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生きていたんだよな、綺麗な言葉も届かない遠くで遠くで

どうも。くずです。
午前4時過ぎ、
生理痛の重みに
瞼がどうしても閉じてくれなくて、
セックス・ピストルズの
荒々しいビートで
脳味噌を濡らしていた。
体育座りしながら
シドのチェーンかっこいい~レンだ~
とか静かにはしゃいでいると、
ある曲をYouTubeで見つけた。
あいみょんの「生きていたんだよな」
今日は、自殺と「綺麗事」について
話そうと思う。


Yahoo知恵袋に、こんな質問があった。


あいみょんの「生きていたんだよな」という曲に

「今ある命を精一杯生きなさい」なんて綺麗事だな。

という歌詞がありますが、これは本当に綺麗事なのでしょうか?
病気・戦争・飢餓・虐待など、生きていたくても生きられない命があります。それを考えると綺麗事ではないと思ってしまうのですが。


これに対して
「あなたが正しい」
「何でも綺麗事にする風潮が嫌い」
「死ぬ勇気をもつ位なら、生きる勇気をもて」
などなど意見が寄せられていた。

正しいのかもしれない。
でも、「正しい事を言う事」って本当に正しいんだろうか。
この曲は
実際に起きた
とある少女の死が元になっている。
去年の七月に
ある女子高生が飛び込み自殺をし、
その様子がネットに生配信された。
彼女はTwitterで
親から虐待を受けてきて、
彼氏にも無理矢理ピルを強要され
妊娠した後音信不通になった、
という内容の書き込みをしていた。

彼女が
「生きたくなかった」だなんて、
誰が決めたんだろう。
環境が違えば、彼氏がクズじゃなかったら、
親がクズじゃなかったら
「生きていたい」と思えていたかもしれない命、
彼女こそ
「生きていたくても生きられなかった命」
だったんじゃないか。
生きる勇気を持てない程
生に打ちのめされていたから、
自分で死ぬことを選んだんだよ。
誰も頼れる相手はおらず、
ひとりきりで自分の人生を
お腹の中に宿った人生を
抱え込み、迫り来る選択の中で決断をした。
そんな彼女なりの「今ある命への精一杯」を
誰が否定できるだろうか。
身に余りある苦痛を背負い込まされ、
耐えて、耐えて、途方に暮れた子供へ
「精一杯生きろよ」なんて言って
クソ程も役に立つだろうか。

「死ぬことに勇気なんて要らない」

でも
電車に飛び込んだり
手首に鋭利な刃物で突き刺したり
高いビルから何十㍍も下へ飛び降りたり

そんな恐い事も恐いと思わない程怯えている苦しい人生に
今まで耐えて、耐えて、耐え忍んできたことは
物凄い強さだ。
彼女は強く強く耐えて

生きて生きて生きて生きて生きて
生きて生きていたんだよな。

そうやって精一杯生きてきて、
とうとう死んでしまった彼女に
「もっと精一杯生きろよ」だなんて
お門違いも甚だしいんじゃないか。
彼女の人生を誰も認めてこなかったから、
彼女はここまで追い込まれたんだ。
せめて
「今までずっと一人で抱え込んで
生きてきたね、よく頑張ったよ。
でももう背負わなくていいよ、
あなたが死ぬことなんてないよ、
死なないでよ」と言って
背中をさする位はするべきだったんだ。
「正しい」事を叫ぶことが常に正しいとは
限らないし、むしろこの場合残酷だ。
人間の醜くて狡くて最低で汚い部分ばかり
見せつけられて、ぶつけられてきたのに
「今ある命を精一杯生きなさい」
と言われて
「きれいだなぁ」と思わずにいられるだろうか。
だって、きれいじゃないか。

けれど、わたしは
綺麗事を言う事は大切だと思う。
どんなに言葉をかけても
全部綺麗事と
背を向けてしまう位に、
皆疲れきっている事が悲しい。
わたしが精神科病棟へ入院していた時
看護師さんから
「綺麗事を言えなくなったら、
もっと駄目だよ」
と言われたことがある。
わたしの周りには
綺麗事とは遠く離れて
いつも不安と絶望と諦めの殻に
閉じこもっている大人しかいなかった。
希望を抱けるモデルがいるかどうかで、
大分違う。
こんな言葉じゃ届かないかもしれない、
こんな言葉じゃ役に立たないかもしれない、
それでも
「今ある命を精一杯生きなさい」
と声を張り上げなくてはならない。
この言葉を誰も言えなくなったら
その時が真の絶望だ。

子供の首を絞めて、殺しかけた人間が
何言ってんだと思われるだろうし、
自分でも思う。
わたしにこんな事言う資格なんてない。
それなのに、
彼女の死を知ってあの曲を聴いて
涙が滲んできて、
「今ある命を精一杯自分で絶たずに
生きられる」ように
綺麗事を絶やしてはならないんだ
と感じてしまった。
くずの言葉でごめんなさい。

でも、どうか、
死なないで。

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