情報は生命を持つし、気の球も生きています
今日は、わたしの先生に二時間ほど講義していただきました。
先生と会話する時間は、わたしにとってスコトーマが外れる体験だらけです。
これから高い確率で訪れる未来。
今現在起こっているのに、多くの人間が見過ごしている事実。
これからのわたしの未来。
衝撃だらけです。
しかし、最も衝撃的だったのは「情報とは生命を持つ」ということでした。
情報が生命を持つ?
つまり、ドラえもんやしんのすけは、わたしたちと同様に生きているのですか?
ええ、そうです。
ドラえもんも、しんのすけも、決して、物理的に息を吸って吐いているわけではありません。
しかし、彼らは、たしかに情報空間に息づいていて、生体レベルでわたしたちに影響を与えていることは、否定できない事実だと思います。
たとえば、ふと先週コミックで死んだキャラを思い出して、ホロリと悲しくなったり、逆に、あるキャラの面白いセリフを思い出したことで、クスっと笑ったことは、あなたもあるでしょう。
他にも、マンガを読み返してみることで、そのマンガのキャラのセリフが、以前とは違う味わいに感じたこともあると思います。
キャラクターという情報は、そこらに歩いている人たちよりも、よっぽど強くわたしたちに影響を与えます。
ドラえもんやしんのすけは、わたしたちの縁起の中に組み込まれているのです。
それを生きていると言わないで、一体なんと言えばいいのでしょうか。
(引用開始)
我々は情報空間に浮かんでいる「情報」を相手に仕事をします。
で、その「情報」を生命と見做しています。平たく言えば、生き物だと思っています。
どんな感じの生き物かと言えば、、、、、こんな感じでしょう(笑)
勿怪とか、物の怪とか、妖怪とか霊みたいなものと同じ感覚です。
で、これらを「情報」でしかないと共に、情報は必ず後ろにアルゴリズムがあり、アルゴリズムがある以上は生命を持つかのように動くと考えます。菌やウィルスに意志があるかのように振る舞うのと似ています。
(引用終了)
先ほどは、キャラクターだけでたとえましたが、他にも、過去の記憶が暴れ馬のように暴走することもあると思います。
情報というのは静的ではなく、ダイナミックに動き回り、それゆえに生命があると見なせます。
わたしは、先生にそれを教えられたとき、まといのばで紹介されたケルトの信仰のことを思い出しました。
(引用開始)
私はケルトの信仰が実に理に適っていると思う。それによると、亡くなった人の魂は、動物とか植物とか無生物とか、なんらかの下等な存在のなかに囚われの身になり、われわれには事実上、失われている。ところが多くの人にはけっしてめぐって来ないのだが、ある日、木のそばを通りかかったりして、魂を閉じ込めている事物に触れると、魂は身震いし、われわれを呼ぶ。そしてそれとわかるやいなや、魔法が解ける。かくしてわれわれが解放した魂は、死を乗り越え、再度われわれとともに生きるというのだ。
われわれの過去もそれと同じである。
(p.110 プルースト作 吉川義一訳『失われた時を求めて1スワン家のほうへⅠ』)
(引用終了)
これをたとえば、わたしに置き換えてみると、わたしは聖書を読んだことはありません。
なので、イエス・キリストといえば、人類の原罪を磔になることで背負ってくれた救世主。
そんな創作物のイメージを丸々呑み込んで、イエスといえば救世主! と思っていました。
だから、わたしがイエスと聞いてイメージするのは、慈悲深く、アリ一匹すら潰せないような心優しい青年でした。
でも、まといのばで聖書の一文などが紹介され、その読解文などを読ませていただくと、イエスが、実はかなり怒りっぽく、理不尽で、厳しい人間であることに気づかされました。
いえ、この言い方だと、イエスのイメージを損ねてしまいますね。
わたしが言いたいのは、イエスもまた、わたしたちと同じように(というには抽象度に差がありますが)、ゴールを目指し、現状がそうなっていないことに日々怒りと苛立ちを抱えていた、ということです。
自分の言葉がほぼほぼ届いていない弟子につねに怒りを覚え、いちじくの木に実がなっていないことに怒りを覚え、呪いをかけたりします。
そんなイエスをまといのばを通して知ったことで、イエスの遺した言葉は、明らかにわたしに対して、強い影響を与えました。
身近になったのです。少なくとも、道端で通り過ぎる人よりかは。
イエスは物理空間では死しても、情報空間では生き続けていて、まるで鈍器で殴りつけるように、わたしたちに影響を与えています。
それを対話と呼ぶのだと思いますし、ある種、物理的に生きている人のそれと本質は変わらないのだと思います。
どちらも、わたしたちに影響を与えている、という点では一緒です。
差があるとすれば、それは臨場感の差なのでしょうか。
ちなみに、この文章はほぼまといのばのパクリですので、原典を引用させていただきます。
(引用開始)
とするならば、我々が死者を想起する時、彼らは明らかに情報空間で生きています。彼らは確実に我々に影響を与えます。我々はそれを対話と呼びます。イエスや釈迦がソクラテスやプラトンが我々に影響を与え続けるのと同じです。生者のそれと本質的には変わりません。ジョン・レノンのIMAGINEを聞いて、我々の心に何事かの変化が起こるのと同様です。ピカソやモーツアルトのWorkの感動が彼の生死に依存するはずもありません。
新しい作品を作るのをやめ、新しい主張をすることをやめ、時間軸を共に移動することを止めただけです。
記憶という情報空間の中ではむしろ「魂は不滅」と言えます。もちろん「私」に記憶されている限りという限定付きです。しかし縁起は継続します。
ゆえに生も死もある抽象度を超えれば同じものです。
https://ameblo.jp/matoinoba/entry-10981069378.html
(引用終了)
ケルトの信仰を思い返すと、まといのばに出会うまで、わたしのなかでイエスは死んでいたのでしょう。
けれど、イエスについて知を深めていくことで、イエスは生き生きとし始めて、わたしと対話してくれるようになります。
縁起とは双方向ですが、わたしがイエスを大切に扱えば扱うほど、イエスについて知れば知るほど、イエスもまたわたしに応えてくれるのでしょうか。
となると、情報が生命を持つ、というのは言い当て妙だな、と思います。
単純な感想を述べますと、「世の中って不思議だなあ」と思います。
そして、その視点から見下ろしてみると、わたしが作り出す気の球すらも、生きているのです。
(ちなみに、気の球について知りたい方は、こちらのブログがわたし的にはおすすめです)
気の球は生きているので、
「〇〇しろ!」と命令すれば、その通りにします。
「よくやったな」と褒めると、調子に乗ります。
殺せば、空気がピリッとして、気が引き締まります。
死んだ気の球(結界)を放置していると、気づかないうちに悪さをし始めます。
これは、先生に教わったことです。
わたしたちの直感に反するようですが、事実です。
わたしもまだ腑に落ちていませんが、未知の知識とは、元来そういうものなのだと思います。
「情報は生命を持つ」と繰り返しアファメーションしながら、気の球を作っていったら、いつかその言葉が腑に落ちる瞬間が訪れるかもしれません。
まさに、ユーレカ! です。
その日を楽しみにしながら、気長に気の球を作っていこうと思います。
それでは、また。
またね、ばいばい。
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