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生まれ変わりとグループソウルの概念①

ツインレイ、ツインソウル、ソウルバディ、ツインフレームにソウルメイト、グループソウル…

みえない世界、スピリチュアルの学びを始めようとすると、とにかくカタカナが多い。
これはなぜなのでしょうか?

日本人のスタンダードは世界が持っていない考え方だった


そもそも日本人は「八百万の神」という、森羅万象全てのものやこと(出来事)、小さな虫や動物たちにもみな意志があり魂があるのだと古来より信じ敬い、みえない世界、そしていのちを大切にしてきました。

(ちなみにこの「みえない世界」というのは、私たち人間の細やかな感情の機微、空気や雰囲気のようなものも含めてです。長くなるのでここはまた別の機会に。)

一方で他国に見られる教えでは「人は生きているだけで罪人。神なる存在とは全くの別物」「牛や豚といった存在も人の為に作られた」という考えが根付いている地域もあるのだそうです。

一緒にゴミソ修行をしている世界9か国くらいの仲間がいますが、日本のように「みえない世界」に誰もが近く、受け入れられているという文化は世界でも稀なのですね。
インドやアフリカは日本に近いものもあるようです。

八百万の神という感覚は、個における肉体の外側にいる神のことはもちろんのこと、自身の中にも神が宿るという内なる神、精神、そしてそれは他者においても同様なのだということに繋がります。

(例えば神様たちのメッセージは「他者の口を介して告げられる」こともあるのです。そしたら私たちも横にいる誰かも、いつの間にか神様役しているときもあるんですね~。)

どういうこと?神が自分に宿る?教祖!?怖い!というのは誤解です😂
「神社になぜご神体で鏡が置いてあるのか」というのはあまりに有名な話ですが、「かがみ」の中の「が」=「我」、エゴをとると「かみ」=「神」になるのだよ、という内容です。

私たちのなかにいつでも「神様」の要素はあるのです。
ただし常に、または全員が「我を捨て神になる」必要もないと思っています。

だって、「肉体」を持ってわざわざ「人間」として生まれたのですから、エゴすらも体験なのです。
「人間」という感覚、そして本来は自分自神も愛そのものの存在であったということを忘れずに、『いまはどちらの自分を楽しもうかな?』くらいになれるといいですね。
私たちはいつだって自由です。
何事も「選択肢の一つ」なのだと覚えておきたいところです。


話を戻しまして、

日本人が肌感覚で、DNAレベルで持っている「私の内にも神がいて、外にもいて。自分も相手も、大切で素晴らしい」というものは海外にはないのです。

修行の中で、「神様たちと親しくなりなさい」「同じ目線になるんだよ」というものがありますが、これが海外の仲間達には難しい。

だって「私たちは罪人」なのだから「神だなんて存在とは世界が違う、そこにいけるわけがない」みたいに苦しいわけです。

その苦しさがあるからこそ、
「じゃあどうやったらその神という存在に近づけるんだろう…」
と学ぶ過程が生まれ、多くの「スピリチュアル」とされる「ことば」が生まれたのだと感じます。

日本人は、本来誰もがその「学び」すら不要で、誰もが感じていた「みえない世界」でした。縄文時代やその前までがピークだったのかもしれませんね。

時代が進むにつれ、段々「みえない世界」との繋がりは失われていきました。
きっと、忙しくなったのですね。

「空を見たり」「海で遊んだり」「山に感謝したり」。。

やることが多くなって、心を亡くし、本来の精神が薄まったとでもいうのでしょうか。

日本人は改めて「みえない世界」との繋がりを求め学ぶ人が増えてきました。
そこで見つけたのが海外で学ばれていた「スピリチュアル」なのです。

みえない世界を言語化することは非常に難しいことです。
この作業は翻訳に似ています。

同じ映画でも人によって解釈が違う、使う言葉がちがう
同じ言葉でも人によって受け止め方、時代によって意味が変わる、

のように定義がどんどん変わり、枠が存在しないのです。

先入観や穿った価値観を持たず、また多くの「体験」や「あり方」を選択肢として持っていることが物事や感覚を「曲げずに」受け入れることに繋がります。

このことを念頭に置いていただきながら、続きの本題を楽しみにお読みいただければ嬉しいです。

(前置き長くなっちゃった😂)


マスターライトワーカー
横山椎乃(しいな)

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