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運命に備える

職場に向かって歩いていると、お腹に「小倉トースト」と書かれたモケケのストラップを、リュックにつけて歩いている高校生がいた。調べてみると、どうやら名古屋のご当地モケケらしい。Googleで「モケケ」と打って一度手が止まり、瞬時に「モケケ」という名前が出てきたことに驚く。モケケの正体は、モケケノケ星から突如地球にやってきた、ヘンテコなひょろなが宇宙人らしい。抱きつき癖があると書いてあり、だから腕が長いのねと納得する。2010年発売だそうで、確かに私が中学生の頃に割と流行っていたような気がする。

高校生の頃、部活のメンバーでディズニーランドに行ったことがあった。私はこの頃から大人数が苦手だった。周り方だったり歩くスピードだったりを全て大人数で合わせるのは難しく、食べ物を買っている子がいるのに、待たずにどんどんと進んでいってしまう子がいて、かなり嫌だった記憶がある。そのうちの一人が帰り際に「みんなでお揃いのストラップ買おうよ」と言い出した。「これはないな」と一人心の中で思っていた、プリンセスのドレスのストラップを買うことになって、やるせなくなった。色々なプリンセスの、顔のないドレスだけのストラップ。みんな同意しているみたいだったし、不満に思っているのは私だけなのか不思議だった。みんなで揃えようという話になっているのに私だけ買わないというわけにもいかず、私は渋々アリエルのストラップを買った。しばらくテニスのラケットバッグに付けていたけれど、みんなが忘れた頃にひっそりと外した。

昔私も仲の良かった友人にお揃いのモケケをプレゼントしたことを思い出した。モケケを見るまで忘れていた記憶。あの子も本当は嫌だったけど、お揃いで貰ったものだからと、もしかしたら渋々付けていたのかもしれない。あの子のバッグからいつモケケが消えたかはもう覚えていない。

自分の幼い頃の話になったとき、自分が実際に見聞きをして覚えている記憶なのか、繰り返し何度も聞かされたことを自分が体験した記憶だと勘違いしているのか、わからなくなる。今となっては確かめようがない。

最近は、夢と現実の区別がつかなくなることが多々あって、怖くなる。「あんなことあったな」とか「あのときした約束はいつ行くことにしたんだっけ」などと考えて、あ、夢だった、としばらくしてから気付く。怖い。そのうち夢か現実かわからなくなって、実際にはなかったことを本当だと勘違いしたり、していない約束の場所に行って、来るはずのない人を待ったりしてしまうんだろうか。

最近の夢。太ももにピンク色の大きな痣。押しても痛くなくて、なんだか気持ちが悪い。でもそれは絶対に痣だと何故か確信している。ひたすら何度もその痣を押す、不気味な夢。目が覚めて確認をしたけれど、そんな痣はどこにもなかった。

いつも通り普通にコンビニで買い物をしていたはずなのに、店員さんに「お釣りです」と笑顔で言われて、両手で持てないほど大量の小銭をジャラジャラと渡された。両手から溢れて転がっていく小銭。落ちる音は聞こえない。周りには誰もいない。

職場の本が好きな男性を短歌の教室に誘う夢。「もしそれに行くことにしたらご飯も一緒に食べるのか」と何故か嫌そうな顔で聞かれ、「えっと、始まるのは◯時だから、まあ別に一緒に食べなくても」などと、私もしどろもどろな答えをしてしまった。次の日職場で会ったその人は、いつも通り爽やかな、感じの良いイケメンだった。

「野良猫が沢山家に入ってきて困ったことがあったなあ」と、一人で渋谷を歩いているときに思ったけれど、よくよく考えたらあれは私の家じゃないぞ、と思ったところで、夢だったと気付く。随分太った猫もいた気がする。

一度の眠りで色々な夢を断片的に沢山見るので、なんだか起きたときにどっと疲れている。何日分もの記憶をいきなり頭に入れられたみたいな感じ。沢山夢を見た日は、通勤中の電車でも頭がぼーっとしていて、本を開いて文字を見ても内容が頭に入ってこないことが多い。情報量が多すぎて、これ以上何かが入ることを頭が拒否しているなと感じる。

これまでずっと、考えすぎてきたような気がする。外からの新たな情報は遮断できるけれど、自分の中で生み出した考えは、自分の中でぐるぐると回って消えてくれない。直感ですぐに行動するくせに、振り返ってくよくよと考えて、もうどうにもならないことを悔やんだりする。考えてもわからない相手の本心を勘繰って一人で悲しんで、取り越し苦労だったこともきっと何度もあった。考えても答えが出ないような話を人とすることは好きだけれど、どうにもならないことを一人で悶々と考えて暗くなることを、今後はなるべく避けていきたい。暗くなっている時間が無駄だ。人生において無駄なこと、一見無意味なことは必要だと思うけれど、これは本当の意味での"無駄"なのだ。

言わなければわからないことばかりだし言っても伝わらないことばかりだし、それはもう仕方のないことで、人はわかり合えないことが当たり前なのだと、ずっと前から知っていたはずなのに、私はどうも信じられなくて。でも、そうなのだ。全面的な信頼なんてない。それを忘れてはいけない。

人と人との関係は呆気ない。どうしようもなくて、だからこそ儚くて悲しくて、それでも期待して、同じことをぐるぐると繰り返して、また同じ結末にたどり着く。呆気なく終わるくせに、気付いたら始まっている。事故だ。運命だ。だからこそどうしても期待してしまう。傍から見て馬鹿馬鹿しくてもこれが私の生き方で、やっぱり何もない人生なんてと思ってしまう。

どうにかならなかったときも、呆気なく死ぬだけである。私はしぶといからまだ諦められない。どうせ死ぬのなら、最後まで足掻きたい。今までの全ての偶然は必然のためにあると思う。おそらく、モケケのストラップを友人にあげたことも。だからこそ、自分が「今だ」と思ったタイミングを逃したくない。必然を逃したくなくて、先延ばしを恐れている。「まあまた今度でいいか」と思うことで、大事なことがすり抜けていってしまう気がして、いつも焦っている。私の人生は忙しい。だからこそ、ゆっくりとできる時間やそういった精神状態でいられているときが貴重で、大事にしたいなと思う。運命に備えていたい。いつでも万全な状態で。

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