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春の夜は



春の夜はおぼろに潤んでいる
 貸与された端末で、たったその一文だけを電子の便箋に走らせた。
 季節限定のラテを口に運び、AIに添削を依頼するまでもない十三文字の短文を、それでもたっぷりと吟味して一文字の欠損もないことを確かめ、そしてそれを送信する。
 例えばこのメールの受け取り手が名探偵であったなら。この一文を「誰が」、「どのような状況で」、「何を思って」したためたのかを読み取ることができたかもしれない。あるいはそれを端緒として、起こったことすら知る由もない事件を解決せしめたのかもしれない。
 しかし残念なことにそうはならない。現実というのは面白みのないもので、手紙の宛先は安楽椅子探偵ではなくわたしのボスだ。そしてこの一文は単なる暗号、符牒に過ぎない。
 この暗号を訳すとこうなる。
任務は中止、離脱する
 わたしは間もなく、この街を離れることになる。

 トールサイズのカップを片手にコーヒーショップを出た。
 時間を確認するとぴったり十四時。麗らかな昼下がりの陽気と人々の活気が通りを満たしていて、清々しい休日の午後といった風情だ。にも関わらず、気分がぼうとして晴れないのは花粉症の薬だけが原因ではないだろう。
 例えばこの手の中のコーヒーを、飲みきらないままに捨ててしまうような。
 飛べない鳥や泳げない魚であることを自覚しつつも、それに不満を抱きながら無為に生き続けるような。
 道半ばで歩くことをやめてしまうような。
 任務を完了しないままここを離れてしまうという判断を下したのは誰からぬわたし自身だが、それが本意か否かと問われれば肯定することは難しかった。
 やり残したことが山ほどあるし、任務中に出会った人々に対しても返しきれない恩や捨てがたい愛着がある。
 潜伏先で同期として出会った二人に関しては特にだ。
 散々迷った末に出した結論ではあったし、今更執着しても仕方が無いことはわかっていたが、簡単に割りきることもできなかった。
 嘆息し、口元にカップを運ぶ。その拍子にラテが溢れてスニーカーにいくつか染みを残した。またやってしまったと唇を噛む。覆った水は盆に返らない。
 少し通りを歩いて、頭を空っぽにしようか。そういえば鞄の中にカメラを持参していた。去ってしまう前にこの街の風景を撮っておこう、と思った。プロ意識に欠けた行為であるかも知れないが、この程度の感傷ならば任務外に持ち出してしまってもボスは許してくれるだろうから。

 どれくらい歩いただろう。足の向くまま歩き回って、気の向くまま様々な風景の写真を撮った。喫茶店、学校、小劇場、イベントホール。そんなつもりも無かったが、何かしら思い入れのある場所ばかりになってしまった。

 陽も傾いてきてやや歩き疲れたので、小休止できそうな場所は無いかと辺りを見回すとふと、ゴシック風の教会が目に入る。
 口さがない人々にはスラム呼ばわりされるこの街に、こんな立派な教会があったとは。興味深く思って門に近付き、その脇にある掲示板を見れば、中々に歴史のある教会であることやミサの時間でなければ入場は自由であることがわかる。
 教会に立ち入った機会というのもあまり記憶にない。
 面白そうだ、とほとんど興味本位でわたしは敷地内へ足を踏み入れた。

 蔦の這うパーゴラをくぐると、聖堂へ向かう小道の両脇にはよく手入れされた花壇が広がっている。
 マツバボタン、ブルーエルフィン、アレナリア、キヌガサギク、それにアヤメだろうか。夕暮れよりもっと白んだ時間帯で映えそうな花々を横目に眺めながら、敷き詰められた砂利に浮かぶ石畳を渡る。
 聖堂のドアは開け放たれている。誘われるようにしてその中へと入った。

 既に夕暮れ時だからだろうか、参拝者の影はほとんど無い。長椅子に腰掛けたご婦人が一人、こうべを垂れて祈りを捧げる後ろ姿が見えるだけだ。
 朱色の西日がステンドグラスを通して差し込み、聖母像をあざやかに照らしている。
 教会の内装には視覚的に神性を感じられるようデザインされていると聴いたことがあるけれど、その論に納得してしまうような静謐な空間だった。
 思わず、折角なのでわたしも何か祈るべきだろうかと逡巡する。しかし、教徒でもないのに勝手に祈りを捧げても良いものなのだろうか? そもそも何を祈れば?
 迷っていると、前方の長椅子からの視線が送られていることに気が付いた。
「こんにちは、このあたりの方?」
 声をかけてきたのは、先程まで祈りを捧げていた老婦人だった。
「そう……ですね。もうすぐ引っ越す予定ではあるんですが」
「あら、そうなの? せっかく会えたのに残念ね」
「そうですね。本当に」
「もしご迷惑じゃなければ、少しお話に付き合ってくださらないかしら」
 突然のことでやや面食らったが、
「ええ、是非」
 と直感的に答えて彼女の隣に座った。

 わたしたちはいくつかの他愛もない世間話と、わずかばかりの自己開示の応酬を交わした。
 彼女がわたしに声をかけた理由が知りたいと思ったが、話していく内に、ただちょうどいいタイミングでわたしがここにいただけなのかも知れないと思うようになった。ただ彼女にとってそういう巡り合わせだっただけでさしたる理由は無いのかも知れない。
 わたしは機密に触れない程度にぼかして、仕事の顛末とそれによってこの街を離れるということを話した。
 彼女はこの辺りに住んでいて、毎週この時間に教会へ祈りに来ているということを教えてくれた。
「遠くに越していったお友達のために祈っているの」
「ご友人のために毎週ですか?」
「ええ。おかしなことを言うようだけど、屈折しているようでとてもまっすぐな……素敵な人だったの。彼女の生き方に憧れていたわ。彼女にとっての私は取るに足らない存在だけれどね」
「そんな……」
「構わないのよ。今や彼女とは中々会えない距離だし、手紙のやりとりくらいの付き合いになってしまったもの。友達だけど、私はほとんど彼女のファンみたいなものね」
「ファン、ですか」
「彼女、ミュージシャンだったの。今は一線を退いてしまったのだけれど、裏方に回ってロンドンで働いてるわ」
「海外で。すごい方なんですね」
「そう、すごいのよ」
 そう言ってふふふと顔をほころばせた。その"彼女"を語る口ぶりはいきいきとして誇らしそうで、好きなものをそういう風に語る姿というのは、人生で幾度となく見てきた人々のそれと同種のものだ。好きなものを語るのに、年齢も性別もない。
「それじゃあお祈りは彼女の無事とか健康だとか、そういうものを願ってのことだったんですね」
「そうね、それもあるわね。彼女はたまに自分を顧みないようなところがあるから。幸せに暮らしていてほしいし、そのためには健やかでいなくてはね。でも祈っているのは、それだけじゃないのよ」
「というと?」
「私は彼女の奏者としてのキャリアはまだ終わってないと思っているの。だから……すごく自分勝手な祈りね。彼女がまた演奏してくれる日を祈っているのよ」
「それは……」
 少しためらう。
「つらくはないですか?」
「つらい? どうして?」
「だって、奏者として帰ってくるかどうかもわからないんですよね」
「そうね、わからないわ。どころか、可能性はすごく低いんじゃないかしら。奏者としての技術も心理も勘所も弁えて、裏方としての実力も十分なら会社の側としては手離したがらないでしょうし。彼女の後輩たちからしても、そういう人間が会社との間に立ってくれるとやりやすいでしょうね。周囲の人に、裏方としてそこにいてくれと請われたら、きっと応えてしまう性格だと思うし。何より困ったことに彼女、本人が奏者としての自分自身を全然評価していなかったのよね」
 そう言ってなおも笑うので、わたしは余計にわからなくなる。彼女は毎週祈っていると言ったのだ。その叶う見込みの薄い望みのために。
「見込みが薄いから諦めるだなんて、そのほうがよっぽどつらいわ。それに祈りだなんて言うと大げさに聞こえるかも知れないけれど、そう大したことでもないのよ。暮らしの中に混ざってしまうから」
「……そういうものですか?」
「そういうものよ。それに言ったでしょ? 手紙のやり取りくらいはあるの。こうしてファンがここに一人いる、祈っている人間がいるってことが伝わるなら、それが彼女の奏者としての未練になってくれるかも知れないじゃない。ふふ、これもちょっとずるい考えかしらね」
「なるほど。……そうかもしれません」
「あら、少し眉間の皺が伸びたかしら。こんな話が何か気晴らしになったなら良かったのだけれど」
 少し耳が熱くなった。
「すみません、お気遣い頂いてありがとうございます。お友達、復帰されるといいですね」
「ありがとう」

「またいつか、この街に帰ってきたら会いに来てね。私はきっと、ここで祈っているから」

 教会を後にして家路を辿りながら、私はどこかで聞いた『人間は環境の生き物だ』という言葉を思い出していた。
 あの老婦人は彼女を取り巻く環境の中で最良の答えを探し、その末に己を救う手段として祈りという答えに至ったのだろう。

 ではわたしはどうだろう。

 神様に祈り天命を待つのは幾分早いように思えるし、そもそもそれはわたしの流儀ではない。
 依然として、人生がそれそのものの意味をわたしに問い続けるのなら。
 鳥にも魚にもなれなくても。海の物とも山の物ともつかない人生になったとしても。それに答え続けなければならないとしたら。
 覆った水は盆に返らないなんてことを信じる必要もない。
 美学やプライドに凝り固まるのではなく、新たな環境の中でわたしはわたしにできることをしよう。誰かのために、自分自身のために。
 それもきっとわたしの祈りだ。
 そうして、もしも何もかもうまくいったなら、その時はまたここを訪れよう。笑って写真でも撮ろう。同期の二人と一緒に。
 そう思って前を向くと、音もなく梟が一羽横切るようなささやかな夜風に吹かれて、街の灯に照らされた景色が揺れた気がした。

 わたしの目に映る春の夜はおぼろに潤んでいる。
 それでも、まだ零れ落ちてはいなかった。