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風俗嬢に人生を救われた話(8)

<潮時>

9月末の休日。いつものように、重たい体を引き摺りながら、店へ向かっていた。
それにしても、この日の重さは格別だった。

理由は単純明快だ。
決別を宣言するためである。2度と、店に来ることはないと。

きっかけは、思わぬ形で訪れた。贖罪を理由に、今後も通い続けるのは責務ではないか、と考えていたところを、別の事情で、それができなくなった。

かねてより交流があった女性の1人と、正式に交際が決まったためだ。

“誘い”があったのは、9月の中頃、相手は8月以降、みるみる生気を失い疲労していく自分を見て、支えたい気持ちが強まったのだというのだから、なんとも皮肉なものである。
実際、こちらもあまりダラダラと、中途半端な状態を長引かせるのはよくないとは考えていた。酒と会話の勢いもあって、トントン拍子で話は進むことになった。

しかし、このタイミングか。

ある意味では、最高の潮時である。自分自身、かねてより待ち望んでいたはずだ。
にも関わらず、この少しも希望の見えない停滞感はどうか……?

果たして自分に、人を愛する権利があるのか。あれだけのことをしでかしておいて、何事もなかったようにハイ、さようならを言おうというのか。云々。

この頃、ようやく気付き始めていた。
自分にこれまで絶対的に足りなかったのは、自分自身の感情や考えを率直に伝える勇気と、あらゆる困難を受け止めるための自信なのだろう。
できないことを「無理だ」と言い、わからないことを「教えて」「自分もよくわからん」と口にし、そこで生じる問題を「じゃあ、どうやって解決するかな!」と受け止めるor受け流す気楽さだ。

昨年、恋人と別れた時も、自分は張り詰めすぎていた。あらゆる悩みや困難を1人で抱え、大事な相手にも打ち明けようとせず、作り笑いで隠そうとしていた。限界まで膨らました風船のように、見栄や焦りでパンパンになっていた。
一針突けば、粉々に飛び散ること請け合いである。危なっかしいことこの上ない。今更ながらに、別れを切り出された理由がわかったような気がした。

だからこそ、である。
今回も、同じ轍を踏まんとはしていないか?
今この状態で、本当に自分は誰かの恋人足り得るものを持っているのか……?

しかし、迷っている暇もない。ここまで来たら、決行の一手である。
少なくとも、恋人に隠れて二重生活を続けられるほど、自分は器用な人間ではない。そもそも、30余年に渡って育ててきた、己の倫理観がそれを許さない。

恋人がいる身で、金を払って別の相手を抱く。
それは相手を、無限に傷つける行為に他なるまい。

――どれほど重くとも、伝えなければならない。
それは自分が最低限、この社会で「ヒトガタ」として道理や倫理に沿って生きていく上で、避けては通れない道と言えた。

<決別>

――もう、店に来られない。とうとう、正式に付き合う相手ができた。

それだけを伝えた。本当にこれがギリギリ、胸の奥から絞り出した。軽く吐き気を催しながら、である。

彼女はショックを受けながらも、淡々と話を合わせてくれた。以前あれほど、「もう来られない」の言葉に嫌悪感を隠さず、徹底して自分を糾弾しただけに、おおいに面食らったものだ。
別れは、極めて穏やかに行われた。
しかも、LINEの連絡先を残すことになった。お互い、節目節目で連絡を取ろう、という話になったのだ。

意外な展開だった。と同時に、痛切に感じたことがある。
彼女はプロなのだ。心労を重ね、客や行為に嫌悪感を抱き、自分自身を取り繕うのが下手であっても、根っこの部分で、どこまでもプロフェッショナルなのだ。
だから、金さえ払われれば、誰にでもサービスを提供することができる。それが例え、自身に膨大なストレスを課した相手であってもだ。自分が今、この場で糾弾されずに済んでいるのは、間違いなく”金の力”だろう。

それでも、LINEは残してくれるという。希望の光が灯った。
自分の不始末で、最高の客になることも、最高の失恋相手にもなってもらうことも叶わなくなった。しかし、「及第点の傍観者」ぐらいにはなれるかもしれない。

あるいは、一応のパイプが残っていれば、また何かの機会で顧客として確保できると、彼女は考えているのかもしれない。
だが、それならそれでいい。来店することはこの先なくとも、万が一の場合、経済的に援助できる可能性は残る。頼られれば、自分は嬉々として協力するだろう。その場合でも、贖罪の芽は残る。

事ここに到っても、やはり自分は、彼女が大切なのだ。幸せになってほしいことに変わりはない。
日々を穏やかに過ごし、夢を叶え、必要ならよい伴侶を得て、天寿を全うしてほしい。

それを、改めて自覚した。流石にこの時点では、それが自分の剥き出しのエゴであることは、百も承知ではあったが……それでも、諦めきることはできなかった。

階段下で、別れを済ませる。

「じゃあ……お元気で。今日は、ありがとう」
「ええ…また」

――1年半に渡る風俗通いで、嬢と別れのキスを交わさなかったのは、後にも先にもこれだけである。

それから1ヶ月後。
ハロウィン祝いと近況報告を兼ね、彼女が以前「これが好き」と教えてくれたLINEスタンプを贈ろうとした末に、自分は気が付くのだ。

「○○○はこのスタンプを持っているためプレゼントできません」

――息を飲む。
慌てて、他のスタンプを選択し、贈ろうとタップする。

「○○○はこのスタンプを……」

絶対に持っている訳がなかろうという、マイナーなスタンプを選ぶ。

「○○○は……」

……成程と頷き、天を仰ぐ。今回はもう、涙は溢れなかった。
続けて、強く自覚する。

自分という存在は、細胞の一片に到るまで、彼女に拒絶されたのだと。

祈ることすら許されない。さながら”金を出す機械”であった自分が、この先、一閃も店に落とすことがなくなったとあれば、当然の反応なのだろう。
LINEを残しておいたことも、この伏線だとしたら、いっそ見事だ。それを恨む気持ちなどあろうはずもない、
そもそも、彼女を散々に疲弊させ、不当な負担を課したのはこちらである。仮にこれが意趣返しだとしても、申し訳なさこそ募れ、自己擁護する気は一切起こらなかった。

――やっぱり、俺のせいだ。

それでも、過去を振り返ってる余裕はない。悲観に暮れる資格もない。
今週末、来週末、……これから毎週のように、自分は恋人と一緒に過ごすのだ。
今度こそ、失望させる訳には、傷つける訳にはいかないのだ。

……しかし。
この日を堺に心身に異常が起こっていることを、この時の自分は、まだ知るよしもない。

<続>

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