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◆あなたの悩みを遠い遠い宇宙の果てから眺めてみよう

 人から嫌われることが怖いと思う人たちがなぜそう思うのかを考えてみると、おそらくこういう理由だろうな・・・くらいのことは想像がつく。自身が属している環境で疎外されるようなことが起こると居場所が無くて心苦しいと感じるからかもしれない。

 でも、人ってどう頑張っても常に心は孤独で、仲の良い関係があろうと、優しくしてくれる人たちがいようと、本質的に心が孤独から解き放たれることはない、というのが大前提ではないかな。

 なんだろうね、現代では“ぼっち”なんていう言葉で孤独な人をそのように表す人たちが蔓延しているけれども、物理的な孤独と精神的な孤独とでは意味が違うし、どちらにしても別に悪い意味ではないということに気付いていない人たちが非常に多い。

 友達が多そうな人、恋人がいる人、家族がいる人、そういう人たちを見て、自分が物理的に孤独であること、精神的に孤独であることに悩み、「なんて自分は不幸で寂しい存在なんだろう」と思い込んでしまう人たちが一定数存在するけれども、こういう人たちは一秒でも早く前提認識を書き換えたほうがいい。

 とはいえ、いきなり言葉で言われても真に理解するには至らないだろうから、まず独りでいる時間に慣れることから始めたらいい。人間関係上で人から嫌われたり喧嘩したりして、悩んだり苦しんだりする人たちは、そのことをいつまでも気にし過ぎで、常に意識を囚われがち。

 自分という人間がどういう存在なのかを今いる環境で周囲の人たちの反応を窺いながら、自分の居場所を守るために必死に周りに合わせようとするのは、本当に自分にとって望ましい状況なのかどうか。空気を読んで誰も言いたがらないことは言わないようにしようとか思ってしまっている時点で、そういう思考そのものが自分のためになっていないんだよね。

 別に嫌われたら嫌われたで人間関係の整理が済んだと思えばいい。なんで嚙み合わない人と、折り合いが付かない人と、よくケンカになる人といつまでも関わろうとする?これぞまさに自己矛盾。

 誰とでも仲良くできますみたいに公言する人がいるけれども、ハッキリ言って誰の見本にもなり得ない。なぜなら、人間関係は化学反応のようなもので、良い関係性に発展する場合もあれば、悪い関係性に発展する場合もあって、そこに至るまでにはいろんなことがあるでしょう。

 露骨に他人にばかり合わせて対人スキルが高そうな人というのは、言い方を変えれば八方美人なだけで、本質的に互いのためを思う真剣な言葉のやり取りはほとんどしないだろう。

 大方、友達だと思っている人間関係というのは、事と次第によってはあっさり終了するほど脆い。家族であろうと親友であろうと恋人であろうと、自分の心を100%相手に預けるような在り方に依存してしまうと、絶縁に至った時の反動が極めて重く跳ね返ってくる。

 信用とか信頼とか、見た目にも聞いた感じでも綺麗で格好良い言葉があるけれども、他者との関係性においてそうであると思っていたとしても突然裏切りに遭ったりするのもまた人間関係。相手を信頼できる人だと信じ込んでいたのに裏切られて腹を立てるという状況は、相手が悪いことをしたのだから相手が悪いとしても、過剰に信頼しきってしまっていた自分にも問題がある、という見方はできなくはない。

 夫婦や家族というのもまた同様で、いろんなことがあるでしょう。許せなくて過剰な暴言を吐くこともあるでしょう。それでも安易に断つことができないのは、そんなに単純な関係性ではないからであって、何か起きた時に許容することができないのであれば、始めから結婚をすべきではないし、子を授かるべきでもない。

 学校や会社での人間関係というのは、それこそ、その場に属していればこそある程度維持されるものではあるけれども、離れてしまえば無理に維持しようとする必要はなくて、そこでおしまいとなることがほとんどでしょう。言うべきことを言って居場所がなくなるのなら、元よりその場所とは縁がなかったのだと思えばいい。

 一番良くないのは、納得できずにストレスを抱えながらもその場に居座るために言いたいことを言わずにいること。人間関係も同じで、相手に対して本音でぶつかった結果嫌われて終わるのであればそれまでの関係性でしかなかったということの証明ではないかね。

 思いやりとか優しさ故に、本当は相手のために言うべきことを言わずに上っ面の友達関係や恋愛関係を保とうとするから壊れる時も脆いのではないかと思う。これはもちろんお互い様で、自分も相手も互いの本音を許容できないのであれば、そんな関係は早いうちに断ったほうがいい。キープしていてもろくなことはない。

 思い込みって本当に邪魔くさいと思う。自分の思い込みもそうだけど、他者から自分に対する思い込みも余計な誤解を生みやすい。つまりだ、ちゃんと維持したいと思っている人間関係があるのなら、普段から本音で語ったほうがいい。本音が言えないような人間関係は始めから持つべきではない。

 建て前で事を運ぶのは仕事くらいにしとかないと誰のための人生かわからなくなる。いいんだよ別に、本音を言って嫌われるのなら。もちろん、言い方や態度なんかも無関係とは言えないけれども、悪意のない本音であるならば、それは相手に対する儀だと思うんだよね。信頼し合っているのならなおさら本音が重要。

 だから難しいんだよね、人間関係って。本音で傷付く人たちもいるから。私からすれば、本音で語ってもらえない人間関係のほうがずっとモヤモヤするし、維持しにくいと思うんだけど。だから、上っ面の優しさや思いやりが鬱陶しいと感じることは多々ある。そういうのがないと関われないのであれば始めから必要ないとさえ思う。

 思いやりや優しさは誰かから言われて行動するものではなくて、相手と関わっていく中でそうしたいと自ら思うようになるもので、そのプロセスなく誰に対しても思いやりを持って優しくするというのは、「やらない善よりやる偽善」に限りなく意味合いとして近い。

 人間関係で悩みたくないのであれば、本音で語れる人との関係を築くことだと思う。それは家族かもしれないし友達かもしれないし恋人かもしれないけれども、言葉でそれを相手に求めるのは違う。普段の会話から、相手が自分に対して本音で語ってくれているのかどうかは、自分が相手にどう向き合っているかで見えて来るもの。

 自分が相手にウソや思ってもないことばかり言い続けると、相手も自分に対してそのような接し方をするようになる。上司部下の関係でもそう。部下が上司に対してウソを言った場合、ウソを言った部下を責めるのか、ウソを言わせた上司自身が反省するかでは同じ上司部下の関係でも性質に大きな違いがある。

 ウソを言われるということは、相手から甘く見られているか、信頼されてないことの証。

 というようなことを自身の経験から思ったわけだけれども、正解はない。実際、見た目がチャラチャラしてる悪そうなヤツでも、内面はしっかりしていて頼れる存在だった人もいる。

 平気でウソを言う人間は信用されない、という認識をしている人たちは多いかもしれないけれども、ウソも方便で遣いよう。苦手だな、関わりたくないなと思う相手に対してはウソを言って嫌われるように仕向けることもできなくはない。噂でも広まろうものなら、その相手の周りの人間たちも一掃できるのだから。

 そうやって自分が関わりたいと思う人たちとそうでない人たちとを篩にかけるくらいのことはできるようになっておかないと、ずっと人間関係で振り回されることになる。

 良いんだよ、関わりたくない人からはいくらだって嫌われても何の問題もない。相手から距離を置いてくれるのならありがたいくらいに思っていてもいいくらいだ。優しすぎるのも問題。嫌われることを畏れすぎるのも問題。他者に求めすぎるのも問題。

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