宗教__2_

ヒッチハイクしたら、クリスチャンに拾われた件。

岡山からのヒッチハイクのため、高速付近の幹線道路の交差点で、一人立っていた。特に行く当ては決まっていない。たまたま交差点の最前に止まった高級セダン(7シリーズ)が、パッシングしてくるのに気づく。よくみるとヤクザのような風貌のおっさんがこっちお見て、めくばせ。「やべー人かな…。でもそういう人に限ってきっといい人でしょ!」と喜んで乗り込む。「ありがとうございます。失礼しますっ!!」

これがねこさんとの出会いだった。結論から言うとほんとにともていい人で、いい出会いだった。そして、その晩まさか、ねこさんが神戸のANA CROWN PLAZA とってくださり、とあるメッセージを込めてお小遣い1万円をくださるとは…。

ねこさんは神戸まで行くということで、私もその瞬間この日は神戸宿泊が自動的に決定。神戸まで2時間ほど。
この時間がヒッチハイクの醍醐味と言えよう。初めて会った全く知らない人と強制的に狭空間で2時間しゃべる機会がポンと与えられるわけだから、いやでも話すし、私はそれがとても楽しい。
2時間みっちり濃密な割とまじめで重い話をして、明石海峡大橋が横目に見えたころ、私のことを気に入ってくれたのか「これから行く営業についておいでよ。」と。「はい!よろこんで!」。こうして向かった先がなんと神戸のとある教会だった。

はて、何で教会か…

というと、それを説明するにはねこさんという人間について説明する必要がある。

【他己紹介】ねこさん
55歳ぐらい。子供の英会話教育普及とともに英会話教材の販売を行う営業マン。クリスチャン。30代半ばまでは、ほぼ毎日お酒、麻雀、パチンコで、借金を重ねてあげくには借金取りに追われるような日々。愛想をつかして出て行った奥さん二人。専門学校の事務兼学生指導をしていたが、「自分なんかが学生になんで指導してんだか…」と思いながらもただ消費していくだけの日々。そんなねこさんを心配した知人が、「教会に行ってみるといい。」というが「なにをそんな、ばかばかしい。」と相手にもせず、ただ心がすり減っていくだけの日々。そんな中、何故かふと教会がねこさんの目に入った。吸い込まれるようにその教会の戸をあける。教会なんて初めてであった。そこで流れる讃美歌が自然と耳に流れ込む。それと同時に大量の涙が流れ出す。止まらない。普段人前で泣くことなどあるわけもなく、死ぬほど恥ずかしくて下を向くと眼鏡に一瞬でたまった涙が地面に流れ落ちる。ねこさんには何が起こったか分からない。分からないけど、ただただ涙が止まらないのだ。その日初めて、神父にお祈りをしてもらった。
そんな奇妙な出来事から、徐々に変化が起こり始めた。ねこさん本人にではない。ねこさんの周りにである。実際、その当時まだ宗教なんてこれっぽっちも信じていなかった。ねこさんの知人に「首のこぶがだんだん大きくなって気になるんだよね。」と言われ、どれどれとねこさんが見て触れると、2日後には「すっかりこぶがなくなったんだよね。」と知人。そんな珍事が続き、噂を聞いた同じ職場の掃除のおばさんがねこさんを手招きして「最近生理痛がほんとにひどくて、こんなときねこさんに言ったら解決するとか聞いてねぇ。」と。同じように相談に乗りながら、「医者じゃないから、よく分からんけど、お祈りぐらいしてみてあげるよ。」とねこさん。この頃にはねこさんは自然とたまに教会に顔をだすようになっていた。そんな冗談めいたお祈り後数か月、そんなことがあったのすら忘れていたねこさんにまたそのおばさんが手招き。そして「私、もう3か月生理が来てないの。閉経したみたいで、やっと生理痛からも解放された。」と喜んで話してきたのだ。
それからも、数々の不可解な出来事があり、ねこさん自身も変わってきた。そして気が付けばクリスチャンになっていた(この辺の出来事はまた改めて紹介できればと)。そしてクリスチャンとしての使命感を持つようになった。

「与えよ、されば与えられん。」

クリスチャンとして、神に「物質的に誰よりも人に与えられる人にしてください。」とねこさんは祈った。それからひょんなことから英会話教材の販売の仕事に転職し、そこでの営業成績がうなぎのぼりとなり、月収200万をゆうに超えるようになり、気が付けば本当に誰よりも「与えられる人」になっていた。その収入も自分のためではなく人のために使う。つい数年前では考えられないような生き方で、ふと気が付けば、「ねこといえばギャンブル」とまで言わしめたねこさんが一切のギャンブルをやめていた。そして、「もっと多くの子供たちに英会話に触れる機会を。」、と3500万円の借金をして、教会を利用した英会話普及のための革新的事業をはじめた。それが10年前のことである。数々の危機もあったが、奇妙なほどに、偶然と出会いに恵まれて、事業は北は北海道から南は沖縄まで全国展開し、全国に飛び回る多忙な日々。借金は気づけば来年には還せるまでになった。今では出会う人皆に「人に与えることこそ大事だ。心の平安に繋がるのだ。」と説くほど敬虔なクリスチャンである。

っといった感じな人である。(こんな感じの話を車での後半1時間は聞いていた。)

もう想像に易いとは思うが、つまり私が付いて行ったは、教会での英会話教育導入の営業の現場である。具体的内容は省略するが、教会を利用してより幼い時期から安く良質の英会話が提供できるその内容は合理的であるし、普及の価値があると思えるものであった。(AI社会において、そもそも今英会話能力がわ本当に必要かという議論はいったんおいておく。実際英語をネイティブに話せて損することは100%ないだろうし。)ねこさんの人望が伺える、熱心で説得力のある訴えの甲斐あってか、その教会でも英会話教育導入を積極的に考える(ほぼ始めること確定)とのことであった。
この、営業の始まりと終わりには「祈り」があった。教会に入ったのも初めてなので当たり前ではあるが、初めての祈りであった。急に下を向いて祈りだして周りの数人も俯き目を閉じる。慌てて私も合わせるように俯くが、ずっとそわそわしながらチラチラ周りを見ていたら、示し合わせたように終わりに「アーメン。」。出遅れて、一応口パクでアーメン。ちなみに終わりの祈りではきちんの皆の揃えて「アーメン。」と言えた。そのときも口パクではあったが。

その営業がおわってそのまま三宮でねこさんと飲んだ。ざっくばらんにいろんな話をした。車の中でもそうであったが、宗教の大事さを何度も説かれた。奇跡が存在するといったことも。それから、ねこさんは東京に行くということで、割と早い時間に解散となった。解散間際、「はい、これ。誰かのために使いなさい。そうすれば絶対にめぐりめぐって何かが起きるから。」と目の前に一万円札。ねこさんはいじわるそうに、でも楽しそうに笑っていた。つい、それで本当に何かが起きる気がしてしまった。そんな未来を想像して期待してしまった。私は有難くその1万円を受け取って、誰かのために使うことを心にひっそり誓った。そして、駅までの帰り道、思い出したように立ち止まったねこさん。「お祈りをさせてくれ。」そのまま、道の隅によってお祈りをしてくれた。そのまま解散した。
私はもう少し一人で飲もうとぶらぶら三宮を歩いていた。飲みながら、今日の宿どっか探さないとなぁと思いながら。すると突然のねこさんからの電話が。でると、「人身事故で新幹線止まって、東京いけなくなったから、今日は神戸に泊まる。泊まるとこ決まってないなら、君もついでに泊まっていきなよ。」と部屋をとってくれたのだ。これも神の示し合わせだから、ということだった。お高いホテルで、いい感じの夜景のいい感じベッドで熟睡した。ねこさんによる至れり尽くせりの一日であった。

ただ、こんな一日を過ごしても私は正直、クリスチャンには微塵もなびかなかった。ねこさんも全く勧誘する気はないといったスタンスであった。こんな考え方、こんな人達がいるのがなという意味では本当に死ぬほどいい勉強になった。また、宗教とは一つのストーリーなのだな、とも感じた。ねこさんの人生で起こった物語は、別に宗教の話なくしても(実際紹介のときは奇妙とか、不可解という言葉で濁したりしたが…)成り立つ。一人のおじさんの更生の物語として。ただ、数々の不可解な出来事も、「宗教」によって全てが一つのストーリーとしてつながり、より一貫性と物語の厚みを持たせることができる。言ってしまえば「神のお導きである。」のパワーワードは、あらゆる事象を一つの物語に組み込むことができる万能な伏線装置と言えるのだ。ねこさんも話の中で(だいぶ省いているが)、神との出会いをきっかけに数々のイベントが、神の導きによって起こり、そして今に繋がったとおっしゃっていた。信じるかを度外視しても、この壮大な人生物語がとても引き込まれる興味深いものであったのは紛れもない事実であった。そんなこんなで、箕輪さん方のように、本でも何でもをコンテンツを世に出すとき、出すまでの過程もストーリーとして、コンテンツ化してしまう時代に、ストーリー性の大事さを体感したわけであった。

この日、クリスチャン数人とお会いしたが、皆口を揃えて「信じる絶対的一本の柱があると、どんなときでも救われる。」といった内容のとこをおっしゃっていた。それは言えていると思った。実際に自分には絶対的に信じているものはないし、むしろ落合さんの言う「全てを疑え。」的な考えの方がしっくり来る。ただ、こと医療においては、患者さんを本当の意味で救うのはそういった、信仰心による救いなのかもしれない。手術でも、薬でも、どうにもならない患者がいたとして、もし信仰によって心穏やかに逝けるのであれば、それは間違いなく素晴らしいことだ。信仰がどうのこうのではなく、その「心穏やかに逝ける。」という事実は医療者の求めるところであると思う。その意味で、もっと宗教というものを勉強しなければと思った。医療者として避けては通れないと。映画「サイレント」を見たときなどに、そういったことを考えたことは幾度もあった。さらっとキリスト教の歴史も勉強したことも。しかし、そういったことは、その「人」に触れないと始まらないのだろう、きっと。岡山の有名は教会をねこさんに紹介してもらった。私のよく知った大学の先生の兄が神父をしているらしい。次岡山に帰るときはそこに寄ってみるつもりだ。