さみしさ



数カ月ほどぱたりと自分に自分のために文章を書く習慣があったことを忘れる。そしてそれを思い出したときにああ私は別に何を書いたっていいんだった、と呆れてしまう。


文章を書くことは私にとって、明確に私のためのことだった。思考も感情も言葉にしないと形がわからない。文章を書くことは自分の中に手を突っ込んで形を少しずつ確かめるような作業だ。私が今何を考え、何を感じているか。


長らく人に会っていなかったが、さみしい、とは思わなかった。さみしさは私の内側からくる私の問題だ。人に会っていないと人に会いたいなあ、とは思うが、それはさみしさではなく恋しさだ。一人でいてもさみしいとは思わない。さみしさは人と一緒にいるときにこそ感じるものだ。会話の中でふとああ、この人とは解り合えないのかもしれない、この人は私のことが好きではないのかもしれない、と思った瞬間。そういうときに感じるもの。


人と関わることは、しいては人を愛することはとても大きなさみしさを含んでいると思う。近づけば近づくほど互いのことがよく見えるがそのぶん、よく見えると遠くから見ていたときには自分と似ているように見えた部分が実は全く違う形をしていることに気がついたりする。近づけば近づくほど私達は、私達がまったく違う人間であることを思い知らされる。そのさみしさは近づくほど大きくなる。二人はどこまでいっても一人と一人だ。抱き合って布団に入ったとしても結局眠りに落ちる時は一人なのだ。


自分と違う形のものと近づくとそのぶん自分の形のことが不安になってくる。私の方が間違っているような気がしてくる。とても厄介だ。それでも私が私の意思に反して私の形を変えてしまうと、私が私である意味がなくなってしまう。私と関わってくれている人達がわざわざ私を選んで関わる意味も。違いを受け入れて人とやっていくことは時にとても苦しい。


もしかすると人と関わることはとてもさみしくて孤独な作業かもしれない。互いに絶えず自己の喪失と再生を繰り返すことかもしれない。それでも、例え孤独に眠りに落ちようとも、眠りに落ちるその瞬間までどうか隣にいてほしいと思ってしまう。そのために私達はどうしても人を諦められないのかもしれない。どれだけ自分の形と向き合うさみしさに襲われることになろうとも。

私は文章を書くことで自分の形を確かめている。もともと私ひとりの決まった形があるのであれば、私は何度もこうして文章など書かない。人と関わって少しずつ変わっていく自分の形を、ときに一人立ち止まってたしかめることに私が文章を書きたくなる理由がある気がする。そうしていると不思議とさみしさは私に馴染んでくれる。私はようやく人を愛するさみしさのことが好きだ、と思う。

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