無限円転

 逆上せていた私は中学生の頃「あゝ小学生の頃は良かったなァ不可逆性を知らず」などと考えていた。勿論、石川啄木の詠を眺めながら。今になりゃ高校もそうであった。(恐らく数年後には今も、そう、であると悟る)

 時は不可逆的に進む。其ればかりか圧倒的な質量を持って積み上がる。絶対的には平等であるのだろう。が、相対的には異なる。私が無為に過ごした、ドブに捨てた時間を使い、他者は一体どれだけの事をして来たのだろう。


 考えなくて良い事を考えてしまう。明日、事故って足が無くなったらどうやって生きて行こうとか、猫はラジコンみたいに誰かが動かしているのだろうかとか、足の小指折れたら痛いよなとか、郵便ポストにコーラ注がれたら困るなとか。本当にどうでも良い事を考えてしまう。


 結局、私(たち)は、状況や思考を、「知っている」か「知らない」かで結論を大きく変える。背景一つで意見も主張も手のひら返し。出鱈目だ。

 他人事はどこまで行っても他人事。いっくら頭を捻ろうと、どれだけ涙を呑んで悩もうと、自分では無い。

 不当な差別が無くなって欲しい、少しでも多くの人が不自由無く生きて欲しい。本気でそう思っている(と思う)。腕が無い人も足が無い人も染色体が45本や47本の人も、全員が全員、自分の意思で(公共の福祉に反しない程度に)自分のしたい事を出来るようになって欲しい。私はそう考えている(と思う)。だが、其れらは飽くまでも他人事なのだ。私に腕はあるし足もあるし染色体は46本だ。これから腕や足が無くなる可能性はあるが、現時点では付いている。


 「個性だ」という行為も望んでいる訳では無い。


 もっと突っ込もう。


 人は多くの場合、個性を望む。自己同一性が形成されるあたりから、他人と違くありたいと思う。ショウガイを持って生まれて来た子供の親は「ショウガイは個性だ」と言う。分かる。小学生の時に良く連んでいたヤツは自閉症であった。耳が滅茶苦茶良く、聴いた音を一発で再現出来た。ついでに目も良かったので他人が楽器を弾いている様子を見るだけで、初めて触れる楽器でもそれなりに弾けた。此れらが100%自閉症によるものかはわからない。だが少なくても此れらは「個性」と言って差し支え無いだろう。しかし、其れは私の意見だ。私は「他人」である。

 自分の子供に頭が良いとか足が早いとか音楽や絵画の才能(私は才能という言葉が好きでは無いのだが)があるとか、そのような「個性」を持って産まれて欲しい、と願う親は多いだろう。では、ショウガイを望む親は?


 差別だとか多様性だとか、其の言葉や考え自体が其れ自身(差別)を産んでいるとは思う。差別を無くそう差別を無くそう、と言う時。自分は差別されない側の人間で、別に差別される側の人間がいるという構図が既に完成している。『差別をされるのは弱い方。弱い方は“可哀想”だから強い方の私たちが守ってあげなくては』。多様性についても同義だ。私は腕と足が付いている事に感謝しているし安心している。だが其の感想自体が既に差別を生んでいるのだろう。心の何処かで腕や足が無い事を、不幸な事や安心出来ない事として捉えているからだ。


 しかし此れらの思考が無意味である事も私は知っている。一々こんな事を考えていては何も進まない。何かを変える過程で綻びは確かにあるのだろう。其れら全てに気を配れる程、私たちは優れていない。

 私は小学生の頃に連んでいたアイツを「自閉症」という括りでしか見ていなかったのかも知れない。『自閉症だから耳が良い』。だとしたら私はもうダメだ。分かりやすい記号(括り)でしか物を見れないのならば価値は無い。日本人だとかショウガイ者だとか男とか女とか。見るべきは肩書きでも何でも無く其の人自身であるのに。


 何の保障もしないし出来ない。大体、覚悟無しに関わってはいけないのだ。最後は自分で決めて、と責任だけを譲渡して。能無しか?だんまりさん。意味なんか無くて。極論、本当に意味は無いと思う。10年後にはみんな死んで墓の塵も無くなり。記憶は一切の存在を無に帰す。(記憶の有無を判断する事は厳密には不可能であるが)


 どうしてこう、上手く回らないのだろうか。世の中考えなければいけない事は腐る程あるのに。其れらを処理するだけの能力を、私は持ち合わせていない。非常にイライラする。「人間」を上手い人が多い。そんな事も出来ないから!こんな所で!こ!ん!な!事を!しているのだろ……


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