立場をふりかざす愚かな器の小さな人間
昼に投稿したムービーについて、アンサーのようなことを書きます。
自分の思い通りにならないからといって、罵詈雑言を浴びせてくる人がいる。なぜ、そのようなことになったのか、考えを及ぼすこともない。
物事は相対性を持っていることを知らないのか、それとも認めたくないのか理解に苦しむ。
いま起きている事象を相手の行動のみによってもたらされたものだと信じてやまない人がいる。
相手の行動は自分ありきのものであること、相手が思うように動いてくれないのであれば、自分から何らかの働きかけをする必要があること。
というか、「自分から何か働きかけをしてみようかな。」と考えてみることが人間ができる術(すべ)である。
べき論という言い回しがあるが、勝手に相手の立ち位置を定義付けて、「年下ならこうすべきだろう」とか、「お客さんにはこう接するべきだろう」とか、一体何を言っているんだと思う。
仮にべき論で物事を推し量っていくのであれば、そのべき論に当てはまっていない自分を疑った方がいい。
「なぜ相手は年上の自分に敬意を示さないのか」「なぜ、お客である自分にこのような態度をとるのだ」ということだ。
基本的に人は誠実かつ真っ当に生きていきたいと考えているということを軸にしていれば、自己本位な思考に陥ることはないのではないか。
コミュニケーションの欠落
そういう時は、だいたい得てして会話の量が足りない。
自分が生きてきた、たった数十年の経験で物事を判断できると考えているというところに大きな落とし穴が待っている。
小説家吉川英治が残した、我以外皆我師という言葉があるが、他人は自分を知るためのかけがえのない存在であるということではないだろうか。
他人から不慮な扱いを受けたのであれば、自分はどうすれば良かったのか。と、行動を振り返ってみて反省をしたほうがよっぽど健全だ。
今回もこのようなことを書きつつ、相手から罵詈雑言を浴びせられた経験をもとに、僕は何ができたのだろう。
罵詈雑言を浴びせるということは、その人は傷ついているのだ。
悲しくて、やるせないから、怒りとなって表れる。
どうしたら、相手を傷つけることなく自分も傷つかずにすんだのだろうか。
自分が傷つきたくないから、相手を傷つけているようでは、まだまだハナタレ小僧だよ。
人として胸を張って生きていくなら、矛盾と向き合って八方よしの結果になる努力を怠ってはならないと、僕はそう考えている。
それでは、今日はここまで。
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