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Bチームで過ごした日々。高校編

写真は高校時に琉球ゴールデンキングスの前座試合でアメリカ米軍基地内にあるカデナハイスクールとの交流試合が行われた当時の写真。
後に自分が琉球ゴールデンキングスでプレーするとは思いもせず、当時はプロになるなんて考えてすらいなかった。
当時はプロのコートで試合した事がなによりも嬉しく忘れられない思い出のひとつとなった。

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何もかもが中途半端だった自分に、一つの事に真面目に取り組む事を教えてくれた恩師。

3年間で学んだ物はバスケの技術でもなく、練習法、スキルでもなく"人としての在り方"を口酸っぱく教わりました。

なによりも "報告" "連絡" "相談" 体育館に入ると"報連相"の文字が。

人に想いを伝える事は凄く大切。普段の日常からコミュニケーションを取る事はバスケットボールにおいても意思疎通に繋がる。

社会人になって思った。あの頃の教訓は今になって活きる事を。

そんな恩師との出会いが僕のバスケ人生に大きく影響を与えたのだ。

安里幸男先生

バスケをしてる人なら一度は読んだ事があるだろうスラムダンク。
そのスラムダンクに登場する陵南高校監督の田岡茂一、そのモデルとなった先生が僕の恩師である安里幸男先生なのです。

安里先生の指導法はマンガの中でモデルとなった田岡茂一同様、厳しい指導で有名。数々の実績とともに無名の高校を強豪校に変える程の実力派の指導者だ。


そんな事とは知らず、まともにバスケをしてこなかった中学時代からは打って変わって高校へ進学するとビシッと決まったチームのルールや伝統高ならではのカルチャーに入学当初は慣れず、おどおどとしてたのを思い出す。

県内の実力のある先輩から同級生まで、名前を聞けば県内では、どこどこの誰と実力ある選手ばかりに圧倒されたのだ。

レベルの高い中での競争は生まれて初めての経験。

もちろん応援団からのスタートで、そんな応援団に居心地を感じていた高校1年生だった。

高校2年生になると先輩の卒業とともに人数が減り、Aチームに入るチャンスが巡ってきた。

Bチームに所属する僕は当時、定期的にAチーム対Bチームの試合が行われる中、試合の中でアピールに成功しAチームに入るも練習では上手くいかずAチームに入ってはBチームに戻され、AチームとBチームを行ったり来たりする日々を過ごす。

高校2年のウィンターカップ沖縄県予選ではメンバー入りを果たすことが出来なく再び応援団へ。

その時に感じた悔しさは今でも覚えてる。

メンバー入りを目前にメンバー落ちしてしまった僕は試合を見る気力もなくチームの荷物番をする事に。

その中である想いが芽生えた。

このまま引退したくない。

自分が3年生になるまでにAチームで常に試合に出場する選手になりたいと思った。

先輩方が引退していよいよ勝負の1年が始まった。
自分たちの代になると今までと打って変わって多くのチャンスに恵まれた。

大会に出場することの無かったこれまでとは違い沢山の初めてに出会った。
緊張する事はもちろん、人に見られる中で試合をする応援団だった今までとは世界が変わって楽しかった。

あの中途半端だった中学時代の自分が出場時間自体は沢山貰えてた訳ではないが、県内では実力のある強豪校で試合に出場する事が出来たのだ!




いい事は長続きしなかった。
Bチームで長い時間過ごした僕は、学年が上がるとともに後輩が入学する。
県内では強豪の僕たちは実力のある後輩たちが入ってくる。

その中でポジションを奪われ、再びBチームに戻る日々が始まった。
AチームとBチームを行き来する中、とうとう学年も3年生へ。

引退目前の僕が所属してたのはBチーム。

もう引退かぁ。。。

高校3年生になると、インターハイの前に地区大会がある。

インターハイ前の最後の地区大会でメンバーの登録可能人数は15名。

12名はAチームの固定メンバー。僕が入ったのは残りの3枠。
残りの3枠は6人による争奪戦。

インターハイの登録可能人数は12名。

目標は程遠いのだ。

そんな中、地区大会の初戦でアピールに成功した僕はそのまま地区大会に全試合出場し優勝へ。

インターハイのメンバー争いに名乗り出る事に成功したのだ。

ようやくたどり着いたAチーム。

無我夢中に日々を過ごしていく中で、とうとうインターハイのメンバーに入る事が出来たのだ。

高校の半分を応援団で過ごし、Aチームに行き来する日々からようやくたどり着いたメンバー入り。

高校最後の沖縄県インターハイ予選は4強には入ったものの結果が振るわなく3位で大会を終えた。

完成度は高く、今まで20点差をつけてた相手に対し60点もの差をつけて勝てるようなチームに。
チームは見違えるほど変わっていったのだが本番では力を出す事ができずに終わってしまった。

インターハイ予選では引退を選択せず、高校バスケ最後の大会となるウィンターカップの県予選に向けて残る事を決断した。

このまま爪痕残せず終わるのは後悔すると思った。


高校最後の夏休みは2部連に3部連、夏合宿とキツさは増していった。
主力の3年生は残り、戦力が落ちる事なく高校最後の大会に向けて最後の夏を共に過ごした。

いよいよ最後の大会が始まる。
負けると引退。引退と隣り合わせの高校最後の大会が始まった。
僕たち美来工科は順調に勝ち上がりベスト8へ進んだ。

ベスト4をかけて戦った僕たちは相手を寄せつけず力の差をみせ勝つのだが、僕個人は3クォーター開始で無得点、5ファウルで退場してしまったのだ。

もちろん監督はあの闘将、安里幸男先生だ。

怒鳴りに怒鳴られベンチに帰ってきた僕に「ベンチの後ろで試合が終わるまでに腕立て伏せ1000回しろ!!!!!」

僕は「これで高校バスケが終わるのか...」と思ってしまった。

試合が終わると控え場所に戻りミーティング。
試合の反省を終えると、これまで勝った事のない対戦相手、興南高校との試合に向け指揮を高めた。

ミーティングが終わると先生に呼ばれ歩み寄ると思いもしない事を言い渡された。


次の試合お前がスタメンで行くからな!

中途半端だった中学時代、高校のほとんどをBチームで過ごした3年間。

最後に待ってたのは

"初のスターティングメンバー"


落ち込んだ僕は命拾いしたと思った。
こんな形で高校バスケを終えたくない一心で気持ちを切り替え興南高校との試合に挑んだのだ。

対戦相手の興南高校には中学時代のチームメイトが同じスタメンで出場した。

試合はお互い譲らない展開でシーソーゲーム。
高校最後の試合にふさわしい試合となった。

結果は興南高校に勝ち切る事ができ、初めての決勝戦へと進んだ。
僕自身はというと、この試合で二桁得点を記録し勝利に貢献することが出来たのだ。

続く決勝戦は、今シーズン限りで現役を引退したレバンガ北海道に所属する松島良豪率いる小禄高校だった。

準決勝に続き決勝戦もスタメンに起用されるも3点差で敗れ僕たちは力尽きた。

高校最後の大会を準優勝で終え引退する事になった。

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スーパースターでもなんでもない中学、高校時代を過ごした自分が今こうしてプロの舞台で戦ってる。

その先の話はまた違う機会にでも話そうと思う。

夢を持ち、あきらめず希望に生きる。
努力は報われるけど報われないことの方が多い。
努力を辞めなかった自分は夢を掴む事ができた。

5年後や10年後の自分はどうなってるか誰にも分からないけど今を全力に生きる事は出来る。

ありきたりな言葉かもしれないけど
"過去は変える事が出来ないが未来は変えれる"

"過去の自分が今の自分を創り、今の自分が未来を創る"

過去の経験が肥しとなり力強く根を張り大きな木へと成長する。

諦めるにはまだ早すぎる。

"急がば回れ"
自分のゴールはこんなところじゃないはず。

新城 真司 #40

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