大山エンリコイサム「ストリートの美術」


 この書籍は大山エンリコイサムがこれまで様々な媒体に記した論考(初出2009年〜現在)をまとめたものである。ライティング(グラフィティ)をはじめとするストリートアートを中心に歴史・概念・構造的な点から考察し、大山なりの今後の日本社会への提言を含め記されている。

 まずは率直な感想をここに記したい。圧巻であった。おそらく日本国内(海外のことは不明なので)においてストリートアートをここまで多角的な視点から紐解いたものはないだろう。これまでにも大山は数冊の著書があるが、本書で取られた論集の形は大山のいうところの「共振」と「圏域」を顕にしている。大山は近年評価の高いアーティストとしてさらに活躍の幅を広げているわけだが、この一冊も大山の創作概念を如実に示した「作品」といえるのではないだろうか。

 現在私は大学院において現代アートの視点からグラフィティ、ストリートアートについて考察を重ねているところだ。昨年一年間を通して、これまでに自身の持っていた認識は瓦解し、新たな視点を模索しているわけだが、大山のこの著書は思考のまとまらない私に多くを提起してくれた。
 身体、横断、共振、表象、空間の占有、アルターワールドetc…複数のトピックに対する考察は今後も続けていくが今日は大学院の仲間が付き合ってくれた本書の勉強会のことも含め記しておきたいと思う。

 「落書きの想像圏」における視点は、私の中で改めて大きな驚きとなった。この論考において大山は「落書き」を社会学的視点で述べられることの多い制度批判としての記号としてではなく、「落書き」そのものの表象性に着目している。「落書き」が持つ書き手の匿名性を「書き手のコンテクストから切り離し、想像力を多様性に向けて放射する遠心力(シグナル)として再定義」しようというわけだ。そしてこの「シグナル」の特徴はこれまで美術史の文脈を象ってきた作品同士の関係性とは違い、文脈に組み込まれ記号化されることを避けるために個々(作品)が距離を持って共振していることにあるのだ。またこの自立した「シグナル」の存在は内輪の文化として成立するのでもなく、多くの歴史やメディアを横断することを可能とし、結果として新たな圏域を形成しているのだと大山はいう。
 この視点は長らく私が抱えていた違和感に対する一つの答えになった。これまで私はストリートアートを未来につなぐ絵画の新たな系譜としてその文脈にどう紐付けるかということを考えてきた。しかし、特有のジャンルに留めることはこれらの魅力を明示できないのではと感じており、悶々としてきた。また、グラフィティ文化において多用される消費社会に対する反発の記号としての扱いはグラフィティ創世記の少年たちの心象や遊戯性とは相容れないのではないかという感覚を持ち続けている。大山は「落書き」を表象として制度化させることや美術史のいちジャンルに留め置くことがストリートアートの本質を失わせることになると警鐘している。
ストリートアートの持つメディア横断型の特性と複数の書き手の持つ想像力が共振し合うことで生み出されるアルターワールドの存在。大山はこれらを「あらゆる芸術作品の潜在性」であると考えている。本書の勉強会にて指摘されたことだが、近年現代アートとして評価されるストリートアートを切る視点はここにあるのではないだろうか。大山は自身の作品「クイックターン・ストラクチャー」をさらに紐解き見出すべきであると感じている。

 勉強会を通しては多くの意見を仲間たちからもらうことができた。身体性、写真史、日本のアート業界の閉塞性、西洋的視点、男性的視点としての考察など、私一人では得られない視点があった。中でもストリートアートの内包する「男性性」「西洋的思考」の考察は興味ぶかく、これに対し私自身が女性特有の社会性からの考察を行うことも一つの答えを導き出すことになるかもしれないと感じた。

まだまだ不十分な考察だが、本書から紐解かれる「ストリートアート」を再編し、私独自の視点の追求に努めたいと思う。

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