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「勉強したなら当然」微分積分はマスターできる、のでしょうか。

「子どもが川に落ちて、その後濡れたまま買い物に連れて行った」夫のエピソードが、いいねをあつめていました。その夫はASDなのだそうです。

「ASDだから」川に落ちた子どもをそのまま買い物に連れて行った、とは、よく見ると書かれていない。「すべてのASD者」が、川に落ちた子どもをそのまま買い物に連れて行く、わけではないでしょう。わたしだったらどうかな。わたしも、その想定外にはパニックで固まりかねません。たぶん「夫に電話をかけて指示を仰ぐ」になるだろう、と思います。予定を変更して帰宅一択、となるかどうか、どうも自信がない。

いろいろバリエーションはあれど、「その状況で【正しく】ふるまえる自信がない」ASDの人はわたしだけでなく、複数いるようです。「非難されている行動は、自分だって絶対とらないとはいえない」と感じていて、その非難が自分に向けられる可能性を感じ、そして不安になっている。非難が、できないこと自体についての非難ではなく、道徳的な、人格的な非難に及ぶことを、恐れている。わたし自身は怖くて仕方ないです。わたしだけじゃない、と思います。

「愛しているなら当然」できる、という行動が、ほんとうに「当然」なのか、というのは少し疑問があります。

「勉強したなら当然」微分積分はマスターしましたよね、と言われても困りますよね。「微分積分のテストの順位は、数学に対する熱意の順位とイコールである」と言われても困りますよね。困らないかな。

一緒にするな? うん、そうですよね。一緒にしないのがいいですよね。

微分積分を当然マスターできる側が少数派だから、「勉強したなら当然」微分積分はマスターしましたよね、とは誰も言わない。でも、微分積分を当然マスターできる側が多数派ならどうでしょう。「勉強したなら当然」微分積分はマスターしているはずで、マスターしていないのならそれは、微分積分の勉強をさぼったからだ! というわけで勉強した事実をなかったことにされて、しんどくなる人は…… いますよね。いないかな。

じっさいには、「勉強したなら当然」(高レベルの)微分積分はマスターしましたよね、が通ってしまう集団というのはたまにあって、そういう集団に身をおいていたことがあります。数学苦手なのでしんどかったです。少数派はしんどい。

わたしなど、何をどうやってもできないことが多く、何をどうやってもできないことについて、やる気の問題、努力の問題、工夫の問題とされて責められたり自分を責めたりした過去がありますので、「やる気があれば当然」「愛情があれば当然」これはできるはずだ、できないとしたらやる気や愛情が足りない、というフレーズには、その「当然」が自分には可能なことであるケースであっても、ついつい身構えてしまいます。

トラウマ案件かもしれませんね。1日3時間以上をさかあがりに費やす、を半年以上続けて、それでもクラスで自分だけさかあがりができない、そしてやる気を責められる、自分でも何がいけないかわからないというのは…… トラウマになりませんかね。

さかあがりについては、いま思えば協調運動障害なのでした。障害名が明らかになり、わたしの心はとても、平穏になりました。

じつをいうと当時、努力していることだけは、周囲には最終的には認められたんですよね。誰の目にも明らかだったから。「理由はまったくわからない、しかし、彼女にはさかあがりは不可能らしい」と、受け入れてはもらっていました。半年かかりましたけどね。

たとえばADHDの人など、「どんなに対策を尽くしても、どうやったって遅刻がゼロにできない」人はいます。「やる気があれば遅刻はゼロにできるだろう! やる気が足りない!」と言われたら、たぶん困るでしょう。言ってる側は、やる気があれば遅刻はゼロにできるとして、言われてる側は、そうではなかったりする。

何をどうやっても遅刻がゼロにできない人は、遅刻が問題にならない職業に就くほうがたぶん自分も他人も楽ですよね。何をどうやってもさかあがりができないわたしは、小学校の体育の先生にはなれません。「何をどうやっても」どうにもならないことはあり、それはそれで、なるべく避けて生きていければ、それに越したことはない、ように思います。

そうはいっても、避けられないことはある。どうしたらいいのかな。避けたくないこともありますよね。どうしたらいいんだろう。

ここで難しいのは、これを「できるけどやらない」人と区別するのはとても難しい、というところです。わたしだって、さかあがりが「何をどうやってもできない」と自分で納得するまで半年以上かかりました。周囲が納得するまでにも、やはり、半年以上かかりました。誰がどう見ても努力はしていて、時間をかけていて、それでもこれです。想定外の事態を納得するのは、とても難しい。ASDであろうとなかろうと、です。

上記の通り、想定外の事態を納得することは難しいとしても、努力している姿勢を見せれば、少しは時間的猶予が稼げるかもしれない、と思ったりします。「努力している姿勢を見せさえすれば」腹立ちが収まる、とおっしゃる方もときどきいますよね。どのくらいの時間が稼げるかは、想定外レベルや被害レベルにもよるでしょうけれど。

アピール大事、というと怒られるんですけどね。でも、わたしを含め、アピールが絶望的に苦手なASDの人はいるように思います。努力も謝罪も、そこに存在するとしても、必ず認識されるとは限らない。それこそ、多くの人は、努力すれば、謝罪すれば周りに覚知されるとしても、それが覚知されづらい人たちもいるわけです。多少、意識的にトレーニングすると人生楽になるかな。どうでしょう。わたしは楽になりました。アピールは悪いことじゃない、いまはそう思っています。

アピールが多少は上手になったいまでも、何かができないこととやる気や愛情が結び付けられているのを見るとどきっとします。それが自分に向けられたものではないとわかっていても、怖くなります。トラウマ案件です。わたしの問題なんだけど、でも、過剰反応しがちです。こういう文章を書いたりも、たぶん過剰反応なんですよね。こうやってある程度気持ちの整理を必要とする、程度には動揺しています。わたしについて言われたわけでもないのにね。

実害が出ているのに開き直るな、と言われるのかな。そうかもしれません。

さかあがりのたぐいのトラウマ案件を多数抱えている身としては、「みんなができることはわたしもできる」人がちょっとうらやましかったりします。「みんなができることはわたしもできる」というのが、多数派ってことですよね。そういえば。


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