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写真を撮るのは好きだけど撮られるのは嫌いだ

自意識過剰で、43歳にもなって理想と現実の差を直視することができていないんだと思う。つい先日ライティングの練習という名目でクリップオンストロボとリモコンシャッターで自撮りしまくった(しかも深夜に酔っ払いながら)。そしてその撮影データを一通り眺めて全部削除した。時々こういう自分でも理解できないことをする。

ちゃんとしたカメラは残酷だ。リアリティを切り取り、生々しく光をとらえ、質感を忠実にするためのものだから当たり前。

さらに言えば、レンズ越しに見る被写体へのカメラマンの感情だったりが写り込むと思う。(技術的にイメージを作るのは可能だけど、そういうのは割愛)

食べ物は食べるのが好きな人が撮ると美味しそうに見えるし、女性をエロく撮るのは圧倒的に男性に上手な人が多い。(と思っている)
子供のスナップなんかはママさんが撮るとやっぱりかわいい表情が撮れる事が多い。カメラって機械だけど、撮る人と撮られる人の間柄を写し取るものでもあるんだと思う。

深夜の酔っぱらいが自撮りした写真はひどいものだった。とんでもなく疲れた顔のおばさんが顔の向きを傾けてみたり、目線をはずしてみたり。傍から見たらこれ相当キモいと思って、恥ずかしくて恥ずかしくて全部削除した。

それでも、人が撮ってくれた写真はまんざらでもないものも過去にあって、それを見たときは正直嬉しかった。私が写真を撮られてもいいなと思う相手って信頼してる人に限る。恋人だったり、仲のいい友人だったり。そしてそういう相手が撮ってくれた写真の私は鏡で見るよりずっといい顔をしている。

なのに撮られるのは嫌い。相手がどう思ってるか、私のどういう瞬間に注目してるのか知るのが怖いのかもしれない。

別れてはしまったけれど、子供の父親である元パートナーがカメラマンだった。彼はよく子供と私が何気なく過ごしている様子を撮っていた。そしてその写真の私はいつも「お母さん」の顔をしていた。彼が私に求めていた姿は母親だったんだろう。

その彼は私の妊娠中に撮影モデルの女の子に恋をして私を裏切る。そして私はその写真を使って広告デザインをした。写真の彼女は若くてキレイで彼に恋をしていた。カメラも彼も残酷だ。

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