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YOSAKOIソーランの軌跡〜想いを繋ぐ〜 関口佑樹さん

ー最初に自己紹介していただいてもよろしいでしょうか。

 関口佑樹です。実委に現役として関わっていたのは20回から22回の3回です。20・21回は総務班¹⁾の事務局事務局長として活動していて、22回でパレード班²⁾を立ち上げるためパレード班と副代表をやっていました。

1)総務班:学生実行委員会を支える役割を担っている班。事務所の管理や物品の整理、SNSを用いた広報活動等様々な業務を行なっている。
2)パレード班:YOSAKOIソーラン祭り学生実行委員会を構成する班の一つ。主に大通南北パレード会場の運営を担当する。

YOSKAOIソーラン祭りに関わったきっかけ

ー入ったきっかけとかってあったんですか?

 明確なきっかけはなくて、群馬県出身で同じく22回副代表のいとうあつよしくんと同じ高校で一緒に北大にきて入学式とか一緒に出たりしていて新歓どうするっていうのであつよしが実委に興味があるって言っていて、ついてくわってなって新歓に行ったのが最初です。他にやりたいこともなく面白そうだとおもって何回か新歓に行っているうちに班を決めろといわれたりして、流れで入っていました。

ー元々YOSAKOIソーラン自体にあまり関わりはなかったんですか?

 全く知らない。ソーラン節というのは知っていたが…。

ー総務班に所属されていた?

 そうです。

ー当時、ほかの班はなにがあったのですか?

 多分、総務班と審査班³⁾とMC⁴⁾進行⁵⁾と会場⁶⁾が入っている会場班⁷⁾とワオドリ⁸⁾の4班だった気がします。

3)審査班:学生実行委員会内で主に本祭等の審査に関わる活動を行う班。審査員募集や本祭当日の審査員の対応を行なっている。
4)MC:西8丁目班の中で本祭の進行行う。
5)進行:西8丁目班の中でMCや台本の制作を行う部門。
6)会場:西8丁目班の中で主に本祭時の観客やチームの対応を行う。
7)会場班:現在の西8丁目班のこと。
8)ワオドリ:チームに所属していない人でも飛び入り参加をして一緒に踊ることができる、「ワオドリ会場」の運営を行う班のこと。

当時のパレード会場について


ーパレード班を立ち上げる前のパレード運営ってどのような感じでしたか?

 実はパレード班になる前、第21回のときパレード班はなかったが、学生実行委員会としてパレードには関わっていて、審査班の中にパレード担当っていうのを21回の時に作ったのが改めて関わり始めた最初の段階。私が知っている20回だとパレード会場って全然見ていなくて、学生実行委員会も全然はいっていなくて、で、21回でパレード担当ができて関わり方としてはいちバイトに近いくらい。交差点をひたすら整備し続けるみたいな。そんな形でパレード担当ができて関わり始めたくらいが班として活動し始める前のパレード会場。ずっと業者の人がやっているっていう感じでした。

ー第21回にパレード担当ができたきっかけ、経緯とかってあったりしますか?

 あんまり覚えていないですけど、一個上の代までが結構人が少なくて、自分たちの代で人が増えて、人が増えればやれることも増えて。元々パレードから始まった祭りっていうのもあって、パレードやりたいよねみたいな話はみんなの中でもずっとあったし、同級生からも結構そういう話は聞いていた中で人も増えてきて、パレードとかもまたできるんじゃないみたいな話があって、やり始めたっていう記憶はあります。

ー最初に業者の方とかに学生運営参加したいんですけどみたいな感じのお話をした時の大人の方々のリアクションってどんな感じだったんですか。結構スムーズにいったんでしょうか。

 多分滅茶苦茶耕作さん⁹⁾が動いてくれたんだとは思ってて、実際自分が班長になった時ってもうパレード担当ができてて、一回お手伝い的な立ち位置で二十一回の時にやっていたという状態だったので、そこまで「なんでそんな話になったんだ」っていうことはなくて、やろうやろうみたいな、で去年よりも学生でやるところ増やそうみたいな。多分耕作さんが動いてくれてたんだなって。当時はあんまり思ってなかったけど。終わってみるとそうなのかなって。

9)耕作さん:一社)YOSAKOIソーラン祭り組織委員会専務理事、伊藤耕作さんのこと。第13回、14回のYOSAKOIソーラン祭り学生実行委員会の代表も務めていた。

ーパレード班を立ち上げるっていうのを最初に仰ったのが関口さんだったんですか?

 では全然なくて。っていうのも当時パレード会場にそこまで強い感情は班長だったけど持ってはいなくて、どちらかというと班長、兼副代表だったので、パレード会場をやることによるその先の価値のほうが自分としては大事に思っていて、会場へのこだわりとかはそこまで正直なかったです。こだわりがあったのは一個下の子たちで、当時一年生で6人くらいパレード担当でいてその子たちが21回をやってみて、自分たちの関わり方であったりとか、やってみたうえでもっとできるんじゃないかとか思った気持ちがあって、でそれでパレードをもっと学生実行委員会として頑張りたいという話があって、じゃあ班にしようかみたいなのをその次の年の代表とか副代表とか班長で話し合って決めたっていう感じです。

ー他の人たちはそのパレード班の立ち上げに関してどういう意見を持っていましたか?

 まずネガティブな反応は誰もなくて、みんなやろうやろうみたいな。逆に言うとポジティブに、班にしようとかパレード会場にもっと関わっていこうとか言えるだけの人もいたし。活動としての広がりも出てきたところだったので、そんなにネガティブな意見は全くなかったです。21回はパレード担当があったというのもあって、0から班を作るんじゃなくて担当を班にしましょうというだけの話だったのでそこまで悪影響なくできましたと。で、求められていたとか意見としてあったのはどちらかというと班を作るうえでそれが学生実行委員会にどんな良い影響があるのか、良い価値があるのかであったりだとか、あとはやっぱり物理的にもちょっと離れちゃうのでパレードと西八って。離れちゃう人は離れちゃうのでこれを別にパレードの委員会を作りたいのではなくて学生実行委員会の中のパレード班なので、いかにその学生実行委員会という傘の中でちゃんと他との関わりを持って、還元するものは還元して、逆に今まで蓄積してきたもので使えるものは使ってっていう
そこの団体とのつながりだったり個人同士のつながりだったりっていうのは求められていたし、自分としても持っていたところです。

ーネガティブな意見があんまりでなかったっておっしゃってたんですけど、不安要素とかはなかったんですか?

 不安要素の一番は実際に運営するにあたって人が集まるかどうか、具体的な心配をしていたところ。20回か21回の当日ボランティアはだいたい100人でプラス実委で運営する規模感だったけど、パレード会場まで広めるにはだいたい1.5倍集めないとできそうにないことは目に見えていました。結構20回、21回も自分が事務局で人事をやっていて、ボランティア集めを最前線でやっててっていう中でそこの大変さは一番わかっているつもりで、実際運営に足りるくらいの人が集まるのか心配していました。あとは出来るか出来ないかの話より、どちらかというと組織運営の話だとやりたいってモチベーションを持っていたのは下の6人で、その子たちがやってよかったって思える運営になるのか、交差点を整理していた状態から班になってよかった、やってよかった、続けてよかったと思えるだけのレベルまでパレード班の一年目としてやらせてもらえるのかそこまでの信頼をもってもらえるのかという所は班長として心配でした。

当時のパレード班


ー当時のパレード班って全体で何人くらいいたんですか?

 三年目は班長1人、一個下が6人いて、その下が9人くらいでしたね。16人くらい。

ー今の僕たちパレード班は20人で回しているんですけど、20人で回している僕たちとしては、数人のパレード班でやっていたので、当日の日にちゃんと回っていたのか、どうやって回していたのかなと気になって…。

 まず、学生実行委員会の人数は一年生が入るまでは一個下の7人だけだったので、各丁目に実行委員会のメンバーを置いたりすると少なくとも15人いないと大変だった。学生実行委員会のメンバーを集める意味でいうとめちゃくちゃ新歓を優遇してもらった。一年目でこれだけ人が必要だから、君たちは後回しだとまでは言っていないけど、ある程度パレード班が集まるように新歓の力の入れ具合、班への見込み度合みたいなところは結構代表、副代表と話しながら、他の各班にも理解をもらいながら、なるべくパレード班に入ってもらえるようにした。学生実行委員会を集める意味でやったことです。あとは当日ボランティアの数を集めるのは同然だが、ある程度学生実行委員会メンバーで動けるというと一年目、二年目で一緒にボランティアをやってくれて、三年目もボランティア来てくれますみたいな人とか結構いたので、お祭りのこともわかってくれているし、関係性もできてるし、みたいなボランティアの人たちになるべくパレード会場に入ってもらって、ほぼ学生実行委員会メンバーみたいな感じで動いてもらうとかそういう感じで動いてもらうとかをやっていました。

ー私たちも本祭の時は当日ボランティアを集めているんですけどなかなか人数が集まらない時もあって、当時SNSとかもなかなか活発でない中でどうやってボランティアを集めていたのですか。

 20回の時からずっとボランティア集め最前線でやってたから結構第22回の段階だと不安だったけどそれなりにあつまるだろうなあと目算はあって、何やってたかというと一番は今話していたみたいに去年きてくれた人にどれだけまた来てもらうか、でそれは学生実行委員会の活動全体を通して、ミュンヘン¹⁰⁾だったりとか雪まつり¹¹⁾だったりとかの他のボランティア活動を通してボランティアの人達にどれだけ学生実行委員会に近い距離にいてもらうか年一回のお祭りのタイミングだけじゃなくて年間を通してどうかかわっていくかみたいなところの話は21回くらいの時からやり始めてそれなりに年間を通してかかわりあえるような形ができてきていたのでリピート率はそれなりに高かったのではないかと思います。あとは、最終的には友達連れてこいなんだけどその手前でやっていたところだとあんまり毎年友達連れてこいとか去年きてもらった人に来てもらうとか学生だとなかなか難しかったりすると思っていて、まあ卒業しちゃう人は卒業しちゃうし、なるべく来年も再現性をもって持続できるような形で集めようと思ったときに今度団体との付き合いを増やすとかそれこそ星園¹²⁾に入っている他の人たちとか高校生のボランティア部の人たちとか後は星園には入ってないけど北大のサークルの人たちとかそういう人たちととつながりを作ってその団体から毎年来てもらうとか取り組んでいました。

10)ミュンヘン:毎年11月下旬から大通公園で開催されている「ミュンヘンクリスマス市inSapporo」のこと。学生実行委員会でお手伝いさせていただいている。
11)雪まつり:毎年2月に開催されている、さっぽろ雪まつりのこと。つどーむ会場を学生実行委員会でお手伝いさせていただいている。
12)星園:YOSAKOIソーラン祭り学生実行委員会の事務所がある場所。

ー実際パレード班を立ち上げてから班としてどんな活動をされていたのですか

 もともとパレード班にいたとはいえ本祭を運営したことは一回もないメンバー、ちゃんと運営したことはないメンバーしかいなかったので、大通公園見に行ったていうのとあとはメンバーの家に行って模造紙・段ボールとかを使って何分の一大通公園みたいな模型を作って地方車¹³⁾を作って幼稚園生がトミカで遊ぶみたいな感じで地方車動かしながらこのタイミングでこうだよねみたいなことやったりとかこういうルートでこうやって動くよねとかここで看板外すんだよねとかボランティアの人がここに立っていて自分がここだよねとかこっちが北だよねとかやったりとか、本祭が近づいてきたらこれをちょっと大きくして河川敷行って。すごい記憶に残っているんだけど一個下の子に段ボールで地方車を模した段ボールの枠をかぶせて地方車だって言って進めーって言って、割と大きな規模で、ここまで地方車が来たからこうだね、とかっていうシミュレーションみたいなことを結構やっていたと思います。あとは、それまでの話で言うと、パレードとして動いてたところだと安濃津よさこいとかもそれまでずっとステージ周りの手伝いしかしていなかったけど、来年パレードやる、パレード班できたっていうので安濃津のパレード会場の運営も割とメインで受付から誘導からタイムキーパーからやらせてもらったりとかして、そこで難しさとかイメージとか地方車でかいねとかというイメージが掴めた気がします。

13)地方車:パレード会場で音を流すトラック。チームによって個性が溢れている。

ーパレード運営をするにあたって他のお祭りを参考にしたということですか?

 ですね。

ー安濃津のよさこい¹⁴⁾以外で他の遠征とかでパレード班の運営のシミュレーションみたいなのはしていたんですか?

 安濃津以外はたしかしてないですね。あとは、もしかしたら年が違うかもしれないけど、各ブロックの出陣式とか今もあるかわかんないけど、各支部の出陣式¹⁵⁾でステージでやっているところもあればパレードの演舞でやっているところもあって、パレードの形で出陣式をやっているところの出陣式におじゃまさせてもらって見学して、みたいなことはやっていた気がします。

14)安濃津よさこい:三重県津市で例年10月の体育の日に合わせて行われる祭り。主催者は「安濃津よさこい組織委員会」。
15)出陣式:チームごとに本番同様の形式で演舞を披露し


ー本祭当日って具体的にどういった運営をされていたんですか?

 あまり変わってないんじゃないかな?4丁目と5丁目の間で地方車が北の方から入ってきてそこの整備をして、間で看板を次の演舞の人に付け替えて、5丁目から流して各丁目で進み具合管理して、あと受付。

ー5丁目がはじめで、そのあとどんどん前に進んでいたっていう感じですか?

 5丁目だよね?今って何丁目?

ー今は7丁目からスタートです。7丁目から7、6、5って感じで。

 5回パレードがあった。5丁目6丁目7丁目で、8丁目飛ばして9、10。

ー東から西に流れて行ったってことですか?テレビ塔の方から。

 そう。テレビ塔側から流れてた。だから4丁目に受付があって、その隣に地方車がいっぱいいて、5丁目からスタート。
 必要な人も増えるのか。各丁目に当時はディレクター置いて、実行委員会のメンバーがリーダーで入って、プラス当日ボランティア何人かで1チームみたいな形で作ってたから、パレード流すところだけでも5丁と南北で5×2で10人必要でプラス受付と地方車の手前の所とボランティア対応と全体統括みたいなぐらい必要だったので、それでいうと必要な頭数というのは少なかった。そんな感じでした。

ーパレード班ができてからは、実委だけで運営されていたのですか?それとも、他の大人の方も手伝ってくれていたのでしょうか?

 22回はあくまで業者の方が行うというのは変わっていませんでした。ステップスさんがパレード統括として関わってくれて、21回までは大人の方が各丁目のディレクションなどをやっていたところを、学生が代わりに入って行いました。現場にいるのは学生がほとんどで、大人の方は巡回して上手く回せていなそうなところをサポートに入るくらいでしたが、あくまで運営主体はステップスさん¹⁶⁾が行っていました。 

16)ステップス:有限会社ステップス http://www.steps.co.jp

https://note.com/4351soran_jti/n/n0c61e12d4168



パレード会場を学生が運営する意味


ー22回目に初めて学生が運営に参加して、参加した人の感想はどのようでしたか?やりがいなどは感じましたか?

 一つ年下の子たちがモチベーション、思いを持って取り組んでくれて、感想としては両方だったという記憶です。昨年、なんとなく悔しい、もっと何かできるという話をして、実際にパレード班ができて、当時は色々言っていたけどここまでできると思っていなくて感動した、やりきった、満足したという声もあったが、学生で運営までしたいというこだわりもありました。あくまで去年の大人の方がやっていたポジションに学生が入っただけで、学生として何か企画をしたとか何か色を出したということはそこまで正直なかったので、そこまでやりたかった、来年はそこまでやろうという両方の気持ちでした。

ー学生が運営に参加するようになってからパレードの運営で変わったと思うものはありますか?

 パレード会場の運営の話を逆に僕は聞きたくて、今、パレード会場の運営を大人の方に取られたら困りますか?

ーずっとやってきたものなのでいきなりパレード班無しでって言われたら困惑しますね。

 なくなったら困るなって思うんだったらそれがパレードで変わったところなのかなって。第22回しか見ていないし、23回もお手伝いに行ったくらいなので大きく変わったよね、みたいなのはそこまでないと思ってて。パレード班が存在する意義は時間がたってから出てくるのかなって思ってたので。実委がパレード班をとられたら困るって言うんだったらそれが変わったことなのかなぁと。どちらかというとパレード会場の運営どうこうよりかは、団体の活動の広がりとして本祭においてパレードまで運営できるようになったところは凄く意義のあったところだと思ってて、20回からしか知らないけどやっぱり「西8がすべて」みたいなところから、お祭りは西8だけじゃないんだよとかパレードの審査にかけるチームの思いだったりとかそういうところまで団体の視野が広がったというか。僕が一番大事にしていたのが団体のメンバーがそれぞれやりがいをもってやれるってところなので。そういうところにやりがいをもって団体に入ってきてくれるようになってきたところとか、活躍できる場所が増えたとか、そういうところは団体としては変わったなっていうところかな。



取材:YOSAKOIソーラン祭り学生実行委員会
北海道大学1年 森本理央
北海学園大学1年 牧航世
北海学園大学2年 髙田駿太郎


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