悪魔は非モテかも
『Re:ゼロから始める異世界生活』とは、岡田斗司夫先生によると、まどマギの暁美ほむらを、主人公にしたバージョンと考えると、面白いらしいです。
どんなことがあっても諦めずに、常に可能性を探そうとするのは、リゼロのナツキ・スバルも、まどマギの暁美ほむらも同じです。
しかし、まどマギは鹿目まどかが主人公なので、物語の都合上、暁美ほむらは諦めるしかない運命にあります。
それが、スバルとほむらの違うところです。
なるほど、とても面白いですし、分かりやすい考えだとわたしも思います。
けれどわたしは、ほむらはどちらかと言えば、ifルートのスバルと似ている、と考えています。
リゼロのナツキ・スバルは、『死に戻り』という力で、何度も時間を巻き戻すことで、望む未来にたどり着くことができます。
しかし、リゼロには、なんの因果か決定的な間違いを犯してしまったナツキ・スバル、というifルートが存在します。
何度も時間を巻き戻せるならば、その人間は必ず望む未来にたどり着くことができるのだろうか。
そんな問いに、ifルートは、こう応えてくれます。
すなわち、本人が決定的に間違えており、それを自覚できていないのならば、望む未来にたどり着くことは絶対にできない、ということです。
なぜなら、その望む未来すら、本人には見えていないのですから。
いわゆるスコトーマです。
だから、読者からすると、「こんなの間違ってる!」と叫びたくなるような道を、ifスバルは全力で駆け抜けてしまいます。
そんなifルートのひとつに、『ゼロカラアヤマツイセカイセイナツ』というストーリーがあります。
https://ncode.syosetu.com/n2267be/438/
簡単に説明すると、非モテのナツキ・スバルが、生まれて初めて一目惚れしたハーフエルフの美少女、エミリアに強く執着する物語です。
正史ルートのスバルとは違い、ifルートのスバルはエミリアのことを、名前すらろくに知りません。
新聞伝いの情報でエミリアの名前と、彼女が国王になりたいことを知ってから、スバルはその強い執着心によって、彼女の願いを叶えるために奔走します。
スバルは次々と、「魔女教幹部」という巨悪を死に戻りの力で倒しては、その功績を何も知らないエミリアの肩に被せます。
しかし、それは彼女が望まない道であることを、スバルはついぞ分からなかったのです。
最終的に、スバルは王国を戦火で焼き尽くす首謀者となり、その世界で最大の巨悪となりました。
スバルの狙いは、そんな自分をエミリアに殺させることで、エミリアを英雄にするというものです。
殺された瞬間、泣いて「どうして? どうして? どうしてこんなことしたの?」と疑問符を吐き続けるエミリアに、スバルはなにも答えず、ただ「愛してる」と囁いて死にます。
そんなストーリーが、「ゼロカラアヤマツイセカイセイカツ」のナツキ・スバルです。
ある種の、完結してしまった愛、という言葉を連想させる物語だと思います。
こうすれば相手は幸せになれるはずだ、と思い込んで、相手の意思も確認せずに突っ走る。
そんな自己完結してしまった少年が主人公の物語です。
わたしは、この物語にまどマギの暁美ほむらが、重なって仕方ありません。
そして、個人的に、まといのばのブログで書かれていた非モテの歌とすごく重なる部分があると感じます。
以下より、まといのばのブログを引用させていただきます。
(引用開始)
(ブログから引用)
♬My life is brilliant
My life is brilliant
My love is pure
I saw an angel
Of that I’m sure
She smiled at me on the subway♬
(俺の人生は最高だ
俺の人生は最高!
俺の愛情は純粋。
天使を見つけたんだよ。
いや、本当に。
天使は俺に微笑みかけたよ、地下鉄で)
(歌詞とMVをじっくりと味わうと、ゾクッとします。
平たく言えば、、、ここからはネタバレですけど、、、、
強烈な非モテこじらせ系の詩です。
非モテをこじらせすぎて、軽く目があって会釈されただけで、好意を持ち、持たれていると思い込み、ストーカーになることすらなく、当てつけ自殺をしてしまうという悲惨な詩。
全世界でヘビロテされました。面白いことに多くの結婚式でも使われて、、、、なぜ?)
(ブログ引用終了)
歌詞の邦訳については、たとえばこちらを!
いやー難しいですよね、結局、自分が正しいと思っていたものが間違っていて、自分が天使だと思ったいたものが悪魔で、悪魔的なしゃべる化け猫が実は自分を導いてくれたガーディアンエンジェルや神様だったということはよくありますよね。
「環」的な閉じたありかた(他者性の不在)というのは、草太にも鈴芽にも言えるわけで、他者も隣人もいないEgoism(自分は他人を助けるだけで、助けられるとは夢にも思っていないあり方)が結局は周りを巻き込んで、周りを不幸にします(自戒を込めて)。
(でも助けを求めてはいけない人に助けを求めては、一緒に地獄行きなので、それもまたなかなか悩ましいですね)
(引用終了)
ifルートのスバルは、「非モテをこじらせすぎて、軽く目があって会釈されただけで、好意を持ち、持たれていると思い込み、ストーカーになることすらなく、当てつけ自殺をしてしまう」少年です。
スバルもまた、歌詞のように勝手に一目惚れして、勝手にエミリアの力になろうと行動して、勝手に王国を巻き込んだ当てつけ自殺を始めます。
どこまでも勝手で、自己完結的です。
「自分は他人を助けるだけで、助けられるとは夢にも思っていないあり方」という言葉は、スバルにも、暁美ほむらにも、そしてわたしたち自身にも、響きます。
暁美ほむらが、なぜifルートのスバルに重なるのかと言えば、それはほむら自身も自己完結しているからです。
元々、ほむらは、「鹿目まどかを助ける」という願いで魔法少女になり、タイムリープの力に目覚めます。
だからこそ、彼女は鹿目まどかを救うことに執着しています。
まどかを助けられない自分には価値がない、と思い込んでいます。
そして、なんとなく、ほむらは、まどかを救う自分に執着しているように、わたしは思います。
まといのばのブログでは、暁美ほむらの在り方は魔境だとおっしゃっていました。
(引用開始)
ほむらはまどかに執着しすぎで、「その在り方が魔境でしょ」って思いますし、
(中略)
(ほむらがまどかを通じて自己実現したいと思うことで餓鬼になったように)
(引用終了)
自分に自信がないことが、いかに自分だけでなく、周囲にも害悪であるか、リゼロとまどマギが教えてくれます。
タイムリープする前のほむらは、長い間心臓病で入院しており、そのせいか常に周囲に対して劣等感を抱いていました。
しかし、まどかを助けると決意したことで、ほむらはそんな自分に自信を抱き、執着を持ち始めます。
誰かを助けようと、誰かの役に立とうとすれば、わかりやすく自分に価値があると思えるから。
ほむらは、まどかを助けようとする行為を通すことで、自らに価値を与えていたのです。
だからこそ、ほむらは、まどかが全宇宙の魔法少女を助けるために、菩薩のような存在になってしまったことで、自らを見失ったのかもしれません。
助けようとした対象がいなくなったのです。もはやほむらには、どう生きればいいのか、どう自分に価値を抱けばいいのか、分からないのです。
だからこそ、ほむらは、在りし日の「まどかや他の魔法少女と一緒にいた」現状を維持しようとする魔女に堕ちてしまったのではないでしょうか。
なんの話かと言うと、劇場版 魔法少女まどか☆マギカ[新編]叛逆の物語の話です。
ほむらは、魔女に堕ちかけていた自分を助けようした、鹿目まどかの力の一部を奪い取り、宇宙を改変する、という暴挙に出ました。
そして、まどかの記憶を封印し、まどかに人間としての日常を代わりに与えます。
その行動の背景にあるのは、ほむらを助けるために一時的に記憶をなくしていたまどかの言葉です。
「わたしだけが誰にも会えなくなるほど、遠くにひとりで行っちゃうなんて、そんなことありっこないよ」
「だってわたしだよ。ほむらちゃんでも泣いちゃうような辛いこと、わたしが我慢できるはずないじゃない」
「ーー誰とだってお別れなんかしたくない。もしほかに、どうしようもないときだったとしても、そんな勇気わたしにはないよ」
ほむらは、その言葉によって、もう一度まどかを助けようと決意します。
すべてを救う菩薩のような存在になったまどかを、人間に引きずり堕とそうとします。
まるで、イエスに対する悪魔のように。
それが、まどかの最も望むことだと、ほむらは認識していますが、わたしはそこに疑問を抱きます。
なぜなら、過去のまどかと、未来のまどかは似ているようで、別人だからです。
あの弱音を吐いたまどかは、自らの友人に降り掛かった悲劇と、過去のあらゆる魔法少女の悲劇を知りません。
言ってしまえば、抽象度が低いまどかなのです。
ほむらは、過去のまどかの言葉を、未来のまどかの意思だと曲解して、彼女を神の座から引きずり下ろしました。
これを日常に置き換えると、
たとえば、過去に「医者とか激務で嫌だわ〜」と言っていた友人が、現在では医者をしていたので、過去の「医者は嫌」という言葉を信じて、医者を無理やり辞めさせようとするようなものです。
やっていることが、完全にドリームキラーです。
その文脈で言うなら、「叛逆の物語」とは、鹿目まどかにとって、最大の親友であるはずの暁美ほむらが、まどかの最悪のドリームキラーに堕ちてしまったお話、と言えるかもしれません。
ifスバルも、暁美ほむらも、相手の願いを曲解して自己完結し、望んでもいないことを勝手にしてくるドリームキラーという点で似通っています。
その根本にあるのが、ふたりが非モテをこじらせたからだったら、なんて個人的に思います。
ナツキ・スバルは異世界に偶然転生するまでは、ただの引きこもりだったし、暁美ほむらは言わずもがな心臓病で長い間入院していました。
ふたりとも、モテるどころか、そもそも、ろくに人と関わってすらいません。
非モテの特徴とは、最初から本気になり過ぎていることだと思います。
スバルは一目惚れした人を助けるために、何度も死に戻りますし、ほむらもはじめての友達のために、魔法少女になって何度もタイムリープします。
物語としては明確で、わかりやすいですが、現実だと、それが悪い意味で作用することが多そうです。というか物語でもそうなったのですけどね。
何事もほどほどに、執着し過ぎてはいけない、とはお釈迦様の言葉だったでしょうか。
まといのばでは、それを「非モテ対策」と呼んでいるようです。
(引用開始)
非モテ対策と似ていてます。
とりあえずデートに誘う、とりあえずLINEしてみる、とりあえず食事してみる、、、、で良いのです。
「その人と添い遂げる覚悟はあるのか?」とかマジにならないことです。
相手からしたら「は?」という話です。
たくさん練習して、本当の恋愛へと発展していきます。
失敗しても、挽回できます(たぶん)。
でも、何もしなければ、時間だけが過ぎていきます。
チャンスが失われていきます。
(引用終了)
強烈に非モテをこじらせたスバルやほむらに、わたしたちが同情しつつも、嫌悪感を抱いてしまうのは、それが他人事ではないからかもしれません。
少なくとも、現在非モテのわたしにとっては他人事ではありません。
もしかしたら、モテるというのは、人間社会で生きる上での義務なのかもしれない、と最近感じています。
陰キャも、非モテも、自分にも他人にも迷惑をかけます。まさに百害あって一利なしです。そんなものを自慢にするのは違います。
もし言えるなら、過去の自分にそう言いたいですが、そんなことは無理なので、現代の自分にこそ強く言い聞かせたいです。
モテるのは、人類にとって当たり前で普通で、そして義務だと。
それでは、また。
またね、ばいばい。
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