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プロ野球選手総背番号制 番号別イメージ変遷史 2008年“開幕時点”版 背番号「2」2/3

こんにちは!スポーツデータアナリストのにーにーです。黒島大鉄さんの著書「プロ野球選手総背番号制」の内容第5弾(背番号2の続き)をご紹介したいと思います。

万能選手が多ければ、当然コンバートも頻発。別揚表で大まかな流れは拾えるがそれでも不充分。小森、荒木には外野メインの年もあるし、’01年金城はまさに内野→外野のコンバート年。「2」の新紀元となった高橋も外野→内野、逆に松本は内野→外野への転向組。本屋敷、小坂といった名遊撃手があっさり二塁転向したのも見逃せない。

だが黎明期の「2」番像は、山下、小川とクリーンナップ固定の中心選手、が先行。脇役も中堅・寺内、二塁・江口、遊撃・中村は不動だ(中村は’40年復帰後は三塁)。また’38年から山下、’42年には寺内、がともに離番初年度プレーイングマネジャー就任。津田も’36年巨人第2次米遠征時の主将。チームの支柱(=幹部候補)イメージはここから始まっている。

戦後に入ると元盗塁王・呉、山田と、捕手・筒井、熊耳、日比野のイメージ陣取り合戦。これに強打の辻井~岩本義、投手の内藤、バイプレーヤーの小林、鈴木秀までまじえたゴッタ煮状態突入。から抜けた感ありの捕手像だったが’49年筒井が巨人・三原修監督に”ポカリ”される(背「31」参照)と、同オフ日比野が新球団・パイレーツに引き抜かれ一気に消沈。

渾然一体のまま2リーグ分立を迎えると、投手方は藤村富美男の弟・隆男を、捕手方は’44年新人初の打率3割記録の阪田(ただし当年全35試合)、元甲子園の人気選手「和中の和中」を、俊足タイプには前年の都市対抗優勝チームから今久留主兄弟の兄・淳を、強打者勢も’48年都市対抗で初の天覧本塁打を放った小野田を、と全勢力とも話題の選手を取り込みがっぷり四つ。この状況を象徴するように、山下からスターの座を継いだ岩本は、’51年にゲーム4本塁打記録の強打者であり、’50年トリプルスリー(3割、30本塁打、30盗塁)達成の脚力もあり、’51年27試合連続安打、’52年シーズン24死球と出塁にも長けたオールラウンダー。これは別番時のことだが、通算で捕手に3試合、投手でも1登板する”神主裁き”で全系譜痛み分けによる事態の収束を図った。

その後スターの座は広岡へ。その広岡遊撃手と早大で三遊間を組んでいた小森、翌年参入の小玉(三塁手)とで幹部候補イメージを増強。3人中、旗頭が広岡だったことは以降の木村、平井、浜中、さらに小池、岩下、一枝、山崎裕、バート、広瀬…と続く遊撃名手の大氾濫からも明らか(山崎は’69年~二塁手)。投手&捕手像はその波にモロに呑まれた。

強打像も岩本以降矮小傾向。小玉、山崎は四番起用された年もあるがあくまで中距離系。長距離像の打刻者は栗橋、レオンに’79年竹ノ内、から鈴木貴、バンスロー、ロペス、に城島、小笠原、’06年リグスといったところだが、四番を張ったのは栗橋、レオンの2人だけ。主役というより助勢タイプの印象(栗橋もこちら役期間の方が長い)。

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