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春と心中未遂

「矢野さん、幸せってなんだろうね」
  石川さんが掠れた声で呟いた。身体がだるくて口を開くのさえ億劫だ。酒眠剤。セックス。ドラッグ。いつの間にか、退廃的な生活が俺たちのすべてになっていた。カーテンの隙間から漏れる光が鬱陶しい。まるで堕落している俺たちを責め立てるように、あたたかくて眩しい。
「そんなの分からないよ。石川さんは毎日幸せじゃないの? 俺にはきらきらして見えるけど。一生届かない気がする」
「こんなに近くにいるのに?」
「物理的な距離の話じゃなくてさ。本当はもっと近くにいきたい。時々もどかしくなるんだ。お互い身体なんてなければ、心で混じりあえるのにって」
「貪欲になったね、矢野さん。初めて矢野さんに会った時はまるで抜け殻みたいだった。良いことだよ。とっても。生きるのって求めることだから」
「でも俺、どんどん醜くなってる。石川さんが何でも受け入れてくれるからもっと刺激的な次が欲しくなるし、今も石川さんに酷いことしたいと思ってる」
「酷いこと?」
「石川さんがもうやめてって泣き叫ぶのを無視してめちゃくちゃに殴りたい。加虐欲が止まらないんだ」
 石川さんは何も言わない。
「つめたい床に頭を押しつけて、手酷く犯したい。友情も愛も憎悪も流す涙のひとつさえも俺のものにしたい。支配したい。支配されたい。石川さんの白くて細い首を絞めたい。愛してるから、愛してるから、俺の手で殺したい」
「……しなくていいの?」
 驚いて顔を上げると、まるで黒曜石を閉じこめたような石川さんの瞳と目が合う。彼の舌がぬるりと口内に侵入して俺を犯す。くぐもってはしたない音が、何もない寒々しい部屋に響く。ふたりの唇が離れて、垂れた唾液が口元をつたって床に落ちる。
「いくらでも殴って、気が済むまで犯せばいい。僕のことは考えなくていいよ。痛みは分かりやすいから好き。全部終わったあとの矢野さんの泣き顔は「本当」だからもっと好き。もっと僕を求めてよ。求めて求めて、だめになってよ。ふたりなら何処にでもいけるよ。きっと幸せになれるよ。ふたりで、地獄に堕ちよう」
石川さんが俺の両手をとって、彼の首に添える。マリアのように慈悲深く、あるいは悪魔のように甘美にほほえんで。
「僕が矢野さんの居場所になってあげる」
 石川さんは俺を否定しない。石川さんはずっと優しい。石川さんは陽だまりみたいな人だった。少なくとも俺にとっては。
それがどうしようもなくもどかしくて、愛おしくて、嬉しい。嘘か本当か分からない石川さんの言葉にまんまと救われてしまうのが、悔しかった。
 石川さんは緩慢な動作で立ち上がると、細く光が漏れていたカーテンを開け放つ。途端部屋が自然光で溢れて、外側の世界があまりにも光り輝いていて、思わず目を瞑る。
 石川さんは窓を開けて、窓辺に佇んでいた。今、彼が何を考えているのか分からない。時々思う。こんなに長く一緒にいるのに、ふたりだけの秘密を沢山共有してきたはずなのに、石川さんの心が分からない。きっと彼が隠しているわけではないのだろう。彼自身も自分のことが分からないのだろう。それが、たまらなく恐ろしい。俺は彼のことを何も知らない。何も分からない。生まれや育ち、根底の思想、何を幸福と感じて何が苦痛と感じるのか。
 これは良いことなのだろうか。あるいは恋人もどきとしてもう少し彼に踏み込むべきなのだろうか。分からない。俺には普通が分からないから、こういう時どう振る舞えばいいのか、何が正解なのか分からない。
 石川さんが俺を振りかえる。幸せそうに、微かに微笑んで。
「あ、春の匂いがする。もうそんな季節になったんだね。矢野さん。……矢野さん?」
 無邪気にはしゃぐ石川さんの声を聞いて、気づけば俺は泣いていた。
「大丈夫。大丈夫。矢野さん、大丈夫だよ。全部大丈夫だから」
 石川さんが俺を抱きしめて、まるで幼い子どもにするように頭を撫でる。子守唄のように優しい声だった。ふたりが使っている柔軟剤の匂いには、かすかに春の匂いが混じっている。

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