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インド瞑想を巡る旅 10(最終回)

エンド・オブ・インディア

滲む光

コルベット国立公園でのアナディ(アジズ)の瞑想リトリートを終えて、私はデリーの喧騒の中に再び舞い戻った。
グルガオンに住む友人の家に泊まる予定だったが、10日ぶりに携帯を開くと、急用ができてデリーを離れるので、近所のホテルを予約したと連絡が入っていた。
予約されていたホテルは小ぎれいなビジネスホテルで、泊まっているのは、ほとんど湾岸からのツーリストだった。

部屋に荷物を置き、グルガオンに住む別の友人から食事に誘われたので出かけると、会うなり言われた。
「どうしたの目が真っ赤だよ!」
鏡を見ると右目の白眼が真っ赤に出血していた。
「あ~あ、久しぶりにやっちゃった。どうりでずっと目の奥がズキズキすると思った・・・」

白眼が出血するのは、結膜下充血というやつで、10年前くらいから神経的な疲れがたまると度々起こった。
鼻血みたいなもので、痛みもないしそのまま放っておけば1週間くらいで治るものだが、その間は白眼が真っ赤なのでコンタクトもできないし、人に会うのも遠慮がちになってしまう。
何より、この症状が出て来たということは、神経的にだいぶ疲労が溜まっているというサインでもあった。
母が亡くなった前後や、震災後に精神的に行き詰まっていた時に頻発していたのだ。
でも、ヨガを始めて食事を変えてからは回数が激減したし、何よりこの6年インドを旅している間は一度も起こらなかった。

それがここで発症したのは・・・

つまり旅をすることに精神的に磨耗して来ているという、身体からの声だった。

そんな状態だというのに、たった二日だけデリーに滞在し、私はオリッサ州の港町プリーに向かった。
目が出血しているのでコンタクでなく眼鏡をかけて空港へ向かう。
広々して光の降り注ぐ明るい空港の中で、周囲の光が飛んで、焦点が合わず風景が霞んで見える。

一体どうしたことだろうか

これほどちゃんと見えないなんて・・・

港町プリー

プリーに向かったのは理由があった。
プリーに古くからある日本人宿で日本人向けにヨガのティーチャーズ・トレーニング・コースを開催しており、そこで通訳兼アテンドのボランティアを募集していたのだ。
通訳が必要なのは毎日2時間ほどで、1日に一度はヨガレッスンに参加する以外、残りの時間は自由に過ごせる。宿泊と食事が支給される。
ボランティアとはいえ、ホテル代と食事代が出れば、日々のお金はほとんどかからないだろうし、何よりTTCのお手伝いができれば、後々ヨガを教えるのに役立つだろうと思った。三ヶ月ほど一箇所にとどまって、ヨガでもやれば今後の展望もひらけてくるに違いない。

と、紹介された当初はやる気満々だったが、心身の疲労が募ってくるにつれ、私は不安になり、瞑想リトリート中に「日本に帰ろう」という声を聞いてからはこの話を断って一旦帰国する方に心が傾いていた。
半分お断りするつもりで、プリーにやって来たわけだが、TTCを主催しているSさんと話しているうちに、またもや心が変わってきた。

プリーの日本人宿はインドのいくつかある日本人宿の中での最も古く、
40年ほどの歴史があるという。
オーナーは日本語がペラペラで、日本人のニーズもわかっている。
宿には日本食もあったりする。
宿の周りの商店も日本人がお得意さんだから、みんな親切。他のインドにはない不思議な安心感があった。
こじんまりしたプリーの町もいかにもインドの田舎町という風情で悪くなかった。
まあ、ビザも6月まであるしここでゆっくり過ごすのもいいかも。今日本に帰ったところで、これだけ疲労が溜まっていたら、すぐにフル稼働で働くのも大変だ。

そいうことで、一度ジョシーの誕生日を祝うためにケーララに行き、アーユルヴェーダの治療を受けて体調を整えて、3月ごろにプリーに戻ってTTCの通訳をするという話をまとめ、1週間の滞在の後、今度は南インドへ向かう。

オリッサーの州都ブパネーシュワルから飛行機でアンドラ・プラデーシュ州都のハイデラバードで乗り換え、ケーララの州都トリバンドラムに降り立つ。

さらにタクシーでインド亜大陸最南端のカンニャクマリ(ちなみにカンニャクマリはケーララ州ではなくて、タミル・ナードゥ州)へ。

やれやれ、インドを東から南へ大移動じゃないか。

カンニャクマリの宿に着いたのは夜中の12時すぎ、心底クタクタだが、久しぶりに味わうねっとりした南インドの空気に心が緩む。

「ああ、やっとここに帰ってきた!」


先生の誕生日

疲れを癒そうと、少しいいホテルに泊まったというのにあまり眠れなかった。
早朝起きて、海辺に朝日を見に行った。
カンニャクマリは三つの海が出会う聖地だ。
広大で抜け切った空と海の眺めが本当にパワフルなのだ。
遠くに、スワミ・ヴィヴェカナンダが瞑想し、悟りを開いたと言われる、ヴィヴェカナンダ・ロックと呼ばれる小島見える。

あいにくの曇り空で朝日はうっすらしか見えなかったが、南インドに戻って来て私はハッピーだった。

なんだかんだ言ってここの空気が大好きなのだ。

ホテルに戻ってありつく久しぶりのイドゥリーやドーサ。
きっとここでしばらく過ごせば元気になるに違いない。

朝食終えたら、すぐにオート・リキシャーを呼びジョシーの住む修道院へ向かう。

今日はジョシーの70歳の誕生日なのだ。

彼に会う時、私はいつもドキドキした。
彼の体調がどんな風か、また転んでいやしないか、どこか悪いところはないかどうか・・・

彼は修道院の入り口の椅子に座って待っていた。今日は誕生日だけにさすがにご機嫌がよく、目を輝かせてニコニコしていた。

「誕生日おめでとう!ジョシー」
彼は私を見るなり、笑って言った。

「うん、大人になったね。」

事故による脳の機能障害が少しづつ進行しており、
彼の空間や時間に関する認知力は会うたびに少しづつ落ちていっていたが、
物事の本質を見極める目は衰えていなかった。

「私たちははじめて一緒にいるね、今回一緒にいるのは意味があることだよ。」

彼が単に私を忘れて言った訳ではないことは、すぐに分かった。
そうなのだ、私は多分はじめて、本当に「一緒にいる」こととは何かを理解したのだと思う。
表層的な「私」を超えた存在の深くから共にいるとはどういうことか。

例えジョシーがトイレの場所が分からなくなろうが、それは深い存在のレベルでは全く関係のないことなのだ。

それが、本当に自分の中で確かに腑に落ちるようになっていた。

ジョシーは会うたびに、余分なものが抜け落ちて、赤ちゃんみたいな顔になっていた。
それは彼の魂がどんどんこの世にいる執着を手放しているようにも感じた。
もう、いつ身体を離れていってしまってもおかしくないのだ。
だからこそ、今このとき、本当に深くから彼と一緒にいたいと思った。
もちろん存在は身体を離れてもそこにある、けれど身体があるからこそ、起こるコミュニケーションも確かにある。

今、時間と空間を共にすることでこそ、起こることが。

誕生日と言っても別に特別なことが何かある訳でもなく、おやつにケーキが出て、修道女達とバースデーソングを歌うくらい。

そもそも、インドの誕生日は誰かに祝ってもらうのではなく、自分でお祝いを人々に配る。ジョシーの弟が言うには誕生日に自分の年齢に合わせた数の食事を人々に振る舞うと、その人は健やかに過ごせると言われてるらしい。
かくいう弟も60歳の誕生日にはかなりの人数の人々に食事を振る舞ったらしい。

修道院に着いて安心したのか、私はほとんど眠って過ごした。
南インドにいると神経が緩むのかいつも猛烈に眠い。
ジョシーと一緒に修道院の入り口で椅子に座ってぼーっとしていて、時間が来ると食事に呼ばれる。
三食プラスおやつ、加えて昼寝付き。
しかし目の調子はすこぶる悪い。とにかく光が眩しく焦点が合わないのだ。

「ジョシー、私目の調子がすごく悪いんだよね。光が眩しくて。」
「大丈夫身体は疲れていても、エネルギーの状態は悪くないから。」

ジョシーの誕生日の二日後は私の誕生日であった。
ジョシーが70歳、私が50歳。そしてその間に皆既月食があった。
なんだか節目感満載の誕生日だった。
インドでは月食も日食も縁起が良くないとされ、嫌われる。
月が欠けている間も、ジョシーは決して外で月を見ようとはしなかった。

「インドでは月食の日の誕生日は良くないんだよ、二人とも1日ずれていて良かったね。」
と言われた。

「ジョシー、私この後プリーでヨガのTTCの通訳をやつるもりなの。6月に日本に帰る前にまた寄るね。」
私は言ったが、彼は何も答えなかった。

本当はカンニャクマリでもっとゆっくりしたかったが、もうひと頑張り、
今度はケーララへ行く用事があった。
定宿にしているアヒムサ・リトリートのオーナーでジョシーの従姉妹であるデイシーと次のヨガ・リトリートについて話す約束があった。
ちょうど宿泊客が居ない空いてる時間に、ゆっくり今後のことを打ち合わせようと呼ばれていたのだ。

カンニャクマリからアヒムサのあるチャンガナチェリーはローカル列車で6時間。
インドの移動としては大したことない。
カンニャクマリは始発駅なので、列車も空いており、エアコン車両はいつもガラガラなのだ。

アヒムサで1週間ほど過ごして、すぐにカンニャクマリへ戻ると言い残し、私は駅へ向かった。

ところがアヒムサに着くなり、さすがに身体の疲労がマックスに達して、そのまま倒れこみ動けなくなってしまった。

ケーララでスタック

この一年4ヶ月の旅の中で、一番長い時間を過ごしたケーララの「アヒムサ・ガーデンリトリート」は私にとっていつでも快適に過ごせる「家」のような場所だった。
スタッフも気心が知れていたし、3食おいしいケーララ料理が食べられて、快適なヨガ・ホールがあり、周囲は豊かな自然に囲まれている。

しかしながら、今回はここにたどり着くなり身動きが取れなくなってしまった。
光の眩しさがどんどんひどくなり、日中もカーテンを閉めて、電気を点けることもできなくなった。
当然パソコンの画面を見るのもつらい。
本を読もうとしても、霞んで焦点が合わず、すぐ頭痛がしてくる。

ちょうど6年前の震災の直後、似たような症状になったことがある。
そのときはもっとひどく、風邪のひき始めのようなだるさや、耳鳴り、食欲不振を伴っていた。
病院で色々検査を受けてもどこも異常はなく、結局心療内科で不安神経症と診断されて、薬を飲み始めた。
確かに処方された精神安定剤を飲むと、頭に登っていた気が、すとんと落ちて緩むのが分かった。
結局それがヨガをはじめるきっかけになったのだ。

しかし、ヨガや瞑想の探求を続けた挙句、また同じ症状が出てきてしまった。
6年前、身体の不調が「生活を変えなさい」と教えてくれたように、再び体は「今のままじゃダメだよ。」と囁いていた。
確かに、拠点の定まらない旅暮らしは私の心身にかなりの負荷をかけていた。
インドであれ、日本であれ移動をやめて、どこかに定住しなければならない時期に来ていた。

アヒムサ・ガーデンリトリートのオーナー、デイシーはジョシーの母方の従姉妹にあたる。ごく幼い頃に父親の転勤に伴ってケーララを出て、ずっとマディヤプラデーシュ州のジャバルプールで育ったとのこと。
「ジョシーが初めて、ジャバルプールの家に遊びに来た時のことは忘れられない思い出よ。」
とデイシーはよく人々に語っていた。
「あれはものすごく、暑い時期でね。あの辺の酷暑期はケーララよりずっときついのよ。午後の暑い時期はみんなただ昼寝をして、暑さをやり過ごすしかないの。そんな時刻に、彼は突然家にやってきた。昼寝から目を覚まして、玄関に行くと、大きなテンガロンハットにベルボトムを履いてムービースターみたいな格好をした男性が立っていたのよ。当時まだジーンズを履いているインド人なんてこの辺りにはいなかった。
「あなた誰?」と私が尋ねると
「忘れたのかい?君の従姉妹だよ」と言うじゃないの。びっくりしたわよ!」

「私たちは、子どもの頃何度か母の実家で会っていたはずだけど、あまり記憶になかったのよね。とにかく、彼は突然うちにやってきて、私に水彩画の描き方を教えてくれたの。
それが鮮烈な思い出でね、彼が帰ってからもずっと、私は水彩画を描きながら彼のことを思い出していたわ。」

その後デイシーの父が急逝し、彼女の母は子どもたちを連れて渡米し看護婦として働いて家計を支えた。
デイシーは医者になり、ゴア出身のヒンドゥー教徒徒と結婚し、子どもが二人いる。
インドやアメリカにいくつも家を持ち、彼女も旦那さんも世界中を飛び回っている成功者だ。
デイシーとジョシーもアクティブでアーティスティックな気性、親戚の中でもかなりウマがあったようだ。
ジョシーがカナダに住んでいた頃は頻繁に会っていたらしく、それだけにデイシーはジョシーの事故にはとりわけ心を痛めていた。

ともかく、西洋医学の医者でもあり、アーユルヴェーダの知識も深いデイシーは、今の私には心強い相談相手だった。
私は、今の身体の症状をデイシーに説明し、移動のストレスで自律神経が乱れているからアーユルヴェーダの治療を受けたい、と相談した。
「分かったわ、でも目の調子が悪いんだったらまずは眼科に行かなきゃ。
眼圧が上がっているときは、アーユルヴェーダの治療は逆効果な時もあるのよ。
近くにいい病院があるから予約しておくわね。」

ところがその翌日、デイシーは階段でこけて、足を捻挫して歩けなくなってしまった。
レントゲンでは骨折はしていないようだが、わずかにヒビが入っているようだった。
数日足を動かすのは厳禁ということで、彼女は部屋から出られなくなってしまった。
眼科についてはうやむやになってしまったので、数日待っておずおず尋ねると、やっぱり忘れていたらしい。
その場で、すぐに予約の電話をい入れてくれたが、混んでいて1週間後と言われてしまった。
ともかく、眼科検診を受けないと、その後の治療のしようもない。私はただここでじっと休んでいるしかなかった。
1週間でカンニャクマリに戻ると言ったが、これはいつになるかわからない。

別に身体がだるい訳でも、お腹が痛い訳でもないが、外に出ると眩しいし、目を使うと頭痛がするのでやることがない。
早朝光があまり強くない時間は、ヨガ・ホールでアーサナと瞑想をして、あとはひたすらダラダラする。
私が暇を持て余しているのはデイシーも分かったらしく、夕方になると私は必ず彼女の部屋に呼び出されて、いろいろおしゃべりをした。
「あなたがヨガをしているところ見たけど、こういう時はアーサナはもっとライトにした方がいいわよ。
それよりプラーナヤーマを増やしなさい。
知ってると思うけど、身体の状態でかえって有害になるポーズもあるのよ
。これ読んで勉強するといいわ。」
と彼女はアーユルヴェーダとヨガの関連性について書かれた分厚い本を取り出して来た。

「マントラを唱えるのもいいけど、あなたクリスチャンなのよね?
それなら祈るのがいいわ。
生まれた時の宗教っていうのは身体に染み付いているのよ、DNAみたいにね。
だからそこから働きかける方が深くに響くの。私はヒンドゥー教徒と結婚したけど、今でも祈りは欠かさないわ。」

「とにかく、あなたの今の状況ではまずは家を見つけることが一番ね。
こう言うときは聖ヨゼフに祈るといいのよ。彼は大工だから!
ヨゼフは人生の現実的な悩みを解決してくれるのよ、私は困ったことがあるといつも彼に祈って来た。
そして何度も奇跡が起こったわ。
願いが叶わなかったことは数えるほどしかない、
そういう時は大抵心のどこかで疑っているの。
子どものように純真な素直な気持ちで祈るのが一番よ。
始めたら9週間続けなさい。きっと良い導きがあるわ。」

私はそれから毎晩祈ることにした、
「どうか快適で心が安らげる住まいを与えてください。
インドでも日本でもかまいません。」と

ようやく眼科検査の日がやってきた。
オートリキシャーで30分ほど、小さな町外れに意外に立派な眼科専門の病院があった。
医者も数人常駐していて、入院施設もあるようだった。
検診用の機械も日本の病院にあるのと同じタイプ。
そしていきなり現れた東洋人を看護師たちは物珍しそうに取り囲む。
検査で機械を移動するごとに、ぞろぞろ付いてくるのでやりにくいったらない。
検査が終わって、診療室に通されると物腰の柔らかなインテリそうな医者が私の目を覗きながら言った。

「白内障だね。特に左が進行しているけど、両目とも発症している。
手術して眼内レンズを入れれば、綺麗に見えるようになるし、近視もよくなるよ。」

白内障か・・・どうりで目が霞んでると思ったわ。

病名がはっきりしてなんとなくほっとした。しかもありふれた病気だ。

「君は50歳だから、ちょっと早いけど加齢のせいだろうね。
手術はどうする?ここでもできるよ。
手術自体は10分もかからない。
ただ、2週間ほど安静にして病院にチェックに来る必要があるけど。
うちの病院では日本製のホヤのレンズを扱ってるよ。
単焦点と多焦点レンズがあるけど、君は近視が強いから単焦点レンズを入れてメガネをかけた方がいいと思う。
単焦点のレンズは片目500ドルくらいだね。
少し考えて、手術するようならまたおいで。
手術以外に治療法はないから、遅かれ早かれ手術する必要があるよ。」

はあ、手術かあ・・・

どこでしたらいいんだろう、日本かインドか。
別にここの病院でもいいような気がする。
結構立派だし、先生も優しそうだった。
頭が真っ白になって思考が止まり、ぼーっとしてゲストハウスに戻った。
「どうだった?問題なし?」
「いいえ、問題あり、白内障とのことでした。」
「あら、白内障なら大したことないわよ。手術すれば治るんだから。眼圧は?」
「高めだけど、ギリギリ大丈夫でした。」
「なら良かった。じゃあアーユルヴェーダの治療ができるわね。」

カラリ・マッサージ

最近ケーララで贔屓にしているのは、ケーララに伝統的に伝わる「マルマ療法」の治療院である。
マルマ療法とはインド最古の武術と言われる「カラリパヤット」に基づく医療体系。
カラリパヤットの戦術では「マルマ」という中医学の「ツボ」に似た身体のポイントを攻撃することで、相手の身体にダメージを与える。
同様にマルマを刺激することで、戦闘で痛めた身体を癒すこともできる。

カラリパヤットのマスターはマルマを知り尽くす、身体のマスター。
よって、伝統的にグルッカルと呼ばれるカラリの師範は、武術家と治療家を兼ねている。
今も「マルマ療法」の治療院には必ずカラリの道場も併設されている。
行きつけの治療院「アンジャネヤ」も治療院の上にカラリの道場があり、
師範はケーララでも有名な武術家だ。
 
「マルマ療法」と「アーユルヴェーダ」は何が違うのか?
大筋は似通っているが、マルマに重点的に働きかけるのが違い。
マッサージもかなり圧が強く、木のベッドにふんどし一丁で転がされ、温めた油を垂らし、ゴリゴリガリガリ、擦られまくる。
オイルも秘伝の調合で作られた自家製だ。

最初はかなり痛いのだが、回を重ねるにつて身体の隅々にオイルが浸透し、圧がすっと身体の奥へと入っていくようになる。
身体が柔らかく全体にふかふかしてくるのがわかる。
大概のマッサージは血行が良くなって身体がだるくなるが、カラリマッサージの後は、身体の必要な箇所にエネルギーが集められ、すっきりと軽快になる。さすが武術系マッサージ!
ここの治療を受けて以来、他のアーユルヴェーダのマッサージでは物足りなくなってしまったほどだ。

グルッカルは目つきは武術家らしく鋭いが、太鼓腹の飄々とした佇まいのおっさんだ。
彼は自分の師匠から様々な技術や知恵を直接伝授されているが、アーユルヴェーダ医としての資格はない。
代わりに息子が医師の資格を持ち、薬の処方などは息子さんが行なっている。彼ももちろんカラリの使い手。
家族で「カラリパヤット」の伝統をきっちり継承している。
こういうあり方はインドだなあと思う。

しかし、ここのグルッカルは頼んでも脈診などしてくれたことがない。
身体の不調を訴えても
「君の問題は身体よりも心だよ。
心配事というのは一つ片付いても、また別なものがやってくるものさ。
全てを解決しようとしたって無理なんだよ。」などど言う。薬を処方されることもほとんどなかった。

今回も「あの、私はなぜ白内障になったと思いますか?」と尋ねると
「う~ん、加齢かなあ。」と答えたので、ずるっとずっこけた。
アーマが、とかドーシャが、とかいうアーユルヴェーダ的回答を期待してたのにな。

なので、私は常々彼はちゃんと診ているのかなあ、
外国人だから適当にあしらっているんじゃないかしら?
なんて疑ってたわけだが・・・
治療が始まって3日目に、山ほどのアーユルヴェーダ薬を持って来てくれた。

「さすがに、今回は相当きてるんだなあ。」
と納得するしかなかった。

1週間の治療で毎日、マッサージとキリ(ハーブボールの温熱療法)を受けると、体もだいぶスッキリし、頭痛も軽減した。
しかし霞んだ目が治るわけではなかったが。

治療が終わる頃、グルッカルに呼び止められた。
「いつまでも旅を続けるのは良くないよ。また別な病気になるだけだ。
ケーララに時々来るのはいいさ、でもずっといるのはダメだ。
ジョシーの世話は家族に任せなさい。
関わりすぎるのはトラブルの元だよ。
あなたも家に帰りなさい。
そうしたら、新しい人生が始まるから。」

いつもは口数少なく必要なことしか言わないグルッカルに、
そう言われたのはかなり堪えた。

でも、帰ってどうすればいいんだろう?
一体どこに落ち着けばいいのだろう?

エンジョイ!

じわじわと、何かが、帰る時期が来たことを告げていたが、私はまだグズグズしていた。手術はインドで受けようかとか、数ヶ月はプリーに滞在してから帰ろうか、とか・・・

そして迷った挙句に、友人である日本人のインド占星術家に相談することにした。
せっかくインドにいるのだから、インド人に占って貰えば安いのだが、ここはじっくり日本語で相談したかったのだ。
スカイプで相談を開始するなり彼女も言った「早めに日本に帰って来て手術した方がいいと思いますよ。今年は何かと世界情勢も不安定ですから、落ち着くまで日本で過ごした方が安全です。」

とうとう観念するしかなかった。

帰る時が来たのだ、と。

決めてしまえば、ずっと前から心の底で分かっていたのだということに気がついた。

ただエゴが心の声に抵抗していただけだったのだ。

結局1週間の予定だったアヒムサでの滞在は、1ヶ月近くにも伸びていた。
プリーのSさんにはお断りの連絡をし、
帰国の日を春分の日と決め、最後にジョシーに会いに行くことにした。

再び列車でインド最南端まで南下する。

カンニャクマリの修道院に着き、ジョシーに告げた。
「日本に帰ることを決めました。」

彼は私の方を見つめて静かに言う。

「それを言うのを待っていたよ。」

そうか、ジョシーも分かってたんだね・・・


しかし、今回はジョシーの体の調子が思わしくなく、
私は随分面食らってしまった。

彼はよく身体が熱いと言い、熱いと機嫌が悪くなった。
(昔は暑くても全く汗をかかない人だったのに。)
機嫌が悪くなると日本語を忘れて、マラーヤラム語で話しかける。
「ジョシー、今マラーヤラム語になってるから、日本語か英語でお願い!」
と頼んでも、本人は日本語で話しているつもりらしい。

通じないとますます機嫌が悪くなり、怒鳴りちらすことも時々あった。
そうなると私もお手上げだ。
家族が駆けつけ、マラーヤラム語で話しかけると落ち着いた。

ああ、もう私の役目は終わったなあと思うしかなかった。

夜は夜で寝つきが悪く、トイレに何度も起きるので、その度に付き添った。
そのまま寝ぼけて部屋の中をぐるぐる歩き始めることもしょちゅうで、基本的に夜はまともに眠れない。
だから昼の間は朦朧としていた。

2月下旬のカンニャクマリは徐々に暑くなっていった。
マルマ療法で改善されたとはいえ、光が眩しいのは相変わらずだし、無理をするとすぐ頭痛がしてくるので、一日中ジョシーの隣に座ってぼーっとしていた。
ジョシーも何もすることなく静かに、玄関の前で座っている。
それでいいのだと思った。

6年、私がインドに通い続けて学んだことは、
ただ静かに共にある、ということだった。

それがどれほど貴重な時間であるか、ただ何もしないでそこにいることが
、どれほど価値のあることか・・・

6年前、ケーララに通い始めの頃、毎日変わりばえのしない日常の雑用ばかりやらされれることに、私はイラつき毒づいたものだった。「私はヨガを学びに来たのに、全然何もしていない!」

すると彼は言った。「何もしないことを学ぶために、みんなどれだけの時間とお金を使うと思ってるんだい?」

それは嘘じゃなかった。


ただ静かにそこにいる時、私たちは体を超えたところで、繋がっていた。
それは言葉も距離も時間も超えていた。

それでもジョシーが日本語で話せる時は、彼も調子が良く、深い会話をすることができた。

ある日、彼は言った。

「さよならを言いに来てくれて、ありがとう。
今までの生活の時間、終わる時がきました。」

どきりとした。

それは彼から私へ向けた卒業宣言だった。
もう今までのように、長くジョシーの元で過ごすことはないのだろうと、直感した。

次に彼に会えるのは一体いつになるんだろう・・・その頃彼はどうなっているんだろう・・・

「心配しないで。今、魂はあなたの体の中に入っている。魂が体の中で調整している。」
「そう思う?でも、まだ上手くコミュニケートできないんだ。」
「ローマは一日にしてならず、だよ。大丈夫、迷ったらちゃんと助け舟を出すし、今までもそうしてきたから。」
そうなんだよね、調子のいい時はいいこと言うんだよなあ、ジョシー先生。

いよいよ、カンニャクマリを去る日、空港までのタクシーがやって来ても
ジョシーは部屋から出て来なかった。

「もう、出発します。見送りに来てくれないんですか?」と尋ねると
「辛くなるから・・・」
とポツリと言われたのがズシンときた。

「でも、最後に何か言ってくれませんか?」

「・・・エンジョイしなさい!」

部屋を出ると、見送りに待っていたジョシーの弟やシスターたちが笑っていた。
タクシーの背に大きく「エンジョイ!」と書かれていたのだった。

そのタクシーに乗り込んで、空港へと向かった。

終わり、そしてはじまり

トリバンドラム空港からデリーへ飛び、インド最後の数日をグルガオンの友人宅で過ごした。久々に思う存分日本語で会話をした。

モールの一角のおしゃれなカフェでキヌアのサラダやパスタを食べて、窓の外に広がるビルの夜景を眺める。もう南インドは遠い、田舎暮らしでしばらく化粧もしていなかった自分の姿を、大きな鏡に写して眺めてみた。
急に全てが野暮ったく感じる。

デリーでは日本に持ち帰る物資補給の為ひたすら買い物。
3月の日本に対応できる服とか、化粧品類とか、サングラスも買い換えたし、眉毛もカットした。
一日中車に乗って買い物し続けて、クタクタになったので、日系のホテルにある銭湯で一風呂浴びて、帰りにヤクルトも飲んだ。
週末だからかひっきりなしに、日本人がお風呂に入りに来る。

お風呂に入って、外に出るとそこはインド、なんだか不思議だ。

本当にもうすぐ、帰るんだ。

まだ実感がない。

ちょっとメランコリー・・・
でも、そんな事言ってられないほど、帰った瞬間に押し寄せる雑事の数々を考えると頭が痛い。

心配は頭の前の方に置いて、後ろに下がる。透明な静寂の広がる場所に
錨を下ろす。

窓の外のインドの音に耳を済ます。
人々の話し声、車の音、鳥の声・・・
空は広大で、太陽は今日も世界に降り注ぐ、私たちがどんな状態であっても。
世界は過分も不足もなく、今この瞬間の中にきっちり満ちている。

その満たされた空間で、静かに呼吸する。
OK、大丈夫。

ジョシーに言われたことを思い出す。
アーサナの勉強が終わったら、次はヨガを勉強する時間だよ。
あなたが世界の一部になったら、あなたはヨギだ。
心配に巻き込まれている時、あなたと世界はバラバラだ。
あなたは世界の一部なんだよ。

信頼しなさい、そして来るものを受け取りなさい。
損得を考えずに、必要なことをやりなさい。
今まで学んだ智慧を使って生きて下さい。
それがこれからの、あなたのプラクティスだよ。

ああ、全くその通りです。
それに比べたら、マットの上のヨガは簡単だ。
このマットの上から一歩出て、
直に大地の上に立って、
人生を踏み出していく・・・

多分明日も明後日もきっと1ヶ月後も、人生は何とかなっているはず。

きっと死ぬまで、人生は何とかなり続ける。

それを信頼して・・・


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