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機会のロングテール -教養を定義できないのはなぜか

このグラフは人間の特性に対する遺伝の影響を示している。例えば一番左の神経症的傾向(リスクを回避する傾向)は50%が遺伝、のこり50%が環境で説明できる。

重要なのはこの「環境」というのは子育てなどの兄弟が共有する環境ではなく「街を歩いていたらたまたま高級住宅街に入り込んでしまって巨大な家を見た」のような偶然性の積み重ねを指している(兄弟が共有する環境は分離されていて5%以下なのでグラフでは省略されている)。

普段我々は多様な偶然性の中に生きていて通常それらは自分で制御できない。カフェの近くに住んでいればコーヒーを飲む確率が上がるし、中学受験が当たり前の地域に住んでいれば中学受験をする確率が上がる。重要なのは、こうして羅列できない無数の偶然性によって我々の人生が遺伝と同程度の影響を受けている、ということだ。

本当にちょっとした無数にあるものに対して名前をつけたり羅列することは不可能なので能動的に手に入れることはできない。これは機会のロングテールと言える。1つ1つのイベントは感じられないほど小さいが積み重なって遺伝と同程度人生を左右する、というのが上の研究結果だ。

「就職先を見つける」「美味しいレストランを見つける」などの機会はヘッド部にあたる。イベント1つのインパクトが大きいが数が少ないので誰でも思いつけるし探せば見つかる。しかし無数にあるちょっとしたイベントは名前もつけられないし羅列もできない。こうした偶然性は1つ1つのインパクトは感じ取れないほど些細だが、積み重なって巨大な影響力となり、遺伝に匹敵するレベルのインパクトになる。

いわゆる教養が何か定義できないのは教養と呼ばれるものがこの機会のロングテールを指しているからだ。「カントを読んでないのは教養がない」といわれてカントを読んだから教養が身につくわけではない。特定できないほど膨大で瑣末な情報の積み重ねが教養なので教養は目指す事ができない。

したがって留学をしたり引っ越したりすることで環境を変えることで自分を変えようとするのはとても理にかなった方法と言える。引越し資金だけで偶然性という資産を買えるなら良い買い物ではないだろうか。東京の家賃は高いと言われるが偶然性を資産と考えるとそこまで高くない。

🐈❤️