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「自分のせい」と「傷つく権利」


不作為バイアス

不作為バイアスという言葉があります。何かをして失敗する(マイナスの結果をもたらす)よりは、何もしない方がましと考え、不作為(何もしない)という選択肢を選んでしまうという人間の思考の傾向です。

ワクチンとか典型的かもしれませんね。子どものころに接種する、はしかなどのワクチンによってはしかにかからず助かっている人が多いことは、ワクチン登場前にはしかで亡くなる子どもが多かったことから明らかであるはずなのですけれど、一部の人は、「はしかワクチンで悪い目にあう(副反応)子どももいる、自分の子どもをわざわざ悪い目にはあわせられない!」とワクチンを拒否する。

人工呼吸器もそうです。「つけない」「はじめない」は罪にならない。「つけたあとはずした」は、いろいろと手続きを踏まない限り、罪になります。(最近は、「一度つけたら絶対はずせない」ではなくなったようです)

自分が余計なことをしたから?

自分がやったことで、悪い結果がおきることはときどきあります。他人への被害や迷惑はさておき、その悪い結果によって、自分が傷つくこともある。積極的に害をなそうと思ったわけではなくても悪い結果につながることはあります。良かれと思ってやったことだけど、みたいなことはしばしば起こる。

自分の行動の結果自分が傷ついた場合、自分を責めて余計にしんどくなるんですよね。そういうことしなきゃよかった、という後悔はいうにおよばず、自分で行動しといて自分で傷つくのは自分がおかしいあるいは自分に傷つく権利はないみたいに思ってしまう。傷ついている自分を否定しだすと立ち直りに時間がかかるように思います。

やらない後悔よりやった後悔のほうがいい、みたいはフレーズをいろんなところで見かけるんですけれど、たぶん、このへんの、自分を責める件とか不作為バイアスとかがかかわっているんだろうと思ったりします。自分が行動してわざわざ悪い結果を引き起こすのは、怖いですからね。

わたしのせいじゃない、というパワーワード

自分のせいじゃなくても、悪い目にあうことはあります。災害とかもらい事故とか典型ですかね。拡大解釈して自分を責める人がときどきいるとはいえ、少なくとも周囲から見れば、その人はちっとも悪くない。そのひとのせいじゃない。

自分が余計なことをしたから悪いことが起きて自分を責めて止まらないときに比べると、この、「わたしのせいじゃない」というのは救いになりえると思います。だからこそ周囲も、「あなたのせいじゃない」と声をかける。裏を返せば、「あなたのせいじゃない」と言い切れないとき、わたしたちはかける言葉を見失いがちです。他人に対しても、自分に対しても。

せめて傷つく権利を、でしょうか

繰り返しになりますけれど、自分の行動の結果自分が傷ついた場合、自分で行動しといて自分で傷つくのは自分がおかしいあるいは自分に傷つく権利はないみたいに思ってしまいがちです。

それは傷つくよね、と、認めてもらうだけでも、直接でなくても似たケースについてそう認めてもらうだけでも、あっさり救われてしまったりするんですよね。傷つくのは自分がおかしいと、そんな権利がないと、傷を認めることすらしなかったら、その傷は治り始めることすら難しいですから。

渦中にいないときによくよく考えてみれば、自分が原因であったとしても、傷つく権利自体はある。それを声高に叫んでいいかどうかは別ですし、自分の行動によって生じた被害や迷惑への対処をそれで減らしていいというわけではないにせよ、です。だから「傷つくのがおかしい」「傷つく権利がない」とかではない。被害への対処は被害への対処として、自分のなかで、傷ついたな、と振り返る権利は常にある。

最近やらかしましてごちゃごちゃ悩んでいたことについて、全然別の人が似たケースについて「そりゃあ本人も傷つくでしょうよ」と書いていたツイートに、勝手に救われていたのでした。ツイッターを見ていると精神的な健康をそこなうという記事も見かけましたけれど、救われることも、なきにしもあらず、ですね。

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