肌が荒れる


出張で2泊3日、人に用意された弁当を食べて安いビジネスホテルに泊まっていたら人生で一番肌が荒れた。弁当のことが本当に嫌いだ。なんであんなに野菜が少なくて脂質と糖質ばかりで血糖値をぶん上げにくるような中身なんだろう。本当に嫌だったら洗顔の水を全部買ったものにするとか弁当を断って自分で買ってきたご飯だけ食べて上司に白い目で見られながら財布を痛めるとか、方法は全く存在しないわけじゃなかったので、自分の甘さなんだけど。


毎朝、起きる度に肌が汚くなっていった。私は肌が強いことだけが取り柄で思春期も含め面皰なんてできても一度に2.3個が限度だったのに、7つくらい一気にできていた。ところどころに粒があり色も全体に赤らんだ顔はなんだか知らない人のようで、不思議な気持ちでまじまじと鏡を見てしまった。


肌が汚くなると、ああ私は代謝が存在する生身の人間なんだなと感じてその生々しさが気持ち悪くなる。体内に入るものが汚くなるとそれが見た目にもわかりやすく出てくるのだ。中が汚いと外も汚くなる。そのまま全部映し出すんだ。生々しい。生きている。摂取と排泄。人間はどうしても人形ではないので、絶えず代謝を繰り返している。人間の身体はなんか入れてるし、なんか出てるのだ。野菜や水をいつもより入れなくなると、そのまま肌も荒れて外側にも汚いものが出てくる。簡単に変化して見た目が変わってしまう。それを「肌荒れ」というイレギュラーな状態になることで久しぶりに実感し、気持ち悪くなった。普段だって食事や発汗、排泄をしているくせに。


高校生の頃、同級生に「貴女は食事とかをしなさそう」と言われたことがある。それに対して、「わかる。トイレとかにも行かなそう」と同調する人もいて、それがとても嬉しかったことを思い出した。その頃は筋トレもしていなければ水も野菜もたいして食べていないし北海道に住んでいたので、今より肌も白く、上の血圧も80くらいしかなく、体温も36度を上回ることは殆どない、学校で毎日ずっと寝ていたような私だったので、確かに今よりは無機質でミステリアスな空気があったのかもしれない(笑うところですがあの頃はミステリアスだよねと人に言われていたんだ…本当に…)。兎に角、私はそれが嬉しかった。無機物のような人間になりたかったのだと思う。性欲も食欲も生々しくて本当は嫌いだ。睡眠は無機質で静かだから好き。


確かあの頃、石のような人間になりたいと思っていた。かんたんには形が変わらない。何も入らず、何も出てこない。生々しさがない。静かにただずっとそこにある。そして強い。簡単には壊れないかたさ。


今は少し変わって本のような人間になりたいと思っている。生々しさのなさや静けさへの憧れはそのままだけど、静かなようでいて中身にはぎっしりと情報量や熱が文字の形で詰まっている。知的で複雑で、でも外から見ると静かでシンプルだ。私は本の表紙がごちゃついているのが嫌いなので本を買うと大抵いちばんにカバーを取ってしまう。タイトルと作者の文字だけあれば良い。文字のことがデザインとしてとても好きだと思う。白地(クリーム色でも良い)に黒い文字が並んでいるだけ、という画が好きだ。無駄なもののなさ。本、水や火に弱いという欠点はあれど静かに置いておけばとても長く残る。紙はそのへんの書籍に使われている中性紙で3〜400年、和紙ともなれば1000年持つそうだ。まあそんなの資料館や博物館に当たり前のようにn100年前の書籍が残っているので誰も驚かないだろうけれど。外から見えるデザインとしてはできる限りシンプル、外見は必要最低限だけ、しかし中身には情報ぎっしり、変化する生々しさなんてなくて静かに長く残るもの。


そんな人間になりたかった。というのを肌が荒れて思い出した。人間の、簡単にデザインが汚く変化してしまう生々しさを感じるから肌が荒れると気持ち悪いんだ。食事や排泄という生命活動をする生々しさは仕方ないにしても、常に見えている外側の部分である、肌くらいは無機質につるりと美しくいたかったのになぁーーー!!!!!!!!

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