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◆呪術廻戦、虎杖悠二のセリフを思い出すと腑に落ちる

吉野順平:虎杖くんは呪術師なんだよね
虎杖悠二:あぁ(言って良かったのかなぁ…)
吉野順平:人を…殺したことある?
虎杖悠二:ん?…ない
吉野順平:でもいつか悪い呪術師と戦ったりするよね…その時はどうするの?
虎杖悠二:それでも…殺したくはないな
吉野順平:なんで?悪い奴だよ?
虎杖悠二:なんつーか、一度人を殺したら「殺す」って選択がオレの生活に入り込むと思うんだ…命の価値が曖昧になって、大切な人の価値までわからなくなるのが…オレは怖い…

アニメ「呪術廻戦」©芥見下々/集英社・呪術廻戦製作委員会

 これは、実際の行動のみではなく、「概念の存在を知ること」も同じく、その人の生活に入り込むことになる。

 皆さんは、昔からずっとテレビ番組で「サスペンスドラマ」「名探偵コナン」「金田一少年の事件簿」その他あらゆる作品はもちろん、日々の「報道番組」で「人の死」について取り上げたりして、そうした映像を観るのが当たり前になっている。

 表現の自由とはいえ、それらが与える影響は様々な結果を生むことに対して社会全体が物議を醸すことがなかったのはなぜなのか、どうしてそういうものを好んで観る人が多いのか、私は個人的に疑問でならなかった。

 前回の投稿「アイデンティティクライシス(自己同一性の喪失)」について書いたその翌日、アベプラMCも務めていたりゅうちぇるさんの訃報が飛び込んできた時、それが自殺であり、「本当の自分がわからなくなった」といった言葉が遺されていたことを知り、ただただ残念な思いがした。

 歌舞伎俳優の一家心中事件に関する連日の報道も、全く影響がなかったとは断言できない、自殺連鎖の可能性さえ感じさせる。アベプラでは「死を選択する権利」などという無責任なフレーズを肯定するコメントも見られたが、随分と「人の死」に対する捉え方が麻痺してしまっているように映る。

 いじめやハラスメント、事件事故などで、ある日から人生の景色が一変し、自分の存在価値がなくなってしまったかのような錯覚に陥ってしまう人たちが直面するアイデンティティクライシス(自己同一性の喪失)と自殺は相関関係にある。少なくともその可能性は危惧されるべきところだろう。

 「自分は周りの人たちと何かが著しく異なる」そのように認識する時というのは、自己否定に繋がる人も居れば、他者からの人格否定によって自身の存在価値がないのだと錯覚させられる人も居る

 令和時代になってから、コロナによる社会生活の大きな変化に直面し、それと同時にあらゆる場面で多様性という言葉を声高に叫ぶ人たちが急増したように感じられるものの、結局のところ、人は違いを認め合うということに抵抗を感じ、そのギャップの狭間でジレンマに悩まされ続けている

 多様性というのは、違いを認め合い、どんな社会的ステータスであっても受容するという意味だが、現実的には全ての人たちがこれを正しく理解し、社会生活に反映させることの難易度は極めて高いように感じる。場合によっては、この多様性重視型の主張が「価値観の押し付け」となるケースも多々ある

 すごく理想的な概念ではあるものの、人々は何十年にも亘って、人と人の違いをあらゆるものでラベリングし、比較することで優劣を競うような社会で生きてきたが故に、年齢、性別、学歴、雇用形態、年収、肩書、過去の実績などが自己同一性だと信じてきた。多くの人たちがそのように信じて生きてきた。

 多様性という概念が及ぼした影響は、それらの自己同一性を悉く無に帰すものであるとも言えなくはない。なぜなら、「誰もが互いに違いを認め合うこと」「誰もが平等であること」同じ意味のようで全く違う。敢えて最適な表現があるとすればこれだろう。

 だから、現実離れした理想を叫ぶというのも正しいとは言えない。自分と全く同じ人格、自分と全く同じ性格、自分と全く同じ価値観、そんな人がいるはずはないよね。これはあくまでもマクロで見た場合の話。でも、ミクロで見れば「過去に似たような経験をした人」「似たような人格」「似たような性格」「似たような価値観」の人はいる。

 それがトランスジェンダーだったり身体障がいだったり難病だったり、分類しようと思えば「似たような」人たちをそうしたカテゴリーで仕分けることはできるよね。

 でも、もっとも理解されない少数派は「ギフテッド」の人たちではないかな。生まれながらに何かにおいて他よりも圧倒的に突出した才脳・能力を宿す人たちというのは、基本的に周りから理解されないし、環境によっては気持ち悪がられたりもする

 程度の差はあれど、違うという点においては誰もが等しく異なるわけで、その細かい違いに固執していじめやハラスメントにまでエスカレートしてしまうのは、道徳的な問題や倫理的な問題として解決できるものではなく、ほとんど偶発的に起こってしまうものだ、という解釈がこの人間社会における大前提の現象なのかもしれない。

 普通ということに疑念を抱く人も多いだろう。多数派が普通だと思っている人たちは、今居る環境で自分が浮いた存在にならないように周りに合わせるし、同調圧力にも屈して、目立たないように発言・行動をすることで保身を最優先にする。そして、そうしたくてもできない人たちが世界中の至る所で異端扱いをされ、疎外され、酷い目に遭わされたりする

 もし多様性に満ちた社会の実現を可能にする最良の手段があるとすれば、これまでほとんどすべての人たちが重視してきた自己同一性の何もかもを無に帰すことなのかもしれない。そしてそれは、年々進行している。

 学歴が何の意味も持たなくなり、AIの出現により分野によっては早々に資格の意味も持たなくなり、罪を犯せば過去の功績も何の効力も発揮できなくなり、高級車・高級品で着飾れば犯罪グループのターゲットにされるため奪われるリスクでしかなくなってきている。

 そして、今、現在進行形で起こっているもう一つの現象を挙げるとするならば、銀行や証券会社が仮想通貨の普及によりその存在価値が急速になくなりつつあること。ブロックチェーンの仕組みと仮想通貨・NFTが主流となれば、これまで個人法人預金や手数料ビジネスで成り立っていた銀行や証券会社は不要となり、そこで働く人たちの資格すらも意味を持たなくなりつつあることも想像できる

 謂わば、かつて銀行や証券会社がやってきたようなことを個人ができるようになり、融資や投資などあらゆることが民主化されてきている。そうして中央集権的にお金と権力をほしいままにしてきた組織が崩壊へ向かい、世界は半強制的にフラット化されていくのである

 テレビだって視聴率10%を維持することすら難しくなってきているけれども、YouTubeやInstagramなどの動画サイトの台頭により、地上波の価値は一気に下がり、テレビに出られる人が限られていた時代から、誰でもオンライン上で映像や音声で発信活動ができるようになった。これも同じく、メディアの民主化と言える。人々の可処分時間の争奪戦はこの10年間でほぼ完了し、現状はオンラインメディアさえも衰退期に突入している、

 こういう傾向を眺めていると、それこそ自己同一性の持つ意味すら言うほど重要ではなくなってきていることにも気付かされる。今は過渡期真っ只中だと思えば、自己同一性の喪失に苦しんだり悩んだりする必要はないのではないか、と私は思っている。

 いずれ訪れるであろう次世代の民主化は何かを想像するに、労働によって得られる対価としての収入が、誰もが最低限の生活ができるレベルのベーシックインカムへと移行し、収入の民主化が起こる可能性は極めて高い。しかしそれを実装するには、人口が減るのを待っている、というのが現実なのかもしれない。当分は史上最多の年間死者数が報じられる。そのことを日本政府は理解している。それ故の増税なのだろう。

 今は、細かい違いに過敏にならず、この過渡期が終息し、次世代の安定域に移行するのを待つ、そういう時期だと思えばいいのではないかな。余計に悩んだり落ち込んだりするよりも、ただ生きることだけを考えて、できることなら「楽しいと思うこと」に時間とお金を投じることが大事なんじゃないかな、と私は思う。

 自分が他の誰とも違う存在であることは大前提だし、それは自分だけではなく、他の誰もが同じく違う。その違いを無理に認め合おうとすることには抵抗が生じるというのであれば認めなくてもいいのではないかな。ただ、違いを認めないのであれば、それを理由に争わないことが肝要だろう

 あまり「多様性」「差別」などといったパワーワードに振り回されないことが大事なんじゃないかな。「いじめ」「ハラスメント」も、するほうもされるほうも、いじめをいじめと確定すること、ハラスメントをハラスメントと確定することに執着し過ぎれば、その負のループからはずっと逃れられない

 例えばね、いじめも最初はイジりから始まるし、ハラスメントも最初は冗談無自覚から始まるケースは多々ある。問題とするなら、イジり、冗談、無自覚の状態をエスカレートさせてしまうことそのものについて議論すべきで、事が起きてから議論しても意味がない

 いじめやハラスメントをする側の人たちがストレス発散のためにそういうことをしてしまうのは、それ以上に没頭できるものが見つかっていないからではないのかな。自分の将来に夢も希望もないと思って今を生きている人たちは少なくない。だから、コンプライアンスが整備されても未だに起こってしまうのではないかな。制度でいじめもハラスメントもなくなりはしない。これはもはや、時代の変化に取り残された社会が直面する絶望感に起因しているとも言えなくはない。

 暇を持て余すと人間はろくなことをしない。根底にあるのはそれだろう。社会秩序や治安が乱れ始めた令和時代、あまりの絶望に危機感が麻痺してしまっている人たちはきっと増えたに違いない。そんな中、アイデンティティクライシスによって自分の存在価値がわからなくなったと悩んでしまう人たちを生んでしまっている、おそらくはそういう構図なのだろうと思う。

 一部には、日本も戦後初の赤札を発行して徴兵令を発令すればいいと言っている人たちもいるようだけれども、自衛隊関係者が起こす事件を見ていればわかるように、徴兵制を敷いたとしても似たような事件はきっと起こるわけで、明確に予防策になるとは言い難い。

 人間が現時点で信じている人間としての優位性だったり、自分の優位性だったりというのは、いつからそのように信じているのかを考えてみるといい

 極端な例を言うとだね、相手から何か自慢話をされたとするでしょう?相手からマウントトークをされたとするでしょう?その一つ一つに「それがどうした」と内心思うことができれば、自分と相手は大差ないなと捉えることは非常に簡単だったりする

 だからね、他者に対する「憧れ」「期待」「嫉妬」「僻み」などといったものは、抱いている本人にとっては大事なことなのかもしれないけれども、その全てを自分から切り離す必要性は高まっている気がするんだよね。だって、違うんだから、生まれた環境も、関わってきた人たちも、恵まれていることも、恵まれていないことも。

 自分だけが不幸だなんて錯覚してしまわないように、大前提を整理したほうがいい。ある程度の諦めが必要な時期もある、ということね。欲望も期待も野望も夢も目標もあまりに大きすぎれば、一向に実現する気配すら感じられない日々にある時絶望することになる。未来のことは誰にも分らない。

 だからね、あまり他者に期待しないってことだけでも理解できれば、ガッカリすることもだいぶ軽減できる。あくまでもそれは個人の匙加減だけれども、社会が安定期に入る頃までは生きることだけを考えよう。絶望を回避できるのは自分の選択次第だからね

 毎日メシが食える状態を維持すること。そこには食べる幸せが毎日ある。それを軽視する人たちから道を踏み外す多くを望まず、質素な生活に慣れ、時代の変化と共に生きていくことが現時点の最良の選択だと私は思う。

 自分の現状を、今が自分の全てだと錯覚しないことだ。生きてみないことには10年20年先のことはわかっても、数年先のことはわからない。だからみんな悪戦苦闘しているんだ。そのことをちゃんと理解するために、世間から目を背けてはいけない。その上で「絶望を回避する選択」をしていくんだ。

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