【勝手に便乗】どうしてひとは「好き」を伝えられないのか。
どうもこんばんは、斎藤海鈴です。
図らずも「どうして勉強が必要なのか。」という記事(※1)がマクドナルド×クイズノックの「答えのない道徳の問題 みんなで!どう解く?」の問い1「まなび、どう解く?」(※2)に便乗する形となっていました。
という事で、開き直って問い2「好き、どう解く?」の記事も書いてしまおうと思い至りました。前回はパッと閃いた考えをつらつらと書けたのに対し、今回はまだ結論が出ていない状態です。纏まりのない文章となりそうですが最後までお読み頂ければ幸いです。
(※1)
(※2)
どうしてひとは「好き」を伝えられないのか
「好き」は独り善がりに近い感情だ。
伝えるに至れない理由には2つのジレンマがある。
第一に、自分の「好き」がどういった感情なのか、見つめるのが難しい。
日本語では「好き」の一語に集約されてしまう言葉だが、わたしたちのよく知る英語では「like」と「love」の二語に分かれてしまう。果たして、現在の自分の感情はどちらなのか。片想いに苦しんでいるとしても、それは本当に「love」に近いのか。
相手が「好き」と伝えてくれた時もそうだ。自分はいま、相手にどんな想いを持っているのか。確かに好きかも知れない。でも、それが友情なのか、それ以上のものなのか。誠実であるにはどうしたら良いのか。この後ろめたさはどこに起因するのか。
第二に、相手が自分をどう思っているのか、窺い知る事が不可能に近い。
「恋は盲目」とはよく言ったものだ。何気ない言葉が自分に振り向けられたものと錯覚し、些細な仕草にどぎまぎしてしまう。あの時の言葉はどんな意図があったのか。告白したら相手はどう思うのか。視野が狭くなり、自分本位になった状態ではまともな判断など出来やしない。何気ない優しさが自分の勘違いだった、なんてことが判ったら立ち直れないかも知れない。
片想いは苦しいけれども、振られるという傷を負わずに済む。相手だって思わぬ困惑を抱く事なく、日常を続けられるだろう。(これはクイズノック山本さんの答えと同意見ですね)。
だから、ひとは「好き」を伝えられないのだ。
こんなところでしょうか。うーん、難しい。
ではでは、安らかな眠りを祈って。
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