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星街すいせい「ビビデバ」MVを観る(2-1):二次元の人間が存在する

 前回の記事では星街すいせい「ビビデバ」MVのストーリーに注目した。今回は最も話題を呼んでいる映像の面、つまり二次元と三次元の混合について考えたい。
 この記事の基本的な視点は、MVも含めて「ビビデバ」を究極的にプロデュースしているのは星街すいせいであり、MVには星街すいせいの考えが(程度はどうあれ)表現されているというものである。それゆえ、楽曲を手がけたツミキやMVを手がけた「擬態するメタ」の他の作品を参照することはしない(もちろんいずれも素晴らしいお仕事をなさったと思っているが、私に語る能力がない)。
 この記事ではまず二次元と三次元に関する星街の姿勢を「ビビデバ」以外のところから引き出す。その上で、次の記事でその姿勢が「ビビデバ」MVにどのように表れているのかを考える。


ヴァーチャルな存在としての星街すいせい

 星街は、VTuberがYouTubeだけでなくテレビのバラエティ等にも出演する未来を望んでおり、自身もNHKの元日特番「あたらしいテレビ2024」に出演したりしている。「ビビデバ」MVについても、自分のそうした考えが表現されている旨を述べている。
 それはつまり、二次元のVTuberと三次元の実写の人々が共演すること、VTuberあるいは一般にヴァーチャルなタレントもリアルなタレントと同じように活躍することを望んでいるということである。
 しかし星街にとって、そのように三次元の人々と交わっていくことは、「VTuberが実写の姿になる」ことを意味しない。どのような姿で活動するかはVTuberによってさまざまである。ヴァーチャルの姿とリアルの姿両方で活動している者もいれば、「カメラ枠」と呼ばれる配信で手袋を付けて実写の手と腕だけを出す者もいる(ホロライブでは素肌を出すことを禁じているようである)。
 星街は自身の方針について、「中の人はいない」「自分は二次元の存在である」といった言い方をしており、手袋ありであろうと実写の姿を見せたことは一度もない。自分の家などで撮った写真をTwitter(X)に投稿することはまれにあるが、そこに人間が写っていたことはない。他のメンバーとのコラボ配信でカメラが使われる際は、ビデオカメラではなくカメラを使用して料理などの画像だけを画面に載せており、万が一にもトラブルなどで実写の姿が映ることがないように注意していると思われる。

この点で星街の方針は一貫しており、他のメンバーの方針に合わせて妥協したことはない。星街すいせいは二次元の存在であり、2Dの姿と3Dの姿しかないという一線を彼女は決して譲らないのである。ただし、おそらくそれは星街個人の方針にすぎないという相対主義的なスタンスであり、他の方針を採る他のVTuberについて彼女が否定的なコメントをすることはない。
 星街にとってVTuberが三次元の人々と交わることがどういうことかは、彼女が参加している音楽ユニットMidnight Grand Orchestraのライブに分かりやすく表現されている。ヴァーチャルの人はヴァーチャルのまま、ということである(逆に、リアルな存在であるTAKU INOUEはMVやイラストにおいてヴァーチャルに描かれることもある)。

Midnight Grand Orchestra 1st LIVE『Overture』

あるいは、最近出演したラジオ番組のアカウントに投稿された画像を見てもよい。

星街にとって、VTuberが三次元の世界に入っていくとはこのような状態になることを指している。

ヴァーチャル/リアル、フィクショナル/ノンフィクショナル

 ヴァーチャルであることに関してこうした姿勢を貫いているにもかかわらず、星街は「リアル寄り」のVTuberだと言われることがあり、なんとなくそれが言わんとしていることは分かる、ということがある。ここには概念的な混乱があり、「ビビデバ」MVを考える上で重要なので整理しておきたい。
 「リアル寄り」と言われるときに念頭に置かれているのはおそらく次のようなことである。星街には多くのVTuberが持っているような「設定」(うさぎの国のお姫様、魔界学校の生徒会長、グリム・リーパーの第一弟子…)がなく、ただの人間である。星街すいせいは日本のどこかで人間の父母の間に次女として生まれ、日本の学校に通い、自分自身でアバターをデザインしてVTuberとなり、オーディションと交渉を経てホロライブに所属し、現在に至るというのが彼女の辿ってきた「物語」であり、そこには何も「設定」めいたものがなく、この世界で起きた事実しかない。せいぜい星街すいせいという名前と、髪色と、18歳のまま小数点第一位が増えていく年齢(現在は18.6歳)が虚構的である程度である。見た目以外は普通の人間と何も変わらないではないか……というわけだ。
 ここで起きているのは、ヴァーチャルの対義語としてのリアルと、フィクションの対義語としてのリアルの混乱である。リアルという言葉自体が多義的なので、この混乱は誰かのせいではないのだが、区別した方がわかりやすい。やり方はいくつかあるだろうが、ここではヴァーチャル(二次元)の対義語(つまり実写、三次元と同じ意味の語)を「リアル」として、フィクション(虚構)の対義語を「ノンフィクション(非虚構)」としよう(事実的(factual)と言ってもいいだろうが、耳なじみがないのでやめておく)。
 こう区別すると、星街すいせいはヴァーチャルでノンフィクショナルな存在である、といったん言えるようになる。もちろん星街にもフィクショナルな要素はあるので、こう断言すると語弊がある。フィクショナル/ノンフィクショナルのどちらかに完全に割り当てられるVTuberは少なく、ほとんどはスペクトラムのどこかに位置することになる。リアル/ヴァーチャルの軸についてもスペクトラム的に捉えることで、両方の姿で活動している人を理解することができるようになる。
 ノンフィクショナルであることが否定的に評価されることがあるのは、VTuberには来歴や容姿に関して多かれ少なかれフィクショナルな要素があるからだろう。星街にはあまりにフィクショナルな要素が少なく、それが楽曲などの作品に活かされることもないので、特定のVTuber観(VTuberは(完全にではないにせよ)フィクショナルであるべきだという見方)をもつ者にとっては非典型的な存在に見えるのだと思われる。フィクションである「アイドルマスター」とのコラボレーションに際しても、VTuber界を代表するアイドル歌手だから相性がいいという意見があった一方で、「リアル寄り」だから相性が悪いという意見があったのは以上のような事情によるだろう。

「二次元の人間」を認めさせる*

 一般的にVTuberがあまり理解されない理由の一つは、ヴァーチャルでノンフィクショナルな存在に私たちが慣れていないからである。ヴァーチャルな存在といえばアニメや漫画のキャラクター、つまりフィクショナルな存在であり、ノンフィクショナルな存在といえば現実世界にいる私たちのようなリアルの存在である。ヴァーチャル「なのに」ノンフィクショナルなVTuberは、そもそもカテゴリーとして承認される途上にあるのだ。
 星街の活動には、ヴァーチャルでノンフィクショナルな自分という存在を人間として世界に承認させる闘いという面がある。星街がVTuber界隈の外の多くの人々に知られるきっかけとなった「THE FIRST TAKE」の「Stellar Stellar」に、彼女は次のようなコメントを残している。

すこし変わった見た目をしていますが、歌を歌ったり、楽しいことをしている人です。

見た目はヴァーチャルだが、自分は視聴者と同じく「人」であるということを星街は明確に述べている。「Stellar Stellar」の歌詞にも「僕だって君と同じ 特別なんかじゃないから」という一節がある。セカンドアルバムのリード曲である「みちづれ」にも、「私はここだよ ここで生きてるんだよ/あなたと同じ心臓で刻む 鼓動に乗せて進むパレード」という一節があり、星街のメッセージは一貫している。これ以上は長くなるのでやめておく。

 次の記事では、こうした星街の姿勢が「ビビデバ」にも見られるのかどうか、見られるならどのようにしてかについて考えてみたい。

*「二次元の人間」という表現については、以下のポストに影響を受けた。


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