お前らが英語教育改革とか呼んでる当たり屋行為にせめて僕らを巻き込まないでくれ

注意

この note はまだ書き上げていない未完成のものです(随時追記していきます)。本当はだいぶ前から書き始めていたのですが、筆不精がたたってこんな時期になってしまいました。

なぜこんな中途半端でお粗末なものをこの時期に公開したかというと、2019年6月8日現在、大学入試における英語民間試験の採択に対し、反対の意を示す署名活動が行われており、本稿で問題視している英語教育のあり方について注目が集まると思ったからです。

このコントロバーシャルでありながら世間の目にはあまり触れていない問題に対して、末席も末席ながら当事者となる大学入試共通テスト元年世代の高校生である私の意見やスタンスをしっかりと示しておきたいと思い、このような決断に至りました。

上記の署名活動は今現在まさに行われています。もし今回の入試改革、特に英語科の民間試験採択に反対意見をお持ちの方は、こちらのサイト、または私のツイートから署名についての詳細をご確認いただき、是非ご協力いただきたいと思います。

また、今回の入試改革の影響をモロに受けることになる現高2、高1世代には特にこの問題を深く考えていただきたいです。自分たちが受けさせられることになる試験やそのための勉強が本当に名実をともなっているのか、ぜひ客観的に判断してみてください(僕は残念ながらその判断の助けになるほど立派なことを書いてはいませんし、書ける能もありませんが)。そしてもし可能なら、ご学友とともに上記署名にご参加いただければ幸いです。

はじめに

本稿は、社会性やらなんやら全部かなぐり捨てて勉強に全振りした(←ほんまか??)はずがその勉強の成績すら振るわないとかいう社会のお荷物でしかない筆者が、唯一語れそうな「英語」という科目について思考したことをでろでろ無節操に垂れ流した文章となっておりますので、そういった無責任な文章がお嫌いな方はブラウザバックのほど。

なお、本稿はこちらの記事(「文科省の迷走から学ぶ 日本人の西洋コンプレックス」)に多分に影響を受けた劣化版となっておりますので、こちらも是非ご参照ください。多分そっちの方が文章がうまいので読みやすいと思います。

「英語教育改革」と狼少年は叫んだ

はい。思考をでろでろ無節操に垂れ流すとか言いながらこんな厨二くさい気取った見出しをつけてしまいました。2分くらいしっかり考えてこの見出しをひねり出した僕を存分に馬鹿にしてください。

しかし現状はまさしく狼少年に踊らされている村人である。

本屋の「高校参考書」コーナーを見てみよう。「4技能」「新テスト」と申し訳程度に題された薄っぺらい参考書のなんと多いことか。普段ならこんなものを時代の流れに飲まれて作らされる人々に想いを馳せ涙するところなのだが、教育改革・新教育課程がらみの本にもなるとその裏でほくそ笑む編集者の顔が見えるので複雑な気持ちになってしまう。

こういった「カリキュラム一新」「新制度導入」のような事態になり、全く新しい新天地がひらけると、さながらワイルドウェスト、北米西部の開拓地よろしく、新生活の希望とともに暴力、搾取、なんでもありの無法地帯がコンニチハするのが世の常だ。右も左も分からないときに手を差し伸べてくれたいい奴が現れたと思ったら、実はそいつは死に体の動物の血肉を貪るハイエナだったなんてことも往々である。この意味でも、真に受験はサバイバルなのだ(偽)。

だいたい、教育の現場よりもその「おこぼれをもらっている」地位にあるはずの出版業界や予備校業界(いわゆる「受験産業」)のほうが質の面でも露出度の面でも台頭しているような日本でいくら教育改革だの叫んでも同じような結果になるだけではないのかと疑いたくはなる。(新課程の導入で高校生には自在に座標軸を回す術がなくなった話など、いろいろ関連事項はありますが省略

さて、「狼少年に踊らされている」とまで書いて各業界にさんざん喧嘩を売るような書き方をしたがそれはなぜか。直接的な原因を言ってしまうと、学校法人っぽい名前をしていながらそうじゃない、桃屋のラー油みたいなややこしい内情をしている某予備校・T(当該予備校の名誉のために付記するが、塾長が盗撮魔で有名な通称「金を取る自習室」でおなじみの学習塾・Tとは別の予備校だ)のやり口を見たのが原因である。

詳しいことは書かないが、当該予備校は数年前から所属講師のメディアなどへの露出が激しいことで知られている。そしてこの予備校はこの英語教育改革の黄金時代()に乗じて、あろうことか所属する目玉講師がこの教育改革に関する文科省の審議委員会の委員に選ばれていることを売りに、さながら彼を「4技能教育の第一人者」といった口ぶりで祭り上げ、講演やら授業やらで引き回し、宣伝材料にしているようなのである。

いや、それはまずいだろ???

ここで一応弁護しておくが、筆者には上記「目玉講師」を個人攻撃する意図はない。彼による講義形式の講演に参加したこともあるし、彼の主張は様々な映像・文章を通じて目にしている。それを踏まえても、彼の理念自体には共感する点も多く、少なくとも「語学」全般においては彼は実力・指導力ともに優れた講師といえるだろう。(「言語学」の観点からは物申したい点がいくつかあるが)

しかし、しかしだ。「はい改革しますよー、急な変化に驚くかもだけど適応の仕方は僕が所属してる予備校がバッチリ対策してカバーしてるからね」って、それはさすがに癒着と取られても文句言えんだろ。それはもはや狼少年さながら、もっと言えば自分から車にぶつかっておいて治療費請求する当たり屋的行為に近いのではないか。たとえ彼個人にそんな意図がなかったとしても、彼に簡単にそんなことを許してしまう今の教育業界の職業倫理(?)的な基礎は非常に脆弱と言わざるを得ない。

こんなわけで、この「英語教育改革」とかいうヤツは、どうしても筆者には受験業界ばかりを潤わせる独りよがりの改革なように思えてしまうのである。教育改革なんぞというのは、そもそもその性質上十数年レベルの時間がかからなければ効果が実際に出たかどうかはわからない。しかしその十数年の間、実際にその新制度に振り回されるのは数百万に届こうという実在の中高生なのだということを忘れてもらうわけにはいかない。実験的にぽんぽんと変な大人の都合でこういう改革をやられては困るのだ。

謎の大帝「ヨンギノー」

さて、ここからは「英語教育改革」と題されている改革の内容について具体的に見ていこう。

今回の英語教育改革において、世間一般でも比較的大きく取り沙汰されている要素といえば、英語教育そのものの方向性・コンセプトのシフトを象徴するといわれるキーワード、そう、「4技能」である。いわく、英語に直せば「4 skills」だっせえ、という率直な感想がのどから飛び出そうであるがこらえよう。この用語自体は日本だけで使われているガラパゴスな単語ではなく、言語教育においては世界的によく用いられるものであるらしい。

そもそも「4技能」とはなんだろうか?「リスニング・スピーキング・リーディング・ライティングの4つからなる言語習得における技能のこと」、その説明は確かに正しい。しかし、その4つの技能(skill)はいったいなにを目標としたときに必要とされる技能なのか、読者諸氏はきちんと理解しているだろうか。英語4技能試験の公式サイトを見てみても、

英語4技能(聞く、話す、読む、書く)を積極的に使える人材を育てることは、社会全般の課題です。

などと漠然と書いてあるのみで釈然としない。

そこで、検索サイトで「four language skills」などと検索してみると、言語習得における「4技能」という概念がどのような役割を果たしているのかがはっきりしてくる。この記事によれば、

The four skills of language (also known as the four skills of language learning) are a set of four capabilities that allow an individual to comprehend and produce spoken language for proper and effective interpersonal communication.
These skills are Listening, Speaking, Reading, and Writing. In the context of first-language acquisition, the four skills are most often acquired in the order of listening first, then speaking, then possibly reading and writing. [...] if you’re an educated native speaker of a language that also has a writing system, then you already possess all of these skills, and likely developed them in the above order.

とある。

なるほど。つまり「4技能」とは、「ある(表記体系が確立している)言語の母語話者と同レベルで会話のキャッチボールを行えるようになるために必要なコアな4つの要素」ということだな。

注意しておきたいのが、ここでいう「会話」のレベル感である。外国語で「コミュニケーションをとる」「会話のキャッチボールをする」とかいうとき、日本人という生き物はともすれば「人間という同種族に属する生物として最も本能的で非文明的な意思疎通」に至るまで「コミュニケーション」のハードルを下げたがるのが特徴だが、いわゆるエーカイワでよくあるような「トーキョーエキハドコデスカ」「コレオイクラデスカ」なんてのは上記の「会話」のスケールに比べればごくごく最小限のスキルでしかない。

学術的な議論やビジネスの商談ができたり、はてはジョークで笑ったり、逆に他人の笑いを取るにいたるまでその言語でできて、初めて「母語話者と同程度の会話」といえるのだ。そりゃあそこまでやるにはリスニングやら発音だけじゃなくて読み書きもきちんとできなきゃお話になりませんわなあ。ちなみにこの観点で言えば、デーブスペクター氏がかなりわかりやすいと思う。氏のツイッターは面白いので一度見てみるといい。

ちなみに先ほどの記事は以下のようにも述べている。

You should learn all four skills if you want to have full access to the language as native speakers do. [...] Depending on what you wish to accomplish with your target language, you may need to learn one or two of the skills, rather than all four.
For example:
Those who wish to listen and understand spoken language can learn through books, courses, and lots and lots of both intensive and extensive listening to native audio. This is common amongst conference interpreters.
Those who wish to speak languages with complex writing systems can sidestep the need to read and write by relying solely on romanization.
Those who wish to read literature of a specific language can practice solely through books and vocabulary lists, without ever needing to speak to a native.
Those who wish to write in a foreign language can just practice making and imitating the symbols. This is especially common amongst calligraphers.

つまり、言語習得の目的によっては別に4技能の全てを同時に向上させることは必ずしも必要ではないが、言語を「言語」として、すなわち思想や感情を伝達する道具として学びたければ4技能をバランスよく身に付けることは重要ですよ、ということらしい。まあ確かに、言語を言語として学ぶのは大事である。文字がかっこいいとか言ってただただ書き写してみたり、発音が面白いからってタモリさながらの物真似に勤しんだりしているだけでは言語を道具として使いこなすことはできないだろう。

つまり「4技能教育」の理念とは、(超好意的に解釈すれば)「『英語』を受験のために存在するある1科目ただの記号としてではなく、いち言語として学習する意識や習慣を生徒や教師のなかに涵養すること」にあるといえそうだ。

「英語なんてことばなんだ」

ここで少し横道にそれよう。

章題はある英語講師の言葉である。原文は「やれば誰だってできるようになる」と続く非常に有名な一節で、私も一部支持しているキャッチフレーズだ。

先ほど僕も「4技能教育」の理念を考える際「言語を「言語」として学ぶ」や「1科目や記号ではなく、いち言語として英語を学ぶ」といった表現を用いたが、このように英語教育について語るとき、いわゆる識者たちは「英語は言語だ」という一見して当たり前の命題を述べがちである。

しかし、おそらくそれを聞く一部の一般大衆は聞くたびに「そんなことは知ってらい、俺らが英語が食いもんだと思ってるってのか」と憤慨しており、それを聞いた識者たちは「お前らが何度言っても英語を言語として勉強しねえから言ってるんだろうが」と呆れている。こうした永遠に互いを理解できない地獄のパラレルループの終着点に、現在の日本にはびこる「エーカイワ=ヤ=サン」や「エーゴ=キョーイク=カイ=カク」といった誇るべきクールジャパンのサムライ文化が存在するのである。いやはや、この国は美しい。散る桜の儚さにも雅を見いだした古来のひとびとの心が舞い降りてくるようだ。

では、「英語は言語(ことば)だ」とひとが言う時、そのフレーズは一体何を意味しているのか?冒頭の「英語なんて言葉なんだ、やれば誰だってできるようになる」を適宜引き合いに出しながら、これについて考えてみる。(なお、この先「言語」というとき、プログラミング言語における文脈での言語は考慮しませんのでご了承ください)

まず、言語(ことば)とはなんだろう?ここでガチ勢は「ソシュールの言語観によれば〜」などと語り始めるのだろうが、僕にそんな深い知見は存在しないので、涙目で大辞林を引用させていただくと、

ことば【言葉・詞・辞】
① 人の発する音声のまとまりで,その社会に認められた意味を持っているもの感情や思想が,音声または文字によって表現されたもの。言語。
げんご【言語】
① 思想・感情・意志などを互いに伝達し合うための社会的に一定した組織をもつ,音声による記号とその体系。また,それによって伝達し合う行為。音声によらない手話や文字の使用を含めていうこともある。ことば。

とある。

なにやら色々書いてはあるが、この記述から僕が抜き取って強調したいエッセンスは、「『ことば』の前に思想・感情がある」ということ、もっといえばことばのずっとその先には生身の人間が、意思を持った個人がいるということである。この意味では、ことばはあくまで人間のもので、人間ありきの存在であるということができるだろう。どこかに「ことば」という「通じる呪文」があってそれを他人に投げかければいいのではなく、はじめに意思も思考もまったく別の他人がいて、そいつ次第でことばが通じるかどうか(音や記号が「ことば」として機能するかどうか)が決まるのだ。

よくこんな質問が知恵袋やTwitterの「#勉強教えて」タグなどで散見される。

I responded as soon as I (       ) my name called out.
1. heard
2. had heard
3. listened
4. had listened

「どうして2は答えじゃないんですか?」「3だと思ったのですが、考え方が違うのでしょうか?」

先ほどの雑すぎる「ことば」観に従えば、この質問に対するある意味での正解は「そんな言い方はほとんどの話者がしない、覚えろ」というだけの話に尽きる。もちろんこれだけではぶっきらぼうであるから、大概は「hear、listenという単語のそれぞれのニュアンスはね〜」などと解説を挟むわけであるが、「どうして」「どうして」と引き下がられればこう答える外ないような気もしてくる。実際、言語習得だけを目的とするいわゆる「語学」的見地からいえば、これでも十分な回答といえるだろう。

なぜここまで言うかというと、こういう質問をする輩のなかには少なからず、「どうやって目先の文を文法書の解説に合致させて解釈するか」だけを求めているような、文法書や教科書本位で言語を学んでいる輩がいるからだ。

辞書や教科書にまとめられる「文法」「語法」という概念がどういう存在なのか、まるで理解しちゃいない。というわけで、ここで「文法」という概念についても少し触れておきたい。

(以下執筆中です。予定となる章題のみ示し、何となくの方針を立てておきます)

ことばと「文法」

「文法」とは何か。

エーカイワによる英語の「非ことば化」


「4技能教育」もまた「非ことば化」の道を歩む


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こばると

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