ちます。普段、自分が食べなくても備えておくことで誰かを笑顔にすることができます。非常食は普段使いできるものがあれば賞味期限の入れ替えをあまり気にせずに普段の生活で消費できます。

④ガソリンは常日頃から半分になったら満タンにしておきましょう。

いざ長距離避難をする時に車が使えずに断念しました。車のエンジンを掛けることができれば電源の供給源としても役立ちます。

⑤災害直後から携帯電話、インターネットは使い物になりません。

家族との連絡手段をあらかじめ決めておきましょう。今回の震災でツイッター、LINEといったSNSツールを使った情報共有手段が有効であると感じました。私は被災直後から家族への安否確認、職場の同僚との連絡のために携帯を使おうとしましたが、全く通じず。翌12日の朝10時ごろに1回だけ通話できましたがそれ以降また繋がらない状態が続きました。

⑥AM・FMラジオが聴けるラジオ(電池式)は必ず準備しておきましょう。

災害時の情報収集源はこれが頼りでした。阪神淡路大震災の時もそうでした。ラジオから聴こえてくる馴染みのパーソナリティーの声に安心し、励まされました。ラジオからは自分の住んでいる地域のお店の開店情報、ガソリンスタンド開店情報、水を分けてくれる個人宅(井戸水)の情報などを24時間体制で提供してくれました。

⑦非常時の現金は一人に付き5万円程度を目安に準備しましょう。
小銭もあわせて準備しておくことをおすすめします。(身近にある銀行のATMが使えなくなる可能性があります)長距離の避難が必要になった場合、交通費が発生するため。

【いざという時に実際に役立ったもの】

●新聞紙●

着火剤になる、筒状に巻いてテープ止めすると燃料になる。

●レジ袋●

2枚重ね以上でバケツの代わりに。中に新聞紙を入れて簡易枕、座布団。

●牛乳パック

切ってコップや使い捨て食器に。ロウが塗ってあるので着火剤にもなる。

●ラップ

食器に巻いて洗い物出さず。体に巻いて防寒対策にも応用できる。
注意)ラップは巻き方に注意が必要です。窒息することのない程度に。

【家族との決めごとをしておく】

●地域で決められている広域避難場所の確認。

●非常事態のとき、バラバラになっている家族が集合する場所を決める。

●勤務先・学校からの安全かつ最短の帰宅ルートを調べておく。

●安否確認の方法、家族の集合場所と名前などを記載したSOSカードの作成。

【被災から5日間を生き抜くために。オリジナル防災セットのご紹介!!】

この防災セットは、私が被災してから5日間のサバイバル生活を経験をもとに、有って助かったもの、無くて困ったものなどを私自身が1つずつ考えて作り出した、被災してから5日間を生き抜くために必要な防災グッズを45点セットにしたものです。セット内容は下記ファイルの防災セットリストで必要なグッズについて用途も含めて説明しています。下記よりファイルをダウンロードして備えの参考にお使い下さい。

最後になりますが、地震は誰にも止めることはできません!!

また、「いつ」「どこで」「どのように」起きるかわかりません。

報道でも色々な危険が迫っていると伝えられています。これをきっかけに今、各個人が「意識」し「備える」ことが重要です。いつどこで起こるかわからない「大災害」、二度と繰り返してはいけない「原発事故」、その二つを経験した私は一人でも多くの方に伝えていく「被災者責任」を強く感じています。

東日本大震災、そして東京電力福島第一原子力発電所の事故はまだ終わってはいません!!

そして皆さんが今できることを今すぐに始めて下さい。

このキオクとキロクを皆さんが家族学校職場自治会など、様々なシーンで活用していただくことにより、皆さんの防災と減災に対する意識向上と備えに繋がっていく事を期待しています。

                       令和元年5月1日  3sama

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