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「断捨離ハイ」という現象

1、母の遺品にふれて「断捨離」心にスイッチON

 実家に里帰りして、亡き母の遺留品にふれると「断捨離」心にスイッチが入る。この夏でもう3年近く経つので「まだ終わってないの?」とおもわれそうだが、母はおしゃれなひとだったので40代に差し掛かろうとしている今のわたしでも「いつか着たい」とおもえる衣類がタンス4個ぶんほどあり、すぐに処分どうこうする気にはなれなかったのだ。
 実際、若々しいスポーツウエアを旬ごとに買い集めていた母のお下がりを、じぶんやキッズが春夏秋冬とわず着ていたりする……。が、いっぱいとってあるけどさすがにモノによっては(サイズやデザイン的に)むりがあるよなァ、というのも分かってきた。それで9月、ジワジワとうちにあるすべてのアイテムを対象に要不要のジャッジを下すことに。
 そういった行為は定期的にやっているもので、だんだんわが家はシンプルになってきている。だからこそ、きもちガッツリめに進めていけば、もっと風通しがよくなるんじゃないかとおもえた。むろん、母の衣類だけじゃなく、どうにかしたいものはたくさんあった。

2、『池の水ぜんぶ抜く』気分でモノをだしきる

 すっきりさせたいとおもったワケは、ざっくり3点ある。
① ソト仕事を再開したときウチの清掃・整理・整頓で悩みたくない
② こどもたちが「モノの住所」を覚えて自発的に片付けやすくしたい
③ 見て見ぬフリをしてきたアイテムが多すぎて目を覆えなくなった

 わが家はとにかく、もらいモノが多い。親族の恵みによりタンスがむだに肥えている。未開封もしくは箱をとっておけばそのままリサイクルショップで「ギフト商品」として売れたのに!というのも今ごろわかるようになってきた。身内から頂戴したものを売るなんて失礼では?というきもちがあって「積ん品」してきたけれど、もう限界。正直、じぶんでも把握しきれなくなっていたのだ。なので、あるときじゃんじゃん売りさばいた。わたし自身、ものもちがいいのもあって、そうそう「次のやつ使おう」ってならないし、たまる一方になるのは目に見えていた。

 「これで終わるはず」と、売るときは毎度のようにおもっている。でも、『池の水ぜんぶ抜く』じゃないけど『わが家のモノぜんぶ出す』をやると、ああーッ、こんなものもあたっけ!という、記憶の隅から消えていたモノがでてきたりするから厄介だ。こう書くと、すごく散らかった部屋なのでは?とおもわれそうだけど、こどもたちのお友だちには「〇〇ちゃんち、いつもきれいでいいね」と、ほめられるほうだ。キッズというのはけっこう残酷なので、こんなところでお世辞をいってどうこうするようなことはない(単に汚点が見えなかっただけ説)。

 じぶんのものではないものがゴッソリある、半ば「物置き部屋」と化したところを歯ぎしりしながら片付けた。「これあげようか」と善意の塊みたいなニュアンスで要らないモノをじゃんじゃんほっぽっていくひとというのがわたしの人生においては最大のストレスである。じぶんでどうにかしろ!と内心おもいながらニコニコ受け取ってしまうわたしもわるいので、「いいえけっこうです」の練習はこの10年さぼっていない。

3、最難関は「なんちゃって教育ママ」時代のもの

 「エンゲル係数」って、あるじゃないですか。「1世帯ごとの消費支出に占める飲食費の割合(Wikipediaより)」を示す数値のこと。あれをもじった「エンゼル係数(エンジェル係数)」っていうのがあるのを知り、我ながら苦笑してしまった。要は、こどもにかけるお金の割合がどんだけあるかっていうやつ。
 現在、小学3年の娘・小学6年の息子がいるのだが、それぞれが幼稚園の頃までは、それはもうわたしの収入で可能な限り、さまざまな習いごとにエンカウントさせていた。どんなものにハマるんだろう?向いてるんだろう?スキになるんだろう?を見るために……。なんてクチでは言っているけど、それは理由の後付けでしかない。日がな一日公園でただただあそぶ、というのがわたし自身すごく苦手で、なにかしら「コンテンツ」が欲しかったのだ。今となっては、公園であそんでればよかったとおもえるのだが、「おでかけする予定がほしい」、みたいな。時間割を組むようにあちこち出かけていた。その先で知り合うママたちとのおしゃべりも、場によってだいぶ違うのでたのしめた。

 英語育児にハマってから、ヤフオクやブックオフで格安割安の洋書絵本を見つけてはこんもり買って読み聞かせをしまくっていた。けれど、じぶんの時間や力量的に使いこなせず、ここまではちょっと必要なかったなあと反省するレベルの本も、けっこうある。小学校に上がってからは、毎日の宿題や他の教科の予習・復習もありじっくり教える時間がさほどとれなくなった。それに、園児時代と大きく異なるのは、こどもたちがじぶんの判断で放課後~日暮れまで「ママ」より「お友だち」とあそぶ時間をとるようになった、ということだ。この2~3時間が、おもいのほかデカかった。
 わたし自身、ソトで働く機会がふえたのもあり、徐々にさわらなくなっていった本が多く「この先も使うから残そう!」とおもえたのは、ほんの一部だった。じぶんにとってはそれなりに思い入れがあるぶん、これを売るのがもっとも腰の重い作業だった。

4、「あそんだら売る、あたらしく買う」サイクル

 8~9月にかけて、とりわけ小6息子がじぶんのモノの要不要をジャッジして売る、そのお金でほしいもの買う、思う存分使いまくるというサイクルを確立させてしまった。うまくやりくりしているようにみえるけれど、簡単にモノを手放してほしくないなあという親心もあって、「どうして要らないのか・本当に使わないのか」をちゃんと聞くようにした。一方、小3娘は、リアルタイムでまだまだあそびたいおもちゃ類が多かったので、整理整頓のほうに注力した。量でいうと、娘の所有物のほうがはるかに多い。


 わが家のキッズには、月極めのお小遣い制度がない
① お正月のお年玉を春休み前までじぶんで考えて分割して使う
② 春休みの小遣いを夏休み前まで(以下同文
③ 夏休みの小遣いを夏休み明けまで(以下同文……みたいな。
 すごくさっくりしてるけど、もらったぶんでその期間をやりくりしてくれという方針でやっているので「断捨離」の精神が刺さったのかも……。とはいえ、週刊少年ジャンプや月刊コロコロコミック、月刊少女漫画誌ちゃお、ちゃおデラックス、小学生向け雑誌Aneひめ、ニコプチあたりの本は別途わたしがふつうに買ってるし、欲をださなきゃまにあう程度にはジュースもスナックもある。身の回りを見渡してそれでも足りないものをじぶんでどうにかしてね、と。「貯金箱に入れたからお金なーいっ!」じゃねえぞ、と。

5、「断捨離ハイ」という現象

 スマホアプリ『ドラゴンクエストウォーク』に親子でハマったのもあり、ソトで歩くことが俄然ふえた。歩いたことのない道、歩くことがほぼない道をがんがんゆく。学校のこと、ゲームのこと、友だちのこと、将来のこと、会話もはずむし、すごくたのしい。わたしはわたしで、PTAのお仕事や、ライターの取材、アイテム売却の旅、食材の買い出しなど、なにかのついでに歩数を稼ぐ日々。こどもたちは夜9時就寝なので、そのあたりからわたしのフリータイムが活性化するのだが、その頃にはもうぐったりだ。
 以前なら、MMORPG『FINAL FANTASY XIV』であそぶ時間帯だったけど、清掃・整理・整頓をし始めてからなんだかきもちがそっちに向かなくなり、9月末でいったんプレイを休止した。ぶっちゃけこれ、
 もっと片付かないかな、不要ブツでてこい!
 もっと売れるモノないかな、アーッすっきりさせたい!
 ……という、「断捨離」ハイに達してしまったせいもある。なんだか落ち着かなくてもっともっと!!と、夜になるとうちの隅々をみてしまう。正直ちょっとヤバいひとだとおもう。売れるモノが見つかると「はっ、まだこんなものが」とハイになるんだけど、売ったあとは「もういいんじゃない?」と、わりとローになる。

 ……そして、そんなハイ&ロー(というか、どちらかというとソウウツ的な凹凸感情)をくり返して、ようやく今これを書いている。なんだかしっくりこなくて、ソワソワするかんじだったのだけど、それもそのはずだよなと気づいたことがあって。
 母の亡きあと、段階的に実家とわが家の「断捨離」をしてきて、ざっくりモノが減って確かに風通しがよくなった。よくやったな、とおもう。でも、すっきり片付いただけで「じぶん好みの空間」ではないんじゃないか、と。ごちゃごちゃさせたいわけではなくて、ようやくここからリアルなハウジングをやるところなのかもなあ、なんてぼんやり……。こどもの成長にあわせて部屋のつくり変えも(じぶん的には)必須だとおもっていて、アー、そこも考えるたのしみができたなあ、なんてしみじみ……。

 クリーンアップは、だいたい終わった。
 デフラグをするなら、「好み」を反映させていこうよ。

 いったんそうおもったよ、というのを残しておくためのnoteでした。