中学のときDQNにバカにされたことを思い出していた

昔の話。中学生のときだったか、簡単に言えば「タダでいくらでもゲームがダウンロードできるから俺の家に来いよ」と誘われたことがある。そのときはその機械の名前くらいは知っていたけれど、どんなものなのかは知らない状態だった。断った。法律は知らないけれど、どう考えたって倫理的に問題があるとわかったからだ。何度か誘われたが、「俺はゲームが売れない社会を作ることに加担したくない」みたいなことを言ったら来なくなった。ありがちな話で、なぜか知らないが彼らの理屈ではやらないほうがバカだったらしく、たぶん陰に陽にバカにされていたとは思う。

あのとき断った僕がどんな信念でもって断ったのかは、今となってはもうよく思い出せない。中学生のときは自分がソフトウェアを作る側に立つとは思ってもみなかったし、そんな強いソフトウェアに対する思い入れもなかった。しかし、強いて言うなら「ゲームを作った人の顔」が、僕の脳裏にはよぎっていたのではないかと思う。例えば僕は逆転裁判シリーズが好きなのだが、当時のディレクターの名前は巧舟(たくみしゅう)という人であり、開発日誌みたいなものを公式サイトでよく読んでいた。「この人が、作っているのだ」ということを小学生の時分から思い知らされていた。

どんなものも、名前のない誰かが作ったものだとすると味気ない。しかし、少なくとも僕にとっては、ゲームというのは誰かが苦労して苦労して作ったものであり、やすやすと蔑ろにして良いものではないということをなんとなく知っていたんだと思う。

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ソフトウェア開発者になった。僕はOSSというものを知った。最初は不思議だった。なぜこれほどまでに多くのソフトウェアが無料で使えるのだろう、しかも合法的に。よくわからなかった。しかしよくわからないまま、法的には問題がないらしいので使い続けた。

だんだん、わかってきた。そしてやっぱりわかってくると人の顔が見え始めた。それはGitHubのアイコンだったりするし、実際にOSS作者やコントリビュータが登壇していたりするのをこの目で見たりした。顔が見えると、ぐっと身近になる。

当たり前だが、どんなものも人が作っている。目立つところではなく、目立たないところで作っている。それがなんらかの形で脚光を浴びる例はごくひとにぎりだ。でも作られている以上は、大量にあるリポジトリは、パッケージは、その裏に誰かが居て、誰かの善意で公開されているものなのだ。

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今の僕は思う。物事を深く知るためには、その裏にいる人を知ることも必要なのだと。その創った誰かがどんな時代に生きていた人なのか、なにを考えて、どんな問題を解決しようとしてそれを創ったのか。その問題意識はどこから生まれたのか。

そうしたひとつひとつの「少し深い理解」の組み合わせが、世界の見方を変えさせてくれるんじゃないかと思っていたりする。

ゲームと、ソフトウェアを例に挙げたが、どんな創作物だってそうだ。Twiterで5秒眺めてスクロールしてしまう絵は誰かが何時間もかけて描いたものだし、Netflixで流し放しにしているアニメもプロが時間をかけて締切に追われながら作ったものだ。

どんなものの裏にも人が居る。人が人生の一部を使って創ったものだ。そのことを忘れないで、生きていきたい。

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中学のときDQNにバカにされた話がこんな結論に落ち着くとは自分でも思わなかった。

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