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ただアートがちょっと好きなだけの人が、ちょっとだけ思う、表現の不自由展という「展示」についての事

「そんな物は公開してはいけません」「そういう物はここでは公開できません」

言葉が似ていて、すごくミスリードしやすいと思う。

前者は作品(そんな物)に対して「公開してはいけません」(人の目に触れさせてはいけません)。これは間違いなく表現規制に当たるでしょう。そしてこれに等しい発言は、学校や家庭でモロに喰らった覚えのある人がいるんじゃないかと思う。

学生時代、自分が好きと思った漫画を真似て描いた絵を母がみて、「そんなグロテスクなもの描かないでちょうだい」と…歯がゆい思いをした事はないでしょうか。ああ、不自由だ!自分が好きと思うものを描く事を規制されているわけですから。

ただ、親の不安や不満も分かる。「ある人が家族を刺した、その人は残忍な漫画が好きだった」とかいう雑なニュースが不安を煽っている。このままでは両者不満が残ってしまう。だから皆さん、インターネットで絵や文を発信すると、逃げ場じゃないですけど、なんだかホッとしませんか。


「そういう物はここでは公開できません」

これは作品(そういう物)に対して「ここでは」(この場所では)「公開できません」(展示する事ができません)。これって果たして不自由な状況なのか?と。

政治や宗教、陰惨な出来事のようなセンシティブな内容を取り扱う作品って世の中にいっぱいあるはずで、その表現方法が「モロ」なのか「抽象」なのか、それはそれぞれの作家が「どう表現したいか」を選んでいる。その選択は出来る限り尊重されるべき事でもあります。やりたい事をやっちゃだめ!って言われるの悲しいし。

ただこの、「ここでは公開できません」に対して「なんで公開しちゃいけないんだ!!?これは表現の不自由だ!!!」と言ってしまった事は…個人的には、道理が通っていないように感じます。

このやりとり上で、言葉が、問題がすりかわってしまっている。

「ここでは」って言ってるんだもん。

会場が大きければ大きい程、その場所を支える人も増えればお金も増えるわけで。そこには致し方なくビジネスのような関係が築かれていて、会場が良しとしない作品が公開の場を失って捨てられて、っていうのは、美術史の上ではいくらでもあった事だと思います。

作家は、認めて貰える場所を探して彷徨ったり、自分のやりたい表現と世間様の認めてくれる表現が上手くかみ合う所はどこだろうって、やってきて、今美術館で飾られている作品達は誰かに認められ・誰かに守られて現代まで残ってきました。

俗っぽい話にしますが、風刺画なんて、めちゃくちゃ政治にも世の中批判にも切り込んでいる、タブーに直面した作品ですよね。でも、それに対して「苦情が殺到」したり、「偉い人が何か言ってきた」り、「掲載取りやめ」になったりした所で、「風刺をやる自由を損なわれた」「風刺の世界は不自由だ」とか言うと、ちょっと違う気がしませんか?


選択には常になにかしらの結果が伴う。それが望んだ結果にならなかった。それを「不自由」だと言っている。「不自由」さの解放を急いで、より大きな会場で多くの人の目に触れれば議論が加速し、望んだ結果に早く辿り着くと思った。

それをめちゃくちゃセンシティブな作品を誘致して、キャッチーな言葉を・より多くの人に注目されそうな言葉をあえて選んで、まるで、不自由な僕たちを見てください!本当は美術館で展示されるべき作品なんです!と。

私にはそういうふうに見える。

「不自由」って何なのだろうと思ってしまいます。


あいちトリエンナーレは2010年と2013年にしか行った事がないのですが、長者町での展示がとても良かった。特に心奪われたのは「子ども達の考える地獄を、工作で作ってもらう」作品や「ガムの銀紙を壁に綺麗に貼り詰める」作品など。

当時美術学部にいた私は、「年齢や高価な材料は必要ないんだ!」「こういう事をアートとしてもいいんだ、思ってもいいんだ!」そういう勇気を貰えて、そういう考えを与えてくれるあいちトリエンナーレは誇らしいなと思ったのを覚えています。

言ったら上述した作品ってYoutuberのやってみたとすごく、紙一重っちゃ紙一重なんですけれども。でも、紙一重で「アート作品」として、見る人にアートである事を尊重される、というのは展示環境が上手く作品と見る人を繫いだ結果、起こりうる事だと思います。(※Youtuberはアート作家とは別の誇りがあって、美術館ではなくYoutubeを活動拠点にしている事はいうまでもないでしょう)

作家が何をアートとするのか、は作家の自由です。けれども、作品を見た人を「なるほど、これはアートだ」と認知させるために、『展示会場の選択』・展示方法・キャプション・ライティング等々、色んな試行錯誤でもっと作品を理解しやすくする、というのはアートを大切にする上で欠かしてはならない事だと思います。


今回の展示は、見てないのに言うのも何なのですが、少なくとも「あいちトリエンナーレ」という場で、たくさんの苦情が寄せられてしまうような展示・企画・告知にしてしまった結果、展示ができなくなってしまった。ただそれだけ、事実以上の事は何も無いのではないか?と思います。


何か、「芸術と公との闘いの歴史」「そもそものアート」を、めちゃくちゃないがしろにして、口喧嘩だけ勃発しまくっているような感じを抱きまくってしまうんですよね。政治を絡めた作品を招いておきながら、政治サイドの意見を「憲法違反だ」という批判で返すのも、売り言葉に買い言葉の口喧嘩のやり方。

「これはアートではないんじゃないと思う」VS「これはアートだ」、どちらが勝ちか!?…という、まるでより多くの味方を囲った方が勝ちのような…

悲しい事に、公開停止になってしまった展示というのが、ブラックボックス状態になってしまい、むしろそのブラックボックス自体がプロパガンダみたいになってしまっている。罵り言葉だけで解決を探るような状態。こんなのは全然、おっしゃっているような不自由の解決にも、人々の感じる不自由の解決にもならないなと思う。


もしも…逆に、このブラックボックスがプロパガンダになってしまっている状況を、「この展示そのものが1つの作品で、社会を皮肉ったアートなんです。展示の中止も目論み通り。皆さんは狙い通りに、何も見ないで口だけ動くこの国の人らしい姿になってくれましたね。」と主催者・企画者に言われたら、マルセルデュシャンも両手からサイン入りの小便器落っことすレベルのびっくりですね。

(※何も見ないで口だけ動く、というのを痛快にあらわした作品を福田繁雄が作っていましたね…/見ないでさわぐ日本人、見て口を閉ざす日本人/これを、日本国内を美術館として見立てて行った体感型作品として示してみせたとするなら面白いのだけど、という話です。)

ただそれ、某Youtuberが「炎上芸」をやったのとやり口が似てしまっているので、まず無いですね。

しかも、そうだとしても行き場のない不信感・疑心暗鬼な心を残す、というのはメンタルやってる身からするとそんな暴力的なパフォーマンスったらないのでたまったもんじゃないのだけど

ていうか本当に何かの解決を望んでいるのであれば、「今回は批判が集中し、脅迫を受け、中止となってしまった。しかし需要や支持する声がある事も知れた。3日という短い期間だったが、大切な物を得た。今回の中止に負けず、また是非こういった展示をやりたい。」と言うのが、作家にも見る人にも誠実だし、安全なのではないか。


そんな話でした。


おしまい。


トップ画何が適切かな?と思ったけども、『職業の上では宗教画しか絵と認められていなかった』時代から、随分と良い方向へ変わってきましたよね、これからの芸術の道もそうあって欲しいな、の意を込めて

(写真の絵がいつの時代のものか知らないのに知見ぶる奴)



追記

最終的に、展示の中止は「危機回避の判断」だった訳で。それを「表現の不自由」だ「理解の場を奪い取った」「脅迫に屈してしまった」などと簡単に言ってほしくはないなと思う。
政治は人の心身を守る為にはたらいて然るべきではないですか。

これは元イベント会社勤務だった私はどうしても、敏感になってしまう。
あれだけの大きな催しにおいて、沢山の来場者の「ひとりひとりの安全を可能な限り守る」事は表現の自由より先に絶対に優先されるべき事です。(というか規模にかかわらずそうあるべき。)
しかしそれって莫大な金と労力がかかります。来場者の誰一人危険物を持っていないことを確かめる労力。今の世の中では必要な労力です。残念ながら。

でもその労力を捻出できないんでしょう?
この展示に関わる誰も、その労力をかける事ができないのであれば…言葉だけでもって中止という判断を非難して、再開を望むなんて、自由を求める姿勢というより野蛮な叫びに聞こえるよ。ごめんやけども。恨むべき相手を間違えている。味方にすべき相手を敵に仕立てている。

「一個ないしいくつかの会場で展示が中止になった」程度で『我々の』表現の自由は奪われて脅迫に負けた事になるのか。って、そこをもう一回考えてほしいんだよなあ。

おわり。

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