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帯化した日常、愛、思考回路(0324日記)

『夜行バスに乗っている。蛍光灯がさみしく光る車内、街全体がトンネルの最中にいるようだった。明かりひとつない。街が眠りに就こうとしている。浮遊感。手中の切符はここにいるわたしの存在を無条件に肯定する。
 新人バイトの「研修中」。シャッターが降りた窓口。若者特有の熱量がこもった車内。身体中にくっきりと浮かびあがる傷と青痣。絆創膏の代わりに傷を塞ぐエンタメ。  夜行バス、消灯。
 真っ暗闇のなかで前を見るともなく見据えて、ぼんやりと座っている。あ。希死念慮。突然現れるバグのような現象。いつもならば世界が透明な棘になって無数に私を貫いただろう。しかし今は、見ず知らずの72人と夜行バスに乗っている。自然と思考は希死念慮から、夜行バスの同乗者に移行する。
 今この時、この場所で、72個の心臓が脈動している。夜行バスがこの72個の心臓を鉄の外膜で覆っている巨大生物のように思えた。わたしはその一部だ。最後列の4席目で、この黒い胎内の片隅で抗うつ剤を飲むひとつの心臓。
 人間愛というが、本当に愛するべきは人間の心臓なのかもしれない。  46億年前に生命が生まれ、姿形を変えながらヒトになったわたし達。わたし達に流れている血液は古代の海そのものだ。ヒトの性質や生き様、言葉、思想や創作物を愛するのではあまりにも脆く危うい。  今まで、人間愛のスケールを見誤っていたのかもしれない。人間愛とは人間という抽象的に刹那的に立ち現れるまやかしめいた人そのものを愛することを指すのではなく、容易に変容する肉体や精神の中でずっと変わらずに鼓動している心臓そのものへの讃歌ではないだろうか。わたしはその音と体温だけを最初から崇拝し、愛すればよかったのではないか。
 72個の心臓。わたしの心臓。隣で寝ている友人の心臓。見ず知らずの心臓。若い心臓。衰えている心臓。真っ赤な、くすんでいる、忙しない、マイペースな、死にかけの、心臓。生命の神秘。わたしは生きているひとつの心臓だ。希死念慮や暗い過去や退廃的な今など、心臓の拍動の前では取るに足らない。わたしは大きくヒトというものを愛したい。心で抱き締めたい。醜さや愚かさまでも肯定したい。』
 数日前に書いた日記を読み返す。当時のわたしはひとの愛し方を暗中模索し、刹那的な解を見つけて安堵していた。今ではガラクタだ。ずっと同じことの繰り返しだった。刹那的に不安に苛まれ、刹那的に解を見つけて安心する。毎日毎週毎月毎年、鬱病になった小学4年生の頃からずっとこうだった。わたしの中に確かなものなんてひとつもない。永遠がない。長く過ごした希死念慮すら、ずっとわたしの隣にいるわけではない。
 ひとと話す時、あまり頭を使わなくなった。わたしが長年集めた言葉たちは、日常生活では使えない不要のものばかりだったから。ひとを模倣して行うひらがなのコミュニケーション。その場のノリ。曖昧で灰色なおそろしい空間で本当に笑ってみたくても、結局作り笑いのようになる。
 本当は向日葵みたいに笑えるのに、わたしと話してくれるあの人。ありがとう。本当にごめんなさい。帯化した愛情を抱いている。殺すか、殺されるかしないと収拾がつかない。
『テレビが何かしらのコマーシャルを流している。時々それに誰かの声が混ざる。しかし、我に返るとテレビは真っ黒な画面を映したまま無音だった。部屋には誰もいなかった。また幻覚だ。』
『薬の副作用で半日以上眠っている。希死念慮と不安をなくす代償に、睡眠時間と人間的な感情を失った。』
 毎日何かしらの文章を書いている。主に日記を。そうしてやっと自我を保っている。支離滅裂な脳内を言葉にし、愛そうとしてみている。けれど、ああ、欠けたパズルの1ピースを探すように集めた言葉たちを、希死念慮の言い換えや病的な思考回路の言語化に使っている。なんて愚かで虚しいんだろう。この脳みそは不良品です。夢と現実の見分けもつかない致命的な欠陥品です。 どうかお救いください神様。

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