見出し画像

インド 瞑想を巡る旅 9

冬の旅

スリランカでたそがれて

   コルベット国立公園での瞑想リトリートの後、デリーで1週間を過ごしスリランカへ向かった。2016年の12月にインドに来て約一年が経っていた。インドの観光ビザが切れるので、新しいビザを取得するための旅だ。
 当初日本を発つ時は、旅行期間は一年くらいと考えていたが、日々はあっという間で、全く日本に戻る気にはなれなかった。しかし旅費は底をつきかけてたし、これ以上インドに居たければ、働くか何かしなければならない。一年もインドにいれば何かが先の展望が見えてくるかと思ったけど、内面的な変化は多かったが、現実的には先は全く見えなかった。
 何はともあれ、インドのビザを再び取って、私はもう一度アルモラへ戻ろうと思った。この旅の中、あそこで起こったことは私にとってとても特別なことだった。そこで掴みかけた何かを、もっと深く感じてみたかった。手持ちのお金をかき集めて、1月から再び始まるアナディの瞑想リトリートに申し込み、その前の3週間をアルモラで過ごすことに決めた。デリーからの列車も宿も全て予約し、後は無事にスリランカでインドビザを取ればいいだけだ。

 デリーから3時間のフライトでスリランカへ。首都コロンボはハリケーンの後で雨が降っていた。街の雰囲気も食べ物も南インドに似ている。ジョシーが住んでいる、カンニャクマリまでは目と鼻の先。彼がどうしているか気になったが、今回はビザを取ったら、再び北インドへ直行だ。
 翌日すぐにビザセンターへ行く。スリランカでのインドビザの取得は安価で、代理店が行なってくれると聞いており、まずそこで必要書類を作ってもらって、自分で窓口に並べはいいだけ。窓口でパスポートを預け、ビザの引き換え書をもらって、10日ほど待ち、指定の日にちに再度窓口に並んでビザを受けとるという流れ。待ち時間はインドやスリランカの休日によって前後するが、だいたい2週間見積もれば十分だろうとアドヴァイスされ、2週間後にインドに戻るチケッを予約してた。
 代理店でビザ取得の代行を頼むと、明日はインドの休日でさらに土日を挟むから、私がビザを受け取れるのはなんとスリランカ出国の当日。うわーギリギリ!
 その日にインドに戻るから、せめて前日に何とかならないかと尋ねると、さらに代金を払えば、書類作成から窓口に並んでビザを受け取るところまで、全部代行する、そうしたらなんとか前日にできるように手配すると言われた。金額は日本円で4000円ほどで結構高いなと思ったけど、下手にケチって焦るのは嫌なので、全てお願いすることにした。
「じゃあ2週間後にまたここに来れば、もうビザは出来上がってるわ。あとはゆっくりスリランカ観光でもしていらっしゃい。」と言われた。ということで、用は済んでしまった。後はビザが無事に受け取れるのを祈って、ブラブラするのみ。

 このころから徐々に私は、自分の体力も気力も落ちて来ているのを感じていた。インド滞在中、風邪で寝込むこともお腹を壊すこともなかったが、疲れるとすぐに右の歯茎が腫れるようになっていた。多分以前に治療した歯の根っこに問題があるのだろう。それまでも度々あったが、数日もすれば腫れは治った。ところがその腫れが恒常的に続くようになっていた。抗生物質を飲めばしばらく落ち着くが、ちょっと無理をするとぶり返す、時々耳の中まで詰まったような感じになる。根治治療が必要だろうから、歯医者に行くにしても、ある程度通う必要があるだろう。
 そしてもうひとつ、視力が急に落ちてきているのも感じていた。コンタクトが合わなくなっているのか、焦点がなかなか合わない。明るい場所だと光が眩しい。本が読みにくい、細かい字が見えない。老眼が進んでいるのだろうけど、これも何とかしないといけない。
 気がつくとこの一年の間、3週間くらいで居場所を変える生活をしていた。インドの医療レベルは決して悪くないと聞いてはいたが、さすがにその辺の医者にふらっと入るのは危険すぎる。しかし、インドのどの街にも腰を落ち着けたことがなく、一体どこで医者にかかればいいのか見当がつかない。
 体調が今ひとつのせいもあって、朝起きるとよく不安になった。「私は一体何をしているんだろう?これから何処へ行ったらいいんだろう?」

 スリランカの街は小ぎれいで、インドよりもずっと整備されている。インドにいると路上生活者から、遊行のサドゥー、何をしているかわからない謎の旅人など、アウトサイダーたちが沢山いるので、自分もその空気に馴染んでしまえるが、下手にきれいな場所にいると、所在無く感じてしまう。
 コロンボに居ても仕方ないので、内陸の古都キャンティで1週間ほどのんびり過ごす。airbnbでたまたま見つけたホームステイ先のホストは、日本での中古車事業で成功して建てた豪邸の一部を貸しており、片言の日本語が話せた。何かと気を使ってくれたが、若くして成功して家も家族もある、まっとうな人たちと一緒にいると、いつのまにか居心地悪く感じている自分がいた。何しろ私には何もないのだ。家も、家族も仕事も...50歳を手前にここまで何もない人生になるとは、全く予想もしていなかった。
 というわけで、ひたすらインドに帰る日を待ちわびる私であった。

 指定の日時に代理店に出向くと、半年間のインドビザが出来上がっていた。しかも、最近新しく施行された90日ルール(ビザの期限は半年だが、90日ごとにインド国外に出国する必要がある)の記載のないビザだった。つまり、一度インドに入国すれば半年間インドに滞在できる。とりあえず、猶予期間が引き伸ばされた気がした。なんとかしてこのビザが切れるまではインドに居ることにしよう。

ヒマラヤの冬ごもり

 無事にインドに入国した私は、デリーで防寒具を買い込んで、再びアルモラへ戻った。真夏のスリランカから、真冬のヒマラヤ山麓へ。時はちょうど冬至のころ、デリーもすでにセーターやジャケットが必要な気温になっていたから、ヒマラヤの麓はさぞかし寒かろう。
 前回のような不測のトラブルは起こらず、スムーズに列車に乗り込み終点のカタゴッタム駅まで。予約していたタクシーもすぐに見つかって、3時間かけて山道を走る。
 一ヶ月半ぶりのアルモラは思ったより暖かい。出迎えに来た宿のオーナー、ディワンに「随分暖かいね」と言うと「今年はずっと晴れ続きで特別なんだよ、曇ったり霧がかかったりすると、気温はぐっと下がるんだ。」
一階の安い部屋は空きがなく、二階の広い部屋に通された。一泊800ルピー(約1,500円ほど)少し予算オーバーだったけど、広くて日当たりも良く、小さなキッチンと、机と椅子があるのもありがたかった。ディワンから小さな電気ストーブを貸してもらって、それで寒さをしのぐ。
 次の瞑想リトリートまで3週間、特に予定はない。一人で瞑想しながら誰にも邪魔されずに静かに過ごしたかった。アナディにも早めにここに着くことは特に伝えていなかった。彼から出された課題を少しは進歩させていなければ、合わせる顔がない。今回は他にもアナディの生徒が二人滞在していた。隣の部屋に75歳の年配の女性、一階には若いアメリカ人女性。彼らは11月の40日間のリトリートを終え、次の40日間のリトリートに備えて、ここに滞在していた。
 長期のサイレントレトリートが終わったばかりの彼らは、人との接触を控えめにしていて、軽く挨拶するだけで言葉を交わすことはなかった。

 スリランカからアルモラへ戻って来て、鬱々とした気持ちは一瞬晴れた。ここの空気はやはり特別で、直感が研ぎ澄まされる感じがした。東側の山の斜面に建つこの宿は、朝日が素晴らしかった。毎朝、冷たい朝の空気を切り裂くように、眩いばかりの日の出の光が差し込んで来た。日が当たる場所だけは焼けるように暑いが、日陰は冷たい。毎朝、朝日を眺めた後、瞑想とヨガをして、朝食を済ますと、日向ぼっこをしながら山を見る。時々絵を描いたり、文章を書いたりする。夕方には山道を歩いてドゥルガー寺院まで行く。
 山の中のこの宿はネットがほとんど通じなかった。テキストメールだけはかろうじて受け取れたが、画像は全く開かない。Facebookを投稿するにも、メイン通りのカフェに行く必要があった。不便だが雑音に邪魔されずに、自分と向き合うというには最高の環境ではあった。
 一年中暑くて植物が豊かに生い茂る南インドに比べたら、ここの生活はうんと質素だ。聞けばこの辺りでは、食事は朝と夕方の2食しか取らず、昼はチャイとビスケットなどの軽食で済ますらしい。そういうわけで私もそれに習い、(というか周囲にまともなレストランがないので)1日2食で過ごした。朝は宿でジャガイモのパラタとチャイの食事を取り、パンやフルーツを買い置きしていて、小腹が空くとそれを食べる。夜はオーナー夫妻と一緒に食卓を囲む。ダルと野菜のサブジ、チャパティとご飯、ヨーグルト。多少ヴァリーションはあるものの、基本的に毎日メニューは同じ。
 南インドでは三食きっちり食べた上に、お茶の時間もスナックやスイーツを取ったりしているのに、ここの人の食べる量は南インド人の半分にも満たないのでは...フルーツもケーララに比べたら味が薄いので、あまりそそられず、毎日山道を歩くので、だんだん痩せてきた。

 お正月を超えると、急に気温が下がり始めた、小さな電気ヒーターひとつでは部屋は温まらず、昼でも手がかじかんでくる。ここにきて約2週間、当初は山の中でじっくり静かに過ごすつもりだったが、再びだんだんと鬱っぽくなってきた。
 というのも、ある日ふと左目の視力がガタ落ちしていることに気がついたからだった。ずっと焦点が合いにくいと思っていたら、左目がこんなに見えてなかったなんて!一体いつからだろう?老眼のせいだろうか?乱視が進んでコンタクトが合わないとか? 急に、ドキドキしてきた。歯の調子も依然あまりよくなかった。痛くなって薬を飲むと収まるが、またすぐにぶりかえす。

 朝目を覚ますと、自分が完全な迷路に迷い込んでしまったようで暗澹とする。これから一体どこへ行ったらいいのか?体は大丈夫なのか?治療はどこでしたら良いのだろう?
 なぜこんなところにいるのか、なぜ自分が生きているのかすら、よくわからなくなってくる。結局日本にもインドにも居場所は見つからなかった。まったくの頼りなさに泣きたい気分になるが、一体誰に助けを求めていいのかもわからない。
 今までも瞑想リトリートに参加したりすると、色々と感情的な問題が上がってきて、一時的に鬱っぽくなることはあったので、またかと思ってはみたが、それで沈んだ心が去るわけではない。もうこの数年、人生の危機は何度も通り過ぎてきた。これよりひどい時だっていくらでもあった、それでもやり過したんだからと自分に言い聞かせるしかなかった。

帰るときは身体が教えてくれる

 話し相手もほとんどおらず、不安な気持ちにどう対処していいか戸惑う中、宿の夫妻と共にする夕食の団欒は貴重な時間だった。途中から、隣に泊まっている75歳のアイルランド人のアンも食卓に加わるようになり、話し上手な彼女のおかげで会話もはずんだ。
 アンは75歳の年齢にもかかわらず、ロンドンの自分のアパートを2年間人に貸して、アナディのリトリートに参加すべく、長期旅行の最中だった。インドのリトリートに3回、ヨーロッパのリトリートに1回参加し、次の40日リトリートが終わったら、ロンドンに帰るつもりだという。
 ある日夕食の席で、私は素朴な疑問をぶつけてみた。サイレンス中に難しいことが起こったらどうするのか、そんなに長期にわたってサイレンスをしていて、その後社会に戻る時に困難ではないのか、と。 
 すると彼らは私が何か、問題を抱えているのかと聞いてきたので、「いやここ最近ちょっと鬱ぽくて...」と答えると、ものすごく心配されてしまった。

「あなたは若いからこういうのは初めてなんでしょう?」とアンが笑っていう
「いや、若くないです。」「あら、私に比べたら若いわよ。」と言われればそうですね、と言うしかない。「こう言う時ヨーロッパではカンセリングに行くけど、日本ではどう?」「最近は行きますよ。」「辛い時に相談できるソウルメイトはいないの?」色々真剣になって考えてくれる。だんだん収まりがつかなくなってきた。
「長い生徒に相談するよりは、アナディにプライベートミーティングの時に直接相談するのがいいと思うわ」とアンがいった。「大丈夫、あなたは正しい場所にいるわよ。」

「ここに来る人たちの多くは、みんなアパートを閉じて長期で旅している人が多いから同じ悩みを何度も聞いてきたよ。いつまでも旅を続けていられるわけじゃない、どこかに落ち着かないと。」とディワンにも言われてしまう。
 確かに、精神的な探求を続けるということと、生活を落ち着けることのバランスをとることの難しさは、誰にでも付いて回る問題なんだな。40日間のリトリートを何度も参加するなんて、いくらヨーロッパ人といえど普通に家族も仕事もある人間には難しいだろう。みんなそれなりの事情や想いを抱えてやってくるのだ。

 アンや他のアナディの生徒たちは私よりももっと長期にわたるサイレンスを続けてきている。一階の部屋を借りている、アメリカ人の女性はアナデイの長年の生徒らしい、彼女は食堂にもやってこなかったし、1日部屋に引き籠って一人で過ごしていた。一年に二ヶ月以上そうしたサイレンスを定期的に続けているのは、なかなか大変なことのように思えた。サイレンスの期間、精神的に不安定になったりしないのだろうか。それをサポースしてくれるシステムはなさそうに見えた。いわゆるシェアリングの場のようなものはアナディのコミュニティには全く見受けられない。夕食の時間にアンや宿の主人のディワンから色々聞き出すのが、私の唯一のアナディのコミュニティに関する情報源だったが、アンもアナディはコミュニティがカルト化するのを避けて、わざとあまり横の繋がりができにくいシステムを作っているのではと言っていた。生徒たちの多くはお互い顔を見知っていても、サイレンスを保つために、あまり積極的には交わらないという。
「私たちがここでこんなにおしゃべりしているのは秘密よ。」とアンが笑って言う。


 ある朝、食堂へ出向くとアンが普通じゃない様子でパソコンに向かっていた。どうしたのかと尋ねると、「以前手術したヘルニアが再発したのよ。だから急遽帰国しようと思うの。まずは近所の医者で検査して診断してもらって、フライトチケットも取り直さなきゃ、リトリート代ももう払ってるのよ、それも返金してもらわないと。大変だわ!」とのこと。
 突然の出来事に私もびっくりしたが、夜に再び彼女に会うと「5日後の帰国を決めた。」と素早い決断と行動に驚いた。
 翌々日 病院でレントゲンを撮るという彼女と、近郊のラニケットという町までドライブついでに同行した。2時間くらいの道のりの中彼女と改めていろんな話をした。「急に帰ることになったけど、正直言って落ち込んでないの、むしろホッとしているのよ。友人も家族も私を心配してるしね。貸していたアパートも2年の契約だったのに、借主がちょうど早く出て行ってしまって空いてるのよ!当初は家賃収入が減っちゃうからがっかりしてたんだけどね。」
 まさに、多分今が彼女の帰るべき時だったんだろう。その様子を見ていた私はふと、「帰るべき時が来たら、きっと身体が教えてくれる。」と思った。
 聞くと彼女はもう30年もの間、イリーナ・ツィーディーというロシア人女性の元でスーフィー(イスラム神秘主義)を学んできたという。
 
 「知っての通りスーフィーはハートに働きかけるものなので、彼女は瞑想というものは一切教えなかったけど、私のハートを開いて、人生を根本から変容してくれた。文字通り人生が焼き尽くされたのよ。彼女のもとで私は多くを学んだわ。彼女は数年前に亡くなってしまって、その後しばらくは先生を探そうとは思わなかった。
 私はOKだと思ってたけど、心のどこかでは何か充分でないという感覚はあったの。そしてある時、とても親しい友人がなくなって、それは私にとってとても大きな、深い体験だった。いつか話すわね。ともかく友人が亡くなり、私は通常の生活を送っていた、でも何日かして、とても深い沈黙が自然に降りて来た。
 いつもテレビを見ていたのに自然に見なくなって、音楽を聴くこともなくなった、私の人生で音楽はとっても大切なものだったのよ!そして買い物にも行かずに椅子に座って、ただ静かにしていたの。こんなことなんて今までなかったわ。それが5日ほど続いたの。
 そしてある時不意に我に返って、コンピューターの前に座ってGoogle検索を始めたの「Truth Enlightment(真実、悟り)」というキーワードでね。すると一番最初にアナディのサイトがヒットしたのよ、そしてそれを開き、貼り付けてあったヴィデオを見たの、古い時代のものだったけどね。彼の姿を見た時、すぐにこの人が私の先生だとわかった。自分のアパートを人に貸して、スーツケース5個を抱えてここに来たってわけよ。でも、面白ことに私の他の友人たちが、同じキーワードでグーグル検索をしてもアナディのサイトはヒットしないというのよ。それから友人たちが方々でアパートを貸してくれたりして、そこに滞在しながらリトリートに参加してきたのよ。」
 そして私も彼女にこの数年自分の人生に起こったことを話した。
「あなたも色々あったのねえ。話してくれてありがとう。アナディの組織の運営の仕方は、かなり独特でそれに関しては私は色々言いたいことがあるけど...それとティーチングは別よね。友人のインド人の生徒は、アナディは何十年かしたら、人々に語り継がれるようなスペシャルな存在になるだろうと言ってるわ。
 でも私たちは自分で自分自身の先生にならなければならないわ。簡単なことじゃないけど、大切なことよ。」

 結局アンのヘルニアは大したことなく、手術の必要はないだろうとのことだった。リトリートの代金も全額返金されて、彼女はそのお金で夏のヨーロッパでのリトリートに参加すると言っていた。フライトチケットの変更手数料はかかったものの、首尾よく彼女は帰るべき時に、帰るべき場所へ帰って行ったのだ。 
 アンとの出会いは、短かったけれど深い印象を残した。後で偶然知ったが、彼女のスーフィーの先生であるイリーナ・ツィーディーはインドのスーフィーの師の元で学び、その伝統的な教えを西洋人として、初めて本格的に伝えた人として有名な先生だった。
「ロンドンでスーフィーの生徒同士が集まると。私たちはいつも冗談ばっかり言ってるのよ。」と彼女は言ったが、確かによくくだらないジョークを飛ばしていた。でもそこから発せられる笑いとポジティブなエネルギーは、確かに場の空気を変える力を持っていた。彼女の行動力と決断力、そして気取らずオープンで暖かなハート。それが長年スーフィーの教えを学んで来た賜物なのだろうか。
 いつかまた再会できたらと願いつつ、別れを告げた。

 アンが去ってしまい、階下のアメリカ人も早めにリトリート会場に向かい、宿には私しかいなくなった。再び話し相手のいない静かな時間が戻って来た。
ある真夜中、突然目が覚めた。本当に音のしない静かな静かな、真っ暗な夜だった。建物には私ひとりきり。急に深い孤独と恐怖がせり上がった来た。自分の頼りなさに涙が出そうになった。おなじみの悲しさがやって来て、心臓がバクバクし胸が苦しくなる。手を合わせて神様に祈った、どこへ進んでいいのか分からない、誰か助けてほしい、私一人では耐えられない!」

 その時、心の中で声がした。
「神様じゃない、自分自身に祈れ、あなたを助けられるのはあなただけ。自分のろうそくに自分で灯りを灯しなさい。」 
 我に返った。
 ああ、そうだっだ、また忘れていた。
 呼吸を整え目を閉じて、自分の奥へ、深くへ、そこにあるかすかな大丈夫さの中へ、時間を超えた静けさの中へ、ゆっくりゆっくり入って行く。さらに呼吸を続けてそこにとどまる。「OK、うん大丈夫だ...そういえばカナダのジョンもいつも暖かく大丈夫でいなさいって言ってたな。これはそのことだったのかな。」
 恐怖はやがて去り、私はいつのまにか寝入っていた。
 翌朝、目を覚ましその時やっと、どうしてアナディがこんなに長いサイレンスをさせるのか、了解できた。外側に気を紛らわせてくれるものがあったら、自分の中にまっすぐには入っていけない。もしも誰かが隣にいて、怖いと言った時に、すぐ慰めてくれたら、その時は幸せかもしれないけど、私は自分の中の大丈夫さに気がつくことはできない。本当に自分一人だけになってはじめて、自分が暗闇の中で明かりを灯せるのだ、ということに気がつく。
 アンが「自分で自分自身の先生にならなければならない。」と言ったのもそういうことかもしれない。私はずっと自分の暗闇を明るくしてくれる外側の何かを探し続けて来た。でも、明かりを灯すのは私自身なのだ。それはずっと私自身が持っていたにもかかわらず、使われずにいた灯りなのだ。
 ただひたすら徹底的に自分というものと対峙して行く、自分以外の逃げ場が何もないという状態にならないと、人はなかなか自分自身とは向き合えないのかもしれない。思えば小さな頃から理由のない恐怖にとらわれて来た私だった。そこから背中を向けて、助けを求めて逃げるのではなく、くるっと向きを変えて灯りを灯せばいいのだ。たったそれだけのことに、何十年も気がつかずに生きて来たのだ。
 それは先月ドゥルガー寺院で聞いた声と同じ、私の奥底から強く断固として響いてきた。私はそうやって人生ではじめて、自分の中にまっすぐ降りていくことを学びつつあった。
 
 そこにいるのは私だけ、どこまで行ってもわたしだけ。
 微かな静寂が霧のように、ゆっくり心を覆っていく。


凍りつく静けさ

 1月9日、再びアルモラからリトリート会場のコルベット国立公園へタクシーで向かう。予想に反して、アルモラよりも標高の低いコルベットの方が寒かった。朝晩に霧が出て曇りがちで、日が差さない。受付を終えて案内された部屋は、前回のテントよりもずっと綺麗なバンガローだった。布団は十分に厚く、小さなヒーターもあり、お湯シャワーはしっかり出た。受付で事前にお願いすると、バラとガーベラの花をデリバリーしてくれて、それを部屋に飾ると、快適な空間になった。
 参加者は前回と同じ顔ぶれが半分。全部で30人くらいだった。二回目なので勝手も知っているし、リラックスした気持ちでリトリートがスタートする。
 しかし、寒い...! 予想外だったのはこの寒さだ。朝晩霧が深く、湿った冷たさがこんなに身に堪えるものとは思わなかった。衣服の隙間から冷たい粒がしゅわーっと身体に入り込んでくる。みんながヒーターを使うので供給電力が追いつかず、夜の灯は暗く、昼間はよく停電する。シャワーを浴びた後、ドライヤーで髪を乾かさないと一発で風邪をひきそうな寒さだったので、瞑想セッションと食事の合間に、停電が来ませんようにと祈りながら、シャワーを浴びた。瞑想ホールの床はコンクリートで冷たく、早朝のセッションはショールで身体中をすっぽり覆って瞑想する。
 しかし、意外にも暑い時より寒い時の方がずっと瞑想に集中できるということに、私は初めて気がついた。暑いと汗をかいたり、虫が寄って来たりととかく身体の外側に意識が向かいがちだが、寒くてショールで体をぐるぐる巻きにしていると、内側に意識がどんどん向かって、凍りついたような静けさの中に引き込まれて行く。
 なるほど、だからヨギたちはヒマラヤの洞窟で瞑想するんだなあ。

 あまり間をおかずにリトリートに入ったので、前回よりもずっと瞑想に入りやすかった。体の痛みもほとんど感じず、時間はあっという間に過ぎていった。
 二日目に早速アナディとのミーティングがあった。こんなに寒いというのに、彼は薄いシャツに裸足だった。「寒くて驚きました。」というと「そう?」と答える。ジョシーもケーララの暑さの中で長袖着てたから、瞑想を極めると本当に外気温に影響されなくなるのだろうか。
 私は恐る恐る、時々上がってくるネガティブな感情について尋ねてみると、「ああ、そんなこと?」と事も無げに笑われた。
「それは無意識の層にある感情や上がってきてるだけだから、そんなことに囚われず、この機会を最大限に生かして練習しなさい。で、どんな悩みがあるんだい?」
「え~と...色々です。離婚した時の悲しさとか、将来に対する不安とか...」
「へー、君結婚してたんだね。もうする必要ないよ!あんなの単なる制度なんだから。自由でいなさい、それがいい。」
「はあ...」
「ネガティブな感情が上がってきたら、太陽神経叢のあたりををリリースするように呼吸を続けなさい。」
めっちゃ当たり前のアドヴァイス!
「それよりも、あなたは今まで出会うことのなかった意識のセンターに出会った、それがどれだけ重要なことか、感謝すべきだろう?」
まあ、そう言われたら「まさにそうですね。」と言うしかない。
「肝心のピュアミーはどんな感じ?」
「6~7割というところでしょうか。リトリート期間は結構保てますが、外に出ると難しいです。」
「では、この期間中に8割まで上げなさい。進歩しているという実感が大切なんだよ。もし、夜中に目覚めるようなことがあったら、一度起き上がって座って瞑想しなさい。ピュアミーを保つことを脳にインプットするいいチャンスだから。」
 結局大したことは話せず終わってしまった。彼とのミーティングはいつもこんな感じだが、それでも存在の深いところを通して、ミーティングをしていると言う実感がある。今、こうして書きながらそれを思い出そうとしても、即座にその存在の質感が呼び覚まされてくるほどに。

 日々はするするとあっという間に過ぎて行く。前は休み時間に細々動いていたが、何かするのが億劫になって、ただその場で静かにしていたいと思うようになった。セッションが終わった後も、ホールの外の椅子に座ってただ緑を見ていた。夜になるとキャンドルを灯し、その灯の中で花を見ながらぼーっと動きが止まる。
「ピュア・ミー」を上手く保てている時は、いつもより少し物事がスローに感じる。視野が広がって自分の動きもスローになる。ちょうど自分の人生の映画を見ているように、世界と自分の間にスペースがある。
 この感覚、ちょうど小さい頃見ていた世界と似てるなって思う。いつ頃までこんな感じだったろう?そこにとどまっていられる時は、小さな頃のピュアな感覚を思い出す。世界に対していつも新鮮な驚きをもって見つめていた頃の自分。
 時々ささやかな記憶が、ふっと頭の奥から浮かんでくる。ピアノのレッスンの帰り道、おばあちゃんにドーナッツを買ってもらった時のこと、誰も歩いていない、真っ白な雪の中を一人で足跡をつけて歩いたこととか。ここが寒いので、生まれ育った北海道を連想させるのかもしれない。
 そんな中、時々事務手続き的な手紙がスタッフから届いたりすると、無理やりチャンネルをぐいっと別なところに合わせて、考えたり英語で手紙を書いたりしなくてはならず、無茶苦茶疲れる。
 ああ、本当に人間って日々のサバイバルのためにどれだけ、脳のエネルギーを使ってるんだろう。そのサバイバルするための脳の働きのために、沢山の競争や敵を作り出して、日々押し出されるように生きてるんだなあ、と思う。ほんと、毎日瞑想し続けて生きられたらよっぽど楽だな。

 アナディも、そして多くの生徒たちもすでに一ヶ月以上の瞑想を続けているせいか、場のエネルギーも前回よりずっとインテンスに感じる。レクチャーのないサイレンスの時間も多く、彼のシャキーンとクリアで透明なエネルギーがホールの中に霧のように浸透していた。しかしクリアであっても、冷たい訳ではなく、底の方に愛に溢れた暖かさがあった。
 時々、ただこの場で共に座っているだけで充分で幸せ、という喜びが奥底から湧き上がってきた。彼のレクチャーは相変わらずよく分からない。その時その時、彼に降りてきたことを語っているのだろうか、ティーチングがどんどんアップデートされていくので、新しい用語についていけないのだ。
 「エネルギー的な成熟というものは、ゆっくり年々進んでいくものだ。終わる事がない。10年経っても進歩して行く。」ある日彼はそう言ったが、確かに今回のリトリートは大きな衝撃は少ないが、その代わりエネルギーの精妙な質を感じられるようになっていた。でもまだまだ、ずっと先は長いのだ。アーサナだって呼吸だって、何年たっても、いつも新たな発見があるのだから。
 ある夜、ほんの少しの間、完全に思考が途絶えて、真っ暗闇の中に自分だけがそこにいるという感覚に包まれた。それは未だかつてない、凍りつくような真っ暗闇だった。その闇をじっと見つめている自分がいる。そして闇がどんどん狭まっていって、耳鳴りがキーンとして、「怖い」と思った瞬間に跳ね返された。あ〜あ、このまま音のない世界に落ちて行きそうだったけど、落ちないんだなこれが。まだエネルギーが練れてないってことね。

 リトリートの間中も寒かったこともあり、ずっと体調は良くなかった。歯も痛いし、耳鳴りもしていて、目が腫れぼったい。けれど周りに沢山の人がいるせいか、ネガティブな感情に巻き込まれることはなく、基本的にはいつも満ち足りていた。
 心が静かでくつろいでいる時、私はよく自分の深みに問いかけた。私が本当に望んでいることは何なのか?これからどうしたらいいのか?
 「日本に帰ろうよ。」とある日心の中の声は言った。「日本に帰って働くんだよ。次はここの40日リトリートやりたいでしょう?お金だって装備だって必要だよ。インドに居たってお金たまらないよ。だから日本に帰らなくちゃ、もうインドをウロウロする理由ないでしょ?」
 まさに正論だ。その声を聞いた時、全くその通りだ、と納得するしかなかったが、瞬時に私は抵抗していた。
「いますぐ帰らなくてもいい、せっかくビザも取ったんだし、あと半年旅を続けようよ。」
 よく魂の声に従うとか、ハートの声に従うとか言うが、それは口でいうほど簡単じゃない。エゴはいつも自分を騙す。エゴはいつもこっちが本当の声だ、とささやく。表面的に「やりたい」と感じることが魂が望むこととは限らない。何が本当に魂が望む事なのか、それを聞き分ける明晰さを育てることは、自分の心を深く知るプロセスでもある。
 明晰さとは徹底的に正直になること、自分に対するごまかしがないということ。瞑想を続けていくと、だんだん自分の心がいかに自分を騙すかということが痛いほどわかってくる。その底にはいつも恐怖が横たわっている。恐怖は本当のことを見ないように目隠しをするのだ。
 まさにこの時も私は「旅を続けよう!」という声の方がハートの声に違いないと勘違いしていた。なぜならその声は「もう帰ろう」という声よりもずっと、はっきりして大きかったからだ。

 これといった変化もなく、10日間はあっという間に過ぎてしまった。アナディから出された課題は何となく出来てきた感じはあったが、問題はここを出てからも、いかに注意を保つかということだ。
 今回は私以外の生徒はみな長期間の参加で、まだまだこれからと言う時に自分だけが去るのが名残惜しくて仕方ない。しかし、今回はここまでだ、お金もないし、この寒さの中で40日瞑想して過ごすのは装備も体力もなかった。
 最後の日の夜、再びアナディとのミーティングがあった。
瞑想中に起こった疑問や彼の使う用語の確認しつつとりとめもなく30分ほど会話をした。
「とにかくPure Me を100%保てるように練習すること。何かわからないことがあったら、遠慮しないでメールしなさい。」
 果たして一体いつになったら、自分自身への純粋な注意を失わないで、日々を生活できるようになるか予測もつかなかったが、それでも彼が教えてくれたことは、私にとって重大なターニングポイントになった。自分自身と深く共にあるということ、自分とは単なる「エゴ」ではなく、もっとそれ以上の何かだということ。自分自身である事なくして、魂の成長はありえないのだということ。
「あなたには本当に感謝しています。この長いインドの旅の中で「Me(私)」に出会えたことは私にとって宝です。それまで私はずっと「私はいない」という場所に行こうと必死になっていましたから。」
「本当にそう思うかい?それは良かった。」
彼が急に表情を崩し、とても嬉しそうな顔をしたのが印象的だった。本当にグルっぽくない気取らない人だ。必ず再びここに来る事を約束し、ミーティング・ルームを後にした。

 翌早朝、タクシーが迎えに来て駅へ向かい、デリー行きの列車に乗る。リトリートの後で、本当は少し静かにしていたかったが、その後の日程はやけに慌ただしかった。デリーに二日滞在してから、オリッサ州の聖地プリーに向かう。そこでヨガのTTCの通訳ボランティアの仕事を紹介されており、話を聞きに行く予定だった。その後はインド最南端のカンニャクマリへ。1月30日にジョシーの70歳の誕生日があるのだ。
 ここ数ヶ月南から北を行ったり来たりしている。さすがに移動続きで体がしんどい。でも、あともうひと頑張り。南インドに着いたらのんびりできだろう。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?