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ストレンジャー・ザン・ストレンジ・パラダイス : 01

※※※ 01 慈悲の座 ※※※

 泥の絡んだ足音が乾いて剥き出しのコンクリートと靴底の固さを思い出したように響く。それが湿った空気と暗闇に吸われて、光度の落ちた蛍光灯が一つ、二つ──六つ目が点滅して──頭の脇を抜ける。自身の息の荒さと、卸したばかりのローファーの踵に擦れる痛み。メイコは立ち止まって、靴を脱いだ。映画や漫画で見るような下水道のような場所に居る。
 柵の無い足場の右手には灰色に淀んで滑ってさえ見える水が流れている。その水面は駅のホームから見下ろす線路ほどの距離にあって、深さは分からない。足場と壁は、所々崩れながら暗さと靄で薄れて見えなくなっても続いている様子で、距離感は掴めない。跳べば届きそうな天井、そこを走る錆びの浮いた幾本かのパイプ。その一つが破れていて水滴が肩に落ちる。
 水滴を払いながら、どうしてこんなところを走っていたんだろうと思った。スカートが湿気を吸って脚に張り付く。ブラウスをウエストから出して、ホックを調整してへその上で留めた。だらしない格好だけれど、とメイコは思った。この短さは普段なら恥ずかしくて絶対にしないし、と辺りを見回しながら外気に触れた膝上を少し撫でた──夢の中に居るような感じがする。
 首元を伝った汗が胸元に流れて、開いた襟元を手で押さえた。制服のリボンが無くなっている。そう言えば鞄も見当たらない。ぼんやりと振り返ったメイコの、リボンの朱や通学カバンの明るい革色の見当たる期待を塗り潰すようなずっと続いた灰色のコンクリートと、その先の深くなる闇。
 眺めていると瞼が重くなるのを感じて、頭を降った。気を抜いたら眠ってしまいそう。体の重さと、下着が透けるほど湿ったブラウスは湿気よりも沢山かいた汗で、長い間走っていた感じがする。どうして汗だくになるまで走っていたのだろう。持ち物も、無くなっている事に気が付かない程必死だったのだろうか?
 メイコはふっと泣きそうになって壁に手を突いた。友達から聞いたことがある、ナンパされて付いて行ったクラブで渡された飲み物を飲んだ後、知らないマンションのエントランスで目が覚めた、違う学校のその友達の友達の話。朦朧としたまま帰って、それから気が付いたらしい、スカートの中が裸だったことを。
 捨てられてここに居るのか逃げてきたのか分からないが、ショーツまで湿らせた理由と、なんとなくはっきりしない頭は、本当に何か飲まされたか何か……されたのかも知れない。
 暫く壁を背に付けて座り込んで、まとまらない思考と不安に膝を抱えていた──雨が降っていた。駅から下りて歩き出してからすぐ、薄くて重さの無い霧のような雨が降り出した。手の平を上にして空を見ると思ったより雲は少なく、傾いた日のオレンジが滲んだ夜とのグラデーションを建物の隙間に塗っていた。狐の嫁入り。祖父がそう言っていたのを思い出した。何かが起こる前触れ──そこから白く薄れたように思い出せない。
 眠くなる暗闇の方から音がして顔を上げた。
 濡れてぼやけた闇の中で見えないその音は、喘息を患った人の喉が鳴るような何かの呼吸音にも聞こえるし、引き摺るような足音にも聞こえる。
 メイコは目元を手のひらで拭って立ち上がったが、離れるか声を掛けるか迷った。見るからに下水道のような場所で業者の人か誰かがいるのかもしれない、けど違ったら?人が立てる音にしては不自然な気がする......ネズミやコウモリかもしれない、けれどそれにしては重さがある。
 メイコはハッとなって踵を返した。暗がりの向こう微かに動いたものの輪郭を目にして、肌の泡立ちと反射的に動いた足の後に、靴音が乾く前に立っていた場所を思い出した。ああでも......とメイコは独りごちた。きっとこれは夢──思い出したそれはあまりにも不自然な場面で、それがわたしを慌てさせるのなら、これはきっと現実ではない。良かった。それなら、さらわれても無ければ捨てられてもいなくて、今ごろ本当はベッドの上──
 メイコは手首に巻いていたヘアゴムで髪を縛ってから、駆け出した。首筋が風に触れるのを感じる。

 天井に穴が開いていて太陽が漏れていた。液晶越しの動画でも見るようにボーッとしてそれを見ていた。今走っている薄暗いコンクリートの筒の中よりも開けた場所で、空気も湿っておらず埃が光に浮いていた。
 黒い斑点が床のそこかしこにあって、自分の湿った足跡とは違って随分前に乾いてしまった色。砂色の石積みで作られた壁の、四角形の部屋のその四隅に何かが溜まるように山が出来ている。その山から溢れて幾つか床の上に散らばってもいて、足下にもそれはあった。白っぽいマネキンの腕。
 眩しさで輪郭のぼやけた数メートル向こうの部屋の中央に、海岸に打ち上げられているような歪な形をした流木がマネキンに引っ掛かっている。そのマネキンの部位は比較的大きくて、腰から上の辺りのものだと思った。
 不思議に思ったのは流木もマネキンも所々がやけに赤い。床の斑点とは違って乾く前の粘度のある色。それがマネキンと流木の接地面からゆっくりと拡がっているが、主流から逸れた一部が黒くなり始めてもいる。その黒が部屋中の斑点と同じ色で、乾く前はこれも赤かったのかと隅の染みに移っていた視線を部屋の中央で湧いている色の源泉に戻すと、マネキンの胴体から白いものが生え始めた。突き刺したようにも見える。数ヶ月を早回しで見る植物の映像のように白いそれが少しずつ成長して見える。2本、3本、4本と次々に生えて見えて、何本か生えると両の手の平で作った花のように開いて見えた。
 赤色が足元まで来ていてローファーを汚すのが嫌だと無意識に退いた拍子に、側に落ちていたマネキンの腕を蹴ってしまった。転がったそれが光を反射して目が行くと、揺れながら止まって、光ったのは腕時計だと気が付いた。グッと心臓が音を立てる。
 見回した部屋中に転がった大小のマネキンの部品も角の山の一つ一つも、足にはヒールが履かせられたままだったり頭部にはレンズの割れた眼鏡が引っ掛かっているものもあった。垂れ下がった髪の毛に隠れて眼球が線を連れて垂れている頭部を見つけて目を逸らすと、折り重なった山の中から延びた手の薬指に指輪が光った。
 薬指の指輪。男女が好きな人に送り合うもの。高校生にはまだ早いよと、照れている内に別れてしまった彼氏を思い出した。思い出と、指輪のはめられたマネキンの折り重なって出来た山の中から突き出された細い腕の指を見て、セルロイドでもプラスチックでもないと気が付いた。幽霊の手まねのように曲がって垂れたその手首や、部品の山や部屋中に転がった部位も全て肉と骨と皮で、中央で赤色から生えて見えたそれはちぎれて剥がされた人間の胸と曝された骨だった。
 太陽が雲内に入ったのか、スポットライトのように天井から射す数本の光の筋が消えて視界のコントラストが緩まると、スープを啜るような音がずっと響いていたのに、と思った。血溜まりの肉の骨の隙間から顔を上げたそれは有る筈の物がない井戸の底のような穴だった。目も鼻も口も喘息の喉の鳴る音に飲まれたように無かったけれど、赤い糸を引いた焦げたような黒い流木と確かに目が合った。

  追われる類いの悪い夢だと走り出してから暫くして、下水が途切れて少し開けた場所に出た。瞼の重さが強まって思わず膝を突いた。夢の中でも眠たくなるものなんだ、どれだけ全力で駆けても思うように走れない夢は見たことあるけれど。霞んだ視界の中の膨らんだスカート、キラキラと浮かんで揺れた砂埃の先に、転がった血の付いた腕。あれ?と言う自分の声が礼拝堂に響くように聞こえて、メイコは顔を上げた。
 崩れかけた天井から指す光を浮いた埃が反射して、翼から降る羽根をイメージさせる。淡い現実感に胡座をかくように黒い斑点が床じゅうにあって、中央の一番大きな斑点はまだ乾かずに悪魔のように赤い。徐々に面積を増やすその赤の源泉の開いた骨の中に顔を埋めた、四つん這いの黒い幹と、角に積まれたバラバラの、人間の体。
 メイコは頬の下に自分の腕と、床に積もった埃が鼻をくすぐるのを感じた。確かに反対方向に走り出していた筈だったが、元の場所に戻って来てしまった、のか、さっき居たと思った記憶が記憶ではなく今わたしはここに初めて来たのか繰り返しているのか......夢なら曖昧なのも仕方がないのかもしれない。
 鉛のような瞼に閉じていく光の筋の向こうに血塗れの影がゆっくりと立ち上がって見えた。痙攣する程の恐ろしさが不意にやってきたのとそれを嘲笑ようにまどろんで横たわった自分の体との相反した状態に叫び出しそうになったが声は出ず、夢だ夢だと安堵に流れそうな意識の外で自身の手足が微かに床を掻いて立ち上がろうとしているのを感じた。涙が頬を伝う。
 黒い幹は関節が折れたような空間ごとひん曲がって見えるグリッグリッグリッグリッとした動きで近寄ってきて、いつのまにか思いっきり食い縛っていた顎の力も両手で掬った砂のように流れてゆく意識と閉じていく視界の中に感覚すら薄れていって、喘息の音がして目を開けようとしても真っ暗で何か重く柔らかい物を引きずるような音が耳元で息がかかるほど何度も聞こえていて、どれだけ何を喚いても誰にも何処にも届かず何も聞き入れてくれないまま表情も無く体を裂くような井戸の底の暗闇がわたしを飲む一人称の液晶越しの動画 

 破裂音がつんざいて闇が欠けた。
 暗転したスマホの画面のようだった視界の端に穴が開いて、自分の目が開いていることに気が付いた瞬間、目の前を何かが通って闇が晴れた。
 急に明るくなった視界に目を細めているとメイコの顔に影が落ちた。生きとるか、と頭上で声がして目を向けると、逆光の人影の中で小さな赤い光が揺れた。
 不思議に思いながらそれを目で追っていると、失礼しますな、とその赤い光が言って脇腹の辺りを触られる感じがした。メイコはイヤッと言って両腕をばたつかせると、危ない危ないて火ぃ着いとる。しゃがれた声がそう言って赤い光が床に落ちた。革靴がそれを踏んで、いや悪いのはおれや火ぃ消してからすべきやった、と細い指が吸い殻を拾った。メイコは、綺麗な手、と一瞬思った。
 その隙に両脇に手を差し入れられて半身が浮いた。再び悲鳴を上げるとすぐ、両手を上げたシルエットがメイコから数歩離れた。体寝たまんまやったら目ぇ覚めんやろ、と言いながら両手を上げたまま後ろ向きに歩いて、半身から全身へと徐々に光の筋の中に入った。
 細身のスーツを着た男の姿が現れて、メイコは背後の壁に身を寄せた。無精髭のニヤ付いたような口元とボサボサの髪が瞼まで垂れて、不潔な感じがする。指の好印象を忘れた怪訝な目で、誰ですか、とメイコは反射的に言った。
 アメシマ。そう答えてさらにニヤけて大袈裟に手を上げると女子高生さわったらすぐ捕まるやつか、懐かしの我が故郷と呟くように言った。おれに騒ぐより、と自身の左足を指差して、あれにどっか触られてへんかと言った。片方の革靴の表面とスラックスの裾が焼けたように捲れて、そこから露出した足首や脛も、皮膚が爛れて血が滲んでいる。
 メイコが眉を寄せて、アメシマと名乗った男の顔を見た。訳が分からないが、男は怪我をして片足を庇うような少し不自然な立ち方をしている。混乱したままメイコは思わず、大丈夫ですかと聞いた。見た目より痛ない、男は片方の頬をひきつらせるような少し不気味に見える笑顔を作って言った。気にすな、と言う意図の笑顔だったが、メイコには良い印象を与えなかった──女子高生らしい形容がメイコの頭の中で鳴って、妙な懐かしさを覚えた。
 ボロボロの片足を浮かせたまま、おれ思わず蹴ってもうたけど、と男が言って奥の壁際を逆手の親指で指した。あれな、触ったらこの様。メイコは指された先に目線を写しながら、声に出さなかった「キモい」が懐かしく感じたことを考えていた──美術の授業でハデめな女子グループが教師の制止も聞かず下品に笑いながら連呼していた。うるさいと思っていたが、同意見だとも思った。黒板に貼られていたダリだかジャコメッティだかそんな名前の人の、絵とか彫刻の写真──黒く腐った幹のように捻れた物が男の背後の左手の壁際に転がっていて、頭部に見える穴の開いた箇所からはドロドロとした白い液体が流れている。
 メイコは記憶の絵と目の前のそれが区別出来ず、ぼうっと眺めていた──ぼやけた頭が脈絡を逸して、先刻の恐怖とは繋がらない。懐かしさが鍵で、数日前の日常が遠くなるほど重いものを残していたが、メイコは上手く思い出せずにいた。寝覚めの直前に見た怖い夢のように。
 男はメイコの表情を見ると、側にしゃがんで顔の前で手を振った。メイコがハッとなって壁に背を擦って距離をとると、あれよりおれの方が怖いんかい、と笑い混じりに言った。まあ“磁場酔い”で色々トんどるとこ悪いけど、その内あれまた起きよるし。そう言いながら立ち上がって手を差し出した。節くれの少ない細長い指。薄汚い風貌の割に映画で見たピアニストのような手をしている、とメイコは自分の肩を抱いたままじっとその手を見ていた。アメシマ、とか言っていた気がする。30代くらいに見えるおじさん。
 意図を汲まれずに浮いたままの手を自分の頭にやって、掻きながらアメシマが言った。漫画ん世界へようこそ。

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