歳差運動2-⑥

力なく手を挙げた。

古池の水面からわずかに顔を出している朽ちかけた枝のように見えたろうよ。

何の突起物もない水面に出た枯れ枝は細井教頭の目にも止まった。

「ん?…種田クン」

怪訝そうに指名した。

毎度のことだが、教頭は俺のことを君づけで呼んでいる。“先生”と呼ばれたことがない。同じ年齢でも自分の方が上だと思っているからに違いない。友だち感覚でないのは確かだ。まあ、こっちも友だちと思っていないが…

もったいぶってわざとゆっくり立ち上がった。

「えーと…日課表にある朝の読書のことなんですが…」

子守歌の旋律がかき乱されたとみえて、まどろんでいた職員全員が顔を上げた。    何を言い出すのかと呆れたような目つきで、立っている俺に注目した。

咳払いをひとつして

「前から感じていたのですが、朝の読書はマンネリ化しています。子どもたちの様子を見ているとあまり真剣に本を読まなくなってきています」

周りの反応を見ながら続けた。

「今から言うのもなんですが…この際、朝の活動を何か学校独自のものをやったらどうでしょうか?どこの学校でもほとんどが朝の読書を取り入れていて、面白くないと思います。検討願います」

言い終えて座ろうとしたときに、向こう正面に座っているおばさん先生と目が合ってしまった。 

“何を今さら、決まったことなのに…こっちは早く終わりにしてすぐに帰りたいのに…邪魔しないでくれる!”と訴えるような突き刺す視線を感じた。

「ああ、種田クン!そのことはもう決まってるはずだが…」

今度は座ったままで

「はい、私もそれはわかっています。が、校長先生も替わられたし、新しく来られた先生もいらっしゃるので、他の学校の様子など参考にしながら、子どもたちの朝の活動について少し話し合ってみてはいかがでしょうか」

今度は周りを見なかった。批判的に俺をみているのは間違いないと思った。

すると隣に座る学年主任が小声で囁いてきた。

「種田先生…去年みんなで時間をかけて話し合ってきたじゃない…子どもたちに本を読ませるのはいいことだって…今さら変えられないわよ。どうして蒸し返そうとしたの……それに、新しく来た先生が違うこと言い出して…もし変わってしまったら私たちの立場がなくなるじゃないの」

俺と同じ50代後半の女性で、この学校の古株だ。子どもへの指導力があり誠実な人柄なので、話し合いで意見を言うと説得力がある。同じ学年を組んでいるので公には反対意見は言えない立場だ。だから気を利かして囁いてきたのだ。俺と違って人間ができているよ。

間髪入れずに

「あっ、朝比奈先生!」

と教頭がうれしそうに指名した。

国語教育、図書館教育担当の30代半ばの長身が立ち上がった。

美人の譽れ高く、子どもは勿論保護者にも人気がある。高校生の頃は文学少女だったようで今でも女流作家の作品を渉猟しているらしい。戸外に出るのを嫌い、休み時間は専ら図書室か教室で過ごす。小学校教師なのに子どもと外遊びをしている姿を見たことがない。まあ、いつもスカートで学校に来ているからその気はないのだろうよ。        美貌に引き寄せられて男子教員にも人気があるようだ。               だが、俺は騙されん!贔屓など絶対にしない。というよりむしろ嫌いである。自分の大事なもの、つまり美しさを保つのが優先事項で子どもの教育などは二の次という態度が見え見えで、実にけしからん!自分のことは犠牲にして子どものためならできる限りを尽くすのが教師だろう。           まあ、人のことを言える立場ではないが…男はほぼ全員、彼女を正しく評価できていない。騙されているのだ!情けない。    その代表格があの細井教頭だよ。彼女と話していると鼻の下が伸びているのがよくわかる。そして、それをいいことに彼女は猫なで声で甘えてくる。その結果、提出書類に不備があっても怒られないし、自分好みの校務分掌を与えてもらっている。まるで詐欺師のようだ。だから俺は嫌いなのだ。向こうもそれが分かるらしく、俺のところには決して近寄らない。多分おばさん先生たちも俺と同じ見立てだろうよ。唯一一致した見解だ。


続く~