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天才とは、喜ぶ者だったりして

 わたしが好きなスポーツアニメに『ピンポン』というものがあります。
 昔、友達に勧められたのですが、卓球アニメですし、登場人物の顔もべつに格好よくないし「興味ないなぁ」と断っていましたが……観てみると、すごく面白いんです。
 


 ピンポンの主人公は、星野裕(通称ペコ)。
 親友に、卓球道場からの幼なじみである月本誠(通称スマイル)というメガネ男子がいます。
 
 あらすじを解説すると、ペコは確かな卓球の実力を持ちながら、それに驕り、練習を怠っていました。
 ある時、ペコは、他校の卓球部に留学してきた孔文革(通称チャイナ)が、その学校の卓球部に雇われたことを知ります。
 ペコは偵察のために、チャイナと卓球で勝負しますが、あっけなくボロ負けします。
 


 しかし、チャイナは、ペコに対して、ほんの人匙の興味すら持たず、むしろスマイルの素質に関心を向けていました。
 また、ペコが所属する卓球部でも、その顧問はスマイルだけを贔屓し、「ペコと戦うときに手を抜くのを辞めろ」と言われます。
 
 さらに、今まで見下してきたもうひとりの幼なじみ、佐久間学(アクマ)に公式戦で、またまたボロ負けします。
 昔は実力で圧倒的に勝っていたのに、終始アクマに試合をコントロールされて、敗北したことで、ペコの心はすっかり萎えてしまいました。
 
 やる気が意気消沈したペコですが、そのアクマですらスマイルに敗北してしまうのです。
 
「オレは努力したよ! お前の10倍 100倍 いや1万倍努力したよ! 風間先輩に認められるために ペコに勝つために 一日中卓球のことだけ考えて なのにどうしてお前なんだよ!? 一体どうして!!」
 
 というアクマの慟哭に、スマイルはぽつりと一言。


 いや、鬼畜!
 その言葉に、アクマだけではなく、ペコの心までもポッキリと折れてしまいました。
 そうして、ペコは学校の焼却炉で自身のラケットを燃やし、卓球を辞めることを決意するのです。
 
 その後で、ペコは大復活し、見事な成長を遂げるのですが……わたしがこの物語を通して、あなたに伝えたいことは、ペコは決して才能がある訳ではなかった、ということです。
 
 少なくとも、世間一般的に見る才能は、ペコにはなかったのだと、わたしは思います。
 なぜなら、アクマ以外、誰もペコのことを見向きもしなかったからです。
 
 卓球大国・中国からの留学生も、
 日本代表の最終候補まで残った過去を持つ顧問も、
 インターハイで二年連続個人優勝を果たした最強の選手も、
 誰も、ペコに素質があるとは思いませんでした。
 
 ピンポンを読んだ人、観た人であれば、分かってくれるかもしれませんが、はじめこのアニメを観たとき、「結局才能が全てなんだなあ」と思いませんでしたか?
 
 ペコには才能があったから、短期間の練習で誰よりも強く成長できたんだろうし、世界って残酷だなあ。
 とか思いませんでしたか?
 正直、わたしは思いました。
 
 でも、よくよく考えてみると、アクマ以外、誰もペコに才能があると思ってなかったんですよね。
 むしろ、みんな、スマイルに注目していました。
 みんな、スマイルこそが天才だと思っていたのです。
 
 実際、ペコとスマイルの間には、一生かかっても埋め切れないような実力の差がありました。
 ペコはそれを理解してしまったから、絶望して、卓球をやめてしまったのです。
 
 しかし、コーチングにおいて、現在の能力は何の足枷にもなりません。
 ゴールを叶えるうえで、現在の能力なんて関係ないからです。
 エフィカシーとは、「ゴールを達成する自己能力の自己評価」です。
 平たく言えば、「わたしはゴールを達成できる」という確信ですね。
 
 エフィカシーを上げるために、根拠はいりません。
 むしろ根拠があると、根拠が崩れた場合、自動的にエフィカシーが下がってしまうので、危ないのです。
 
 以下、まといのばより引用させていただきます。
 
(引用開始)
 
自分を無根拠に巨大であると見做すのです。

ちなみに根拠があってはいけないのです。自信と同じで、無根拠な自信は根拠が無いゆえに強いのです。根拠があると、その根拠を崩された時に自信を失います。しかし根拠がなければ、崩される土台がありません。

これがエフィカシーとつながり、心の安定感につながります。
 

 
(引用終了)
 
 才能とか天才とかも、それと同じだと思います、
 
 卓球で言えば、
「わたしはカットが上手いから才能がある」
「わたしは打つスピードが早いから才能がある」
 などという考えは、意味がないと思います。
 なぜなら、いくらあなたがその技術に長けていたとしても、上には上がいるからです。
 
 そういった自分より上のプレイヤーに出会ってしまったとき、その、なんらかの根拠によってエフィカシーを上げていた者は絶望し、挫折します。
 
 しかし、根拠のないエフィカシーを上げていた者は、同じように絶望していたとしても、「いや、わたしはもっと上手くなれるから!」と奮起します。
 
 まさに、村上春樹の
Pain is inevitable. Suffering is optional.(痛みは避けがたいが、苦しみはオプショナル(こちら次第))(村上春樹『走ることについて語るときの僕の語ること』)ですね!
 
 しかし、そういったエフィカシーを持つのは、やっぱりとても難しいと思います。
 これも、ある種の洗脳と言うのでしょうか。
 どうやらわたしたちは、なにか、なんらかの根拠がないと、自信が持てないようです。
 
 お金を千円しか持っていないのに、「今一万円あるよ」と言うことに、わたしたちはなぜだか罪悪感を持ってしまいます(もちろん、騙すことを目的にするのはNGですが)。
 
 けれど、本気で勘違いすることでしか、結果はついてこないのだとも思います。
 
 エフィカシーといえば、まといのばのある記事がとても面白いので、引用させていただきます。
 
(引用開始)
 
その中でも非常に不思議なのが、いちじくの木を呪うシーンです。

イエスが呪う?

そうなんです。イエスが呪うシーンが外伝などではなく、描かれています。

状況はこんな感じです。

イエス様はともかくお腹が空いていました。

遠くに茂みを発見します。もしかしたら何か果物にありつけるかもーーと思って、わざわざ近づいてみると、、、それはいちじくの木でした。しかし、葉っぱばかり、、、、残念。
 
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*葉っぱは人類最初の2人の大事な服でした。
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そのときはいちじくの実がなる季節ではなかったのです。

普通はそこで「仕方ないよね」と諦めます。

でもイエス様はプチンとキレます。
キレてこう言い募ります。

「今から後いつまでも、おまえの実を食べる者がないように」

非常にひどい言い草です。

しかしそれだけではありません。それを言ったのが神の子イエスなので、単なる毒を吐いただけにとどまらず、、、「おまえの実を食べる者がない」が成就するために、哀れないちじくの木は枯れてしまいます。
 
(中略)
 
で、なんでイエスは呪ったのでしょう。

空腹や疲労があっても、エルサレムでテンション高くても呪うことないのに、、、と僕らは思います。
ましてや、ほぼイエスの過失です。
時期でないときに、果物を求めたからです。

なぜそんなかわいそうないちじくの木を呪ったのでしょう。

これはイエス自身がすでに答えていました。

季節外れであろうが、どんなに不可能であろうが、自分が茂みの中にいちじくの木を見つけたなら、そして自分が空腹である以上は、実があって当然だと思っていたのだと思います。

むしろそういう奇跡をひたすらに起こしてきて、その奇跡が当然というエフィカシーの中にいるので、実がないことに心底驚いたのではないかと思います。

そこで、あなたがたに言うが、なんでも祈り求めることは、すでにかなえられたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになるであろう。

この祈りが24時間365日継続されて、イエスという生き方を構成しているので、あの時点でいちじくの実がないというのは、季節だどうたという以前にありえなかったのです。

そんなことを感じました。

(中略)
 
ですから自分が見ればいちじくには実がなっているべきなのです。
そのエフィカシーが世界を変えたのでしょう(たぶん)

蛇足ながらエフィカシーとはゴールに対する自己評価であり、それを平たく言えば、

なんでも祈り求めることは、すでにかなえられたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになるであろう。

ということです。

我々も、かわいそうないちじくの木をつい呪ってしまうくらいの激しいハイエフィカシーで行きましょう!
 

 
(引用終了)
 
 わたしたちも、これくらい激しいハイエフィカシーを持つことが理想なのだと思います。
 でも、先ほども言いましたが……それが難しいんですよね。分かります。
 
 でも、解決法はあります。
 コーチに上げてもらう、というのも一つの手です。
 が、すでにピンポンにその答えが提示されている、と私は思うのです。
 
 ピンポンに話を戻します。
 詳しい話は省きますが挫折したペコに、同じく挫折したアクマが激励します。
 
(引用開始)
 
「俺はお前の才能が欲しかった! 戦型もラケットもフォームも全部お前をまねた! でもお前にはなれなかったよ!」
 
「クラスのみんなみんなお前に憧れてた。俺らにとってお前は……お前、誰より卓球好きじゃんよ!」
 
(引用終了)

 
 その言葉は、たしかにペコの心に響きましたが、しかし、それでもペコが再起する理由にはなりませんでした。
 途中、水に濡れたペコは、道場のお風呂を借りますが、そこでふと見た写真にペコは引き込まれます。
 


 そこには、卓球大会に優勝した自分が写っていました。
 その瞬間、ペコに、あの日の感情が甦ります。

 ガムを膨らませながら、ど真ん中で、優勝トロフィーと共に撮ってもらった瞬間……どれだけ幸福だったことか。
 それは、あの日の写真に写る自分が物語っています。
 
 ペコはその感情に浸り、そして……覚醒するのです。
 
(引用開始)
 
「オババ!」
 
「告んのかい?遊びならやめとくれよ」
 
「違えよ! マジだってオババ! もっかい俺に握り方から教えてくれろ!」
 
「バカに構えば日が暮れるってね」
 
「オババ、俺にチャイナ退治させてくれ! 俺卓球でてっぺん取りてえんだ! 夢は世界チャンプ!」

(引用終了)
 
 アニメを観たとき、なんだこの展開は! 突然すぎる! と思った人がいるかもしれません。
 わたしもまた、話に少し置いていかれて、「ん?」と首を傾げてしまいました。
 
 なんで、過去の写真を見ただけで、ペコのエフィカシーはあんなにも向上したのか?
 なんで、ペコは世界チャンプを目指そうと思ったのか?
 なんで、ペコはあれほど頑張れるようになったのか?
 
 その答えは、まといのばのブログが示してくれている気がします。
 
(引用開始)
 
たとえば、楽しいことを思い出し、その楽しみを心底味わうと、、、、それは記憶から追体験になります。追体験ということは、いまここで体験していることになります。

すなわち、過去の出来事が今の出来事になるということです。

過去 → いま →

ということです。
 
(中略)
 
ですので、自分の心の宝箱から良い記憶を引っ張り出したら、それを心底味わいましょう。
そして、それを増幅しましょう!
脚色して増幅するイメージです。キラキラと過剰に増幅します。
この増幅が肝です。

ついニヤけてしまうレベルに増幅します!

そのとき触手が伸びていきます。情報空間を伸びていくのです。増幅感が得られたら、それをもっとホルモンレベルで肉体レベルで増幅していきます。喜びを増幅していきます。

すると、過去の記憶が、今の追体験になり、そして未来の記憶となります。

過去 → いま → みらい

です。

すると未来のイメージも見えてきます。
連想ゲームのようにして、「あ、そういうことか」と未来が見えてきます。あたかも確定した未来が提示されたかのように。
 
これは忘れいた名前を思い出すのと似ています。
「あれ、あの女優さんの名前なんだっけ?」と記憶を検索することはよくあります。
しかし、不思議なことに忘れいた名前は忘れいたはずなのに、思い出すと、その名前が正しいことが分かります。忘れいたはずなのに、覚えているのです。

これと同様に「夢」や「ゴール」は思いつかなくても、提示された瞬間にそれだと分かります。

一目惚れのようなものです。ひと目で恋に落ちる体験と似ています。

会ったことがなかったのに、会った瞬間に「分かる」のです。
 

 
(引用終了)
 
 つまり、ペコは過去の喜びを追体験したことで、未来のイメージが見えたのです。
 まるで、あたかも確定した未来が提示されたかのように。
 そして、一目惚れしたかのように、ペコはその未来に強烈なリアリティーを抱いたのです。
 
 よく、まといのばのブログで使われている例なのですが……人は恋をしたとき、勉強ですら「want to」に変わります。
 なぜなら、恋人に勉強を教えたいからです。
 
 それと同じように、ペコは今までの遅れを取り戻すために、猛烈に鍛錬します。
 地獄のような鍛錬です。
 
 視聴者や読者、そして他の登場人物たちも、ペコのことを天才と言います。
 しかし、誰も、ペコが、どれだけ努力したのかを知らないのです。
 
 オーバーワークで膝に爆弾を抱えるほど、ペコは猛特訓したのです。
 そして、それは「have to」ではなく、「want to」だったのです。
 
 同じ時期に卓球をやっていた誰よりも、ペコは、ペコだけは、深い喜びの中にいました。
 わたしは、それが才能なのだと思います。
 
(引用開始)
 
乾きが止まらないと言えば、Never enough(満足できない)ですが、「Never enough」の中の人がついにBGTに出たそうです!
 
(中略)
 
このNever enoughは決して砂上の楼閣のような喝采ではなく、踊る喜び、歌う喜び、いや声を出すだけで嬉しい、身体を動かすだけでそれが嬉しいというような裸のWant toであるべきなのです。
そしてそれを心から楽しみ、誰からもその喜びを奪われたくないようなものであるべきです。いや、あるはずなのです。

音楽とは音を楽しむと書きますが、まさに言い得て妙です。音を心から楽しむことです。それを聴くことを楽しみ、奏でることを楽しむことです。純粋に。

その意味では、学問は楽問(がくもん)と書いて、「問うことを楽しむ」とでも再定義したらどうでしょう(いや、悪ノリです)。

最後に「才能革命」でも引いたアランを紹介します!
能力の輪がいかに才能につながり、Crazy onesに繋がり、天才に繋がり、そして幸福に繋がるかが見えてきます。それは結果ではなく、最初の最初から同時的に起こるものなのです。

(引用開始)
幸福はいつもわれわれの手から逃げて行くといわれている。人からもらう幸福については、それは正しい。人からもらう幸福などは、まったく存在しないからだ。しかし、自分でつくる幸福というのはけっしてだまさない。それは学ぶことだから、そして人はいつも学んでいる。知ることが多くなればなるほど、学ぶこともますます多くなるのだ。そこからあのラテン語を学ぶ楽しみが生まれる。それには終わりがない、否、むしろ知識の進歩によって楽しみが増大している。音楽をやる楽しみも同じである。だからアリストテレスはあの驚くべきことばを吐いている。真の音楽家とは音楽を楽しむ者のことであり、真の政治家とは政治を楽しむ者のことである、と。「楽しみは能力のしるしである」と彼はいうのだ。これはすごいことばだ。このことばは表現の完璧さのゆえに鳴り響き、学説をよそにしてわれわれの心を捉える。幾度否認してもついに無駄であった、この驚くべき天才哲学者を理解しようとするならば、この点をこそよく見なければんらない。何事をやるにしても、ほんとうの進歩をあかしするのは、人がそこでどんな楽しみを感ずることができるかである。そこからわかるのは、仕事は唯一のよろこび、それだけで満たされたよろこびであることだ。わたしが言っているのは、自分で自由にやる仕事のことで、それはつまり、能力を示すわざであると同時に、能力が出ている源でもある。くりかえすことになるが、人にやってもらうのではない、自分でやることだ。(引用終了)(アラン『幸福論』)

 

 
(引用終了)
 
 ペコは誰よりも無邪気に、卓球を楽しんでいました。だからこそ、誰よりも抜きん出ることができたのではないでしょうか。

「卓球を楽しむ才能」というと、どこか安っぽく感じますが……本当に、本気で、ペコのように何かを楽しむことができたなら、わたしたちも周囲から抜きん出ることは可能なのだと思います。
 
 「want to」とは、欠落も意味しますが、同時に、それは深い喜びの中にあるべきなのでしょう。
 
 でも、そういう「want to」にたどり着くのは、やっぱりとても難しいですよね。
 
 なら、まずは、自分の成功体験を思い出すことから始めてみてもいいのかもしれません。
 
 ちなみに、訓練方法は苫米地博士が教えてくれていますので、引用させていただきます。
 
(引用開始)
 
① 今までにうまくできたと思うことを5〜10個、リストアップします。
② 次に、それらをひとつひとつ、じっくり思い出し、そのときに味わったポジティブな感情を引き出します。
③ その感情のままで、ゴールにいる自分とその世界をビジュアライズし、自分にこう問いかけるのです。
「この感覚は、私にとってどういう意味を持つのか。たいへん大きな意味を持つ」と。
 このトレーニングは、過去の成功体験によって将来の成功体験を色づけし、未来の情動記憶をつくるものです。このトレーニングを続けていくと、可能性は無限に広がります。幸運は偶然手に入るものではないし、人生は意識的に発展させるものです。
 セルフ・エスティームとエフィカシーが高まれば、ゴールの世界のリアリティーも強まり、あなたのマインドも変わっていくのです。

 


 
(引用終了)
 
 正直に告白すると、これ結構難しいんですよね。
 成功体験って意外と思い出せませんし、思い出してもそんなに感情を味わえないですし。
 少なくとも、わたしは失敗しました。
 きっと、なんらかの落とし穴にはまってしまったのだと思います。
 
 先生にまた、今度、コツとか訊かせていただこうと思います。
 上手くできるようになったら、記事でシェアしたいと思いますので、期待してくれると嬉しいです。
 
 それでは、また。
 またね、ばいばい。
 

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