私という草は

こんにちは、今回は少し重いかもしれないです。そして完全なる自分語り。
「僕は、僕という草は、この世の空気と陽の中に、生きにくいんです。」
太宰治の斜陽の一文ですね。
最近考えていたのですが、

生きていく自信がない。今は学生だけどいつか私は自分で生きていくしかない
のだけれど生きていく自信はない。
なら、なぜそう思うのか。
自己肯定感が低いからだ。
自己肯定感を低くしてしまっている原因は何か?
そこまで考えました。(そこから進まなかった。)けど最近わかったので記録と整理用に書きますね。
(ここからタメ口)

私は小さい頃から「無意識」で人に対する性格を分けていた。
完全に無意識。(もともと思考するより体が先に動きやすい)
例えば三者面談にて
先生「あめさんは、しっかりしてますよね」
母「いや、そんなイメージはあまりないですね。家でもリラックスしてて。」
先生「オンオフ切り替えられててすごいですね。大人でも出来ない人いますからね」
みたいな。
大袈裟に言うと今までであった人数分の人格が私の頭の中にいる感じ。
大きく分けるとしたら
公の皆が知ってる私、家の私、誰もいないときの私。大体この3人。
全くの別人に見えるくらい変わるわけでは無いし、無意識だからそこまで疲れるわけではない。だから優しくする人を選んでるみたいで私的には自分が気持ち悪い。
それで、私の中のジャッジを下す者も複数いるみたいで、
A「こんなめんどくさい性質を持ってる私を誰もわかんないんだろうな、理解して欲しい」
B『誰にもわかってもらえなくて良い。私が私の扱いを覚えてたら良い。』
C[そんなことより、あれが気になる。そんなんどうでもいいわ。]
船頭多くして船山に上っちゃってる感じ。
他にも今年の1月色々やらかしてて本当に罪人みたいな(法を逸脱した訳ではない)自分は、もともとの友達とかと今まで通りにする権利、価値がないと思っていたのだが。
一人になれば落ち着くかもしれないって。
(だから今までの子達とは縁を自分から切っちゃった。そんな身勝手な自分も気持ち悪い。)

多分そうではなくて。
私は自分の事を心の奥底で許せていないのだ
と気づいた。(だから一人でも意味ないかも)
人を選んでしまう自分が許せない。
自分勝手な自分が嫌い。
利他的に出来ない自分が嫌い。
めんどくさい性質の自分が気持ち悪い。
エトセトラ、エトセトラ。

基本的に逃げ癖がついてしまってるので
私は自分自身の正当化しているつもりでいたので、完璧主義の欠片を持っていることに少し驚いている。
でも、きっとそうなのだろう。
小さな頃は結構「できる」部類だったと思うから。プライドはかなり高い私だから。
きっとそういうことなのだろう。

他人が知ってる私と、私が知ってる私はきっと別人だから、自分の本質は自分が一番分かるようにこれからも綴っていくので、よかったら覗いていってください。
ではまた。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?