説明責任を果たすことが、定量化と同一視されがち
書籍「測りすぎ」が良かった。自分なりの理解でまとめる。フジイさんのブログで見つけた本だ。ありがとうございます!
ずっと感じていた違和感:しっくりくる定量化は難しいのに、結構すぐに定量化を求められる
定量化とは何か?
「経験に基づく判断」を「標準化された測定」に置き換えること、とする。
しっくりくる定量化とは?
置き換えに納得度がある場合だ。
しっくりこない定量化とは?
「今回の状況だと、その置き換えは当てはまるのだろうか?」と疑問を感じるときだ。「その人の経験に基づく判断」と「普通はこうだ」の両方がなんとなく存在し、それらの関係が曖昧なまま測定に置き換えている場合など。
どうやって確認するのか。隅から隅まで確認する必要はない。いくつか具体的な状況の質問をして、当人が「置き換えの確からしさ」をどれぐらい考えてきたか、確認する方法もある。
説明責任とは何か?
この定義を踏まえるなら。
「経験に基づく判断の試行錯誤」の説明で目的達成を保証する方法もあるのでは?
でも実際には、定量化までいかないと納得度が低いように感じる。
なぜか。
なるほど。確かにそんな印象がある。「測定執着」という概念も紹介する。
問題は、測り「すぎ」
何かしらの「適切なライン」を超えていないか?というのがこの本の問題提起だ。私が理解したいところもそこ。適正に使えば良い結果がでるのはあたりまえ。でも、周囲を見回してみたら、適正に使われてないのでは?と違和感を感じることが多々ある。ここからは「測りすぎ」に関してメモしていく。
測りすぎ①:しっくりくる前に、定量化してしまう
なぜ定量化に時間がかかるのか?
すぐに思いつく2つ。
1.経験に基づく判断をできるようになるのに時間がかかる
2.判断を測定に置き換えるのに時間がかかる
もう一つある。
3.前提条件が変わり、どこから考え直せばいいかわからなくなり、時間がかかる
依頼した側もそんなに厳密な「置き換え」を求めておらず、素早い大量の定量化を求められる
再度「測定執着」の一部を紹介する。
依頼する側が「数値指標への置き換え」よりも「透明化」を重視している場合は、早すぎる定量化を求める場合がある。それぐらいの定量化でも、大量の数字があれば関係者と合意できる可能性が高い場合、特にそうなる。
測りすぎ②:経験に基づく判断ができない人が報告を求めるとき、意味のない定量化が増える
自分で業務を行ったことがないので、なんとなくプロセスを分解して報告を求めたりする。私が仕事をしてて印象に残っているセリフがある。
何かしら報告するからには、困ったときのサポート等、支援が欲しいわけだ。そういうのが行われないまま、大量の報告が当然となっているパターンがあったりする。実行する人に安心して任せられないが、自分も経験に基づく判断ができない場合に、報告数を増やす依頼がくることがある。
それ以外にバラバラと面白いところを紹介する。
面白かったところ①:経験に基づく判断には「なるほど感」がある
例えば学校の教育効果を計るテストの話。
この「重要性が低いときだけ有益だ」を見つけ出せる人にしか、定量化を任せたくないなあと、個人的には思ってしまう。
こんな感じで、主旨に反したときに修正するプロセスが必要なのかな。
面白かったところ②:重要性が高くなることで、定量化の意味がなくなる事例
これを「くだらない」と一刀両断するのは簡単だが、実際にはこれが最適解だったりするから難しい。この背景には、公的機関や職業倫理に疑問が持たれる専門家たちを監視したいという流れもあるらしい。
どうすればいいのか?チェックリストがある
「測りすぎ」のP180から測定基準を用いるためのチェックリストがあるので、参照して欲しい(ここでは公開しない)。でも最後のまとめだけ引用しておく。
今回は以上です!
誰かが書いてたけど、サポートしてもらったらそのお金をだれか別の人のサポートに回すと書いていて、それいいなとおもったのでやります!