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インド 瞑想を巡る旅 5

ヒマラヤの尼僧院

尼僧院に誘われて

 ダンスリトリートの後、車でさらに山を1時間ほど登り、ダライ・ラマ14世の指揮するチベット亡命政権があるダラム・サラまでやってきた。OSHOアシュラムのあるカングラはそれなりに暑くて、昼間は川で泳げるほどだったけれど、ここまでくるとすっかり山の空気。日中はサンダル半袖でOKでも夜になると靴下上着は必須。他のインドでは酷暑期に突入する5月、暑さをしのいでたくさんの旅人がダラムサラに押し寄せてきていた。
 ダラムサラはチベット亡命政府のあるマクロード・ガンジ、ヴィパッサナーの瞑想センターなどがあるダラムコット、最近開発されつつあるバグスとおもに三つのエリアに分かれている。今回は友人と落ち合うためにバグスに泊まった。そこはクリシュナというヨギとそのパートナーが経営している宿で、いかにも旅人が集う安宿という趣。山の斜面沿いの小道には、小洒落たカフェやレストランがいくらでもあり、人気の店はいつも人でいっぱい。席に座っていると、長期滞在の旅行者がヨガやレイキのセッションのチラシを置いていく。久しぶりに来る、インドのツーリストプレイス。
 ダラムサラはチベット人のセンスが繊細なのか、リシュケシュなんかに比べてレストランの内装もおしゃれだし料理もおいしくて、コストパフォーマンスが高い。おいしい中華料理が普通に食べられるのもうれしかった。ケーララではずっとインド料理で通していて問題はなかったが、北インドは何が違うのかやっぱり体に合わなくて、リシュケシュで一度お腹を壊して以来、あまり受け付けなくなっていた。だからダラムサラではほとんどカレーを食べずに過ごした。

 宿のオーナー、クリシュナはいかにもツーリストプレイスにいそうな、ピースフルで調子の良いヨギで、いつもキッチンで旅人たちとおしゃべりして過ごしていた。女性の旅行者が来ると、愛想よく思わせぶりにスピリチュアルな事を言う。インドを長く旅していると、外国人が抱くインドのスピリチュアルな幻想にうまく便乗して、悪気はなくとも旅行者をカモにしようとするツーリスト・ヨギにはたくさん出会ってきた。実際に痛い目に遭ったこともある。だから私はクリシュナもそんなヨギの一人だろうと思って、距離を置いて接していた。
 彼は朝夕にヨガのセッションを行なっていて、外国人たちが熱心に通ってきていた。私も試しに一度レッスンを受けることにした。内容はごく基本的なハタヨガだったが、クリシュナはあまり指導せず、古い生徒がもっぱらアーサナを実演して見せてくれた。そしてレッスンが終わった後彼は言った。「あなたは身体よりも心を何とかしなさい。」一体どこを見て彼がそう言ったのか分からなかったけど、今の自分の不安定さを見透かされたようで、ギクリとした。へらへらしているようでも、やっぱりヨギはヨギ、見てるところは見てるのだ。 

 そんな何気ない言葉が深く胸に刺さり、私は旅人たちの喧騒を離れて私はどこかで静かに過ごしたくなった。おいしいコーヒーやケーキが食べられる毎日も、1週間経つと飽きくる。別にケーキ食べにここまで来たわけじゃないし。リシュケシュや OSHOアシュラムでダラムサラに行くならTUSHITAという仏教センターに行くといいよと勧められていたので、行ってみることにした。毎朝9時に瞑想のクラスがあるらしい。TUSHITAはダラムコットエリアの山の上にあり、泊まっている場所からはひたすら急な山道を30分以上登り続ける。標高も高いから息切れがして、着く頃にはフラフラ。リシュケシュ以上にオートがないので、移動はほとんど歩きになる。平地で暑い南インドでは、ほんのちょっとの距離でもオートに乗ってたので、歩く習慣がすっかりなくなっていた。これは足腰が鍛えられそうだ。
 TUSHITAは針葉樹の森の中にあり、周囲の喧騒から隔絶されて、瞑想するには最高の場所だった。瞑想のクラスは100人近い人でホールはほぼ満員。瞑想は1時間のガイド瞑想で、サイレンスで座る瞑想に慣れていた私にはちょっと意外な感じがした。初めの日の男性の誘導はけっこう良かったが、翌日の若い女性の誘導は早口すぎてほとんど聞き取れなかった。ガイドが聞き取れないと単なる騒音になって、逆にイライラした。
  TUSHITAでは外国人向けの仏教講座やリトリートを行なっていて、かなり専門的なコースもあるようだったが、まずは必ず10日間のチベット仏教初級講座を受けてからでないと中級以上の講座には進めないらしい。窓口に問い合わせてみると、5月の講座はすでに満席ですといわれた。
 他にどこかで、静かに瞑想できないかな....そう思いながら掲示板を見ていると、トサムリンという尼僧院で3日間のサマタ瞑想コースの告知が目についた。メールしてみるとすぐに空きがあると返事が来たので、参加することにした。場所はマクロード・ガンジから車で1時間ほど山を下った、畑のど真ん中。車が入れるのは途中までで、あとは15分くらい畑の真ん中の細路を荷物を抱えて歩いて向かう。この尼僧院は非チベット圏の出家者を受け入れているという。そこで学んでいるのはほとんどが西洋人の女性たちだった。
 畑に囲まれたこじんまりした尼僧院は、静かで優しい空気に包まれいた。部屋も綺麗だし、食事も西洋料理とインド料理が半々で、毎朝尼僧院で焼いているという焼きたてパンとおいしいピーナッツバターが出て来た。おやつのためのケーキも近くのカフェから運ばれてショーケースに並んでいる。
食堂の奥には出家者専用のスペースがあり、マルーンカラーの僧衣を身につけ、頭を丸めた西洋人の尼僧たちが静かに食事をしていた。訪問者が彼女たちに話しかけることは、禁じられていた。
 
 サマタ瞑想というのは心を呼吸なども特定の対象に結びつけ、静めていく瞑想法で、初心者にも入りやすい基本の瞑想法だ。講師はアメリカ人の女性、早口でよく喋る。瞑想といえばとにかく黙って座れ的なイメージがあった私だが、丁寧な誘導が瞑想時間の半分以上入り(でも、早口だから聞き取れずに困った...)初心者でも無理なく座れるように、時間も小刻みに区切ってくれる。Insight timer という瞑想用のタイマーアプリがあることも、ここで初めて知った。漢字ばかりで小難しいイメージの仏教用語や哲学を英語で解説されると、不思議とすとんと新鮮に入ってくる。
 ヨガの八支則では瞑想は第7段階のディヤーナにあたり、アーサナやプラーナヤマーなど体の準備ができてからやるもの、という若干高尚なものと捉えられがちだ。でも、この講座に参加していると、アーサナで日々体の状態に気がつきながら、そのポテンシャルを高めてゆくのと同じで、瞑想で日々心に向き合い少しづつ整えていきましょうというシンプルな姿勢に、瞑想に対する肩肘張った思いが落ちた。

 講座の最終日、先生が憧れのこもった口調で、西洋人女性で初めてチベット仏教徒として出家したテンジン・パルモという女性について語ってくれた。テンジン・パルモは1943年にロンドンに生まれ、20代のはじめに渡印して出家し、その後33歳から45歳までの12年間を、ヒマラヤの洞窟に篭って一人修行を続けたという。その時の生活を綴った「Cave in the Snow」という本は世界中で翻訳され、(日本では未翻訳)チベット仏教を学ぶ人々にとってはカリスマ的な存在らしい。「幸いなことに、テンジン・パルモの尼僧院はここから1時間ほどの場所にあるのよ。今はワールドツアーから戻ってきてるので会えるわよ。」と最後に先生は付け加えた。世の中にはすごい人がいるものだなあ、と感心しただけでをの時は過ぎたのだが、リトリートの終了した翌朝、ご飯を食べていると隣に座ったベルギー人の女の子に「このあと、テンジンパルモの尼僧院に行こうと思ってるんだけど、行かない?」と誘われ、それならばとついて行くことにした。

注目すべき聖者たちとの出会い

 Dongyu Gatsal Ling (略してDGL)尼僧院は、尼僧たちの地位向上のためにテンジンパルモが世界中で公演して、集めた資金で17年かけて建てられたという。尼僧院というよりは大学のようで、雪をかぶったヒマラヤが見渡せる広々とした敷地の中に、テンプルや瞑想室、宿舎やカフェなどが併設されていた。なんともいい気が流れてきて、私はすっかりこの場所が気に入ってしまった。
 夕方4時になると彼女と話ができるというので待つことにした。テンジン・パルモは小柄で真の強そうな美しい女性だった。驚いたように見開かれた大きな青い目が印象的だった。彼女はプラクティスの大切さ、そして日々の生活の中でいかに気づきを失わずに、マインドフルでいられるかなどを話しながら、最後に付け加えた。「西洋人はなんでも真面目にやり過ぎね、完璧な瞑想者になろうとしてしまう。本当にピュアで分離のない気づきを認識したら、全てがシフトチェンジします。私たちはその気づきの中で、ただリラックスしてくつろげばいいのよ。羽の生えた鳥のように、オープンに。テンションもジャッジメントもなくね。」
 彼女の口から、アドヴァイダの先生たちと同じセリフを聞くとは思わなかった。チベット仏教といえば、厳しい修行が必須と思っていたので、意外だった。あとで調べて見ると、ニンマ派のゾクチェンやカギュ派のマハームドラーの教えは、アドヴァイダと似たところがあるらしい。むしろアドヴァイダ自体が仏教の影響を強く受けているとも言われる。
 それで思わず私は彼女に尋ねてしまった。「もしそのピュアな気づきを認識したら、修行は必要ないのですか?」
「そうね、すぐにその気づきを認識できる人もいるでしょう、でもそれは稀なケースよ、きっと前世ですでに修行をしていたのでしょう。でも普通はそう簡単にはいかないわ、だからプラクティスが必要なのよ。」
 つい一昨日までテンジン・パルモという人など全く知らずにいたのに、いきなり本人に会って話をしているなんて、旅ならではのミラクルだ。
 
 DGL尼僧院の静かでクリアーな気に心惹かれて、ダラムサラに置いてあった荷物を取って、すぐにこの尼僧院へ戻ることにした。ダラムサラ最後の1週間をここで過ごそうと思ったのだった。荷物を置いてあったクリシュナのゲストハウスに戻ると、彼は言った。「うん、大分落ち着いたね。」私は予定を変更して残りの日々を尼僧院で過ごすことにしたと告げると、彼は「それはいいことだよ、瞑想してきなさい。」と答えた。尼僧院にはターラゲストハウスと名づけられた宿泊棟があり、外部のゲストも最長1週間まで泊まることができた。一泊900ルピーのシャワー付きの部屋は、かなり広々してきれいだった。ソファも机もある。キッチンとサロンが二階にあって、頼めば尼僧たちと同じ食事が食べられた。これがかなり質素なので正直驚いたのだが...
 毎日食事のたびに顔を合わせるので、宿泊者たちと自然と仲良くなった。そこに泊まっている人々は、やはりチベット仏教を学んでいる人々だった。ダラムサラではたくさんの外国人の僧侶や尼僧を目にした。出家していなくても特定のラマについて深く学んでいる人も多かった。これほどまでにチベット仏教がワールドワイドに広まっているとは正直驚いた。
 そんな外国人に混じって、ヒンドゥー教徒のインド人家族が泊まっていた。彼らはこの近くに先祖からの土地を持っていて、近々家を建てて移住する予定なんだという。毎年休暇にはこの尼僧院に泊まりながら、親戚の家を訪れているんだそうだ。

 ある日彼らが今日は自分たちのグルジに会いに行くという、なんでも彼はすでに130歳を超えているんだとか。興味を持った私は一緒に連れて行ってくれと頼み、タクシーをチャーターして彼らの後ろからついて行った。尼僧院から1時間ほどの場所の山の中に彼のアシュラムがあった。驚いたのは、インド人の家族は大量の贈り物を用意していたことだ。車のトランクにはお米や野菜、果物なぜか洗剤類まで山と積まれていた。それらを抱えて参道のような細い道を上がると、小さなホールがありそこにグルジが鎮座していた。男女別々の席に別れ、10人ほどの信者がいる。西洋人も。グルジは130歳を超えているというだけあり、身体を動かすのも大変そうで、手も小刻みに震えている。彼の前で礼拝し、ドネーションを渡すと、代わりにプラサード(お供え物のお下がり)として甘いお菓子が返って来る。インド人家族は山のようなお供え物を一つ一つ説明しながら彼の前に捧げ、最後に2000ルピー札数枚を乗せた。
 グルジは何も話さず、ただ信者や弟子は彼の存在のエネルギーを受け取る。小一時間して午前中のダルシャンは終わりと言われた。しかし、ダルシャンを終えて、インド人家族の特に旦那さんはえらい興奮している。そして後に聞けば、彼の名はスワミ・ヴィシュダナンダ・サラスワティ。なんと近代インドが誇る聖人、ラーマ・クリシュナに師事し、ラーマクリシュナの死後は彼の妻であるサラーダ・デヴィの直弟子として学んだらしい。そして40年ほど前にこの地にカーリー女神の光を見て、以来ここに住み着いているのだそうだ。なんと、そんなすごいこと早く言ってよ!
 スワミ・ヴィシュダナンダは午後から弟子のためだけにディクシャを行うとのこと、新参者は参加できないと言われたので一緒に来たチベット仏教徒のカナダ人とともに先にタクシーで帰ることにした。

人は誰でも死ぬのです

 道すがら、高台に大きな僧院が見えた。ドライバーは「あそこはタシジョン僧院というんだよ。」というと、カナダ人が興奮したように、「え、あれがそうなんだ!僕はずっと昔から名前だけはよく聞いていたんだ、密教の僧院として有名なんだよ。行ってみようよ。」
 この僧院はトクデンと呼ばれるチベット密教行者たちが、長期間の隠遁修行をする場として有名なのだとか。テンジン・パルモの師であった8代目のカムトゥルル・リンポチェの生まれ変わりである、9代目のカムトゥルル・リンポチェを総長とし、テンジン・パルモも尼僧院を作るまではここで生活していたらしい。
 僧院を歩くと、山の上に向かう道にはここから先は、修行場なので立ち入り禁止という看板がある。行者たちは10年以上隠遁修行を続け、生涯ほとんど人前に出ることがない者もいるとか。
 カナダ人はチベット語が話せたので、ここに住む僧の一人が親切に色々案内してくれる。山の一角に小ぎれいな屋敷があり、一番上の階に修行者の一人のミイラが安置されているといって見せてくれた。
 正直このころはチベット仏教のことは全く門外漢だったので、よく分からないまま説明を聞くばかりだった。ミイラの他に、小さな丸い石ころのようなものも陳列されていて。それは修行で高い境地に達したヨギが亡くなると、遺体からそうした石が現れるらしい。
 案内してくれた僧によると、そうした隠遁行者の一人が毎朝お茶のために山から降りて来て、その時だけは人に会いダルシャンをしてくれるとか。
 というわけで翌朝もこのタシジョン僧院を訪れることにした。しかし実際に行ってみると案内されたのはその隠遁行者ではなくて、ここの僧院の総長9代目のカムトルル・リンポチェの部屋だった。

 リンポチェはまだ30代後半と若いが、9代続くカムトゥルル・リンポチェの系譜は、なんと1548年まで遡ることができるとのこと。薄暗い部屋の中に、サングラスをかけたまま佇むリンポチェは湖水のような静けさをたたえていた。前日に会ったスワミ・ヴィシュダナンダとは違って、彼は私たちの身近な悩みに耳を傾けてくれた。
 カナダ人は最近父親を亡くしたばかりで、私は敬愛しているヨガの師匠の健康が悪化していることに心を痛めていた。彼は私たちの話を聞くと静かに「その人がどんな風に死ぬかはカルマによりますが、人は誰でも死ぬんですよ。」とごく当たり前のことを言った。
「それでも、自分の敬愛する人が痛みや不自由の中にいるのを見ているのが辛いのです。」と私が答えると、「私たちは人間ですから、感情があります、苦しんだり喜んだりアップダウンします。それもまた自然のことで、あなたはそれを受け入れるしかないのですよ。」「でも、どうしても耐えられない時はどうしたらいいのでしょう。」「その時こそ瞑想してください。」
 そしてカナダ人が父親の再婚相手とのトラブルを相談すると「彼女はブッダではありません。何も知らないから間違いを犯すのです。」と答えた。
 彼はしばらく私たちの話を聞いた後、「もう、そろそろいいですか?」と話を終えた。
 私はとっさに「偉いリンポチェというから、もっと特別なことを言ってくれると思ったけど、これだけ?」と肩透かしをくらったが、同時に彼のその当たり前の言葉がすとんと深くに沁みて来た。
 私の心は二つのことに抵抗していた。死と悲しみに対して。しかし人は必ず死に、人間である以上感情はあるのだ。そのリアリティにその抵抗することが、自分を辛くさせていたのだ。リンポチェの言う言葉は当たり前すぎたが、彼の存在の深みなのか、その当たり前のことに抵抗している自分に気がつき、心が静まり不思議と楽になった。
 

 その後、僧院を散歩していると、今度はお茶の時間に一休みしている行者に出会った。チベット語を話せるカナダ人が普段どんな修行ををしているのか、と尋ねると「いやあ、お茶飲んでご飯を食べてるだけさ」などと謙遜しつつ、話し始めると10数年に渡ってほぼ一日中密教修行を続けているらしかった。どんなプラクティスをしてるんですか?と聞くと「ナローパの6つのヨガとか、基本的なものさ。」と言う。
 私たちが再び自分たちの心の悩みを話し始めると彼も言った、「世界の中で自分だけが大切な人亡くすと考えているとしたら、随分馬鹿げたことじゃないか?でも、そういう時こそプラクティスを始めるチャンスなんだよ。そして辛い時に励まし合い、心の内を話し合う友が必要なんだ。」彼は私たちにお茶とビスケットをふるまってくれ、最後に「頑張りなさい、祈っているから。」と別れを告げた。
 
 短い間に立て続けに印象的な出会いが起こった。
 つい最近になってDGL尼僧院で購入したテンジン・パルモの伝記「Cave In The Snow」を読み始めると、それらがどんなに幸運な出会いだったか、本当に遅ればせながら実感した。「Cave In The Snow」に書かれた物語は強烈で、私は完全に本の中に引き込まれてしまった。こんなにすごい人に何も知らずに会ってたなんて!しかもヌケヌケと「修行は必要なんですか?」なんてとんでもないことを聞いていた。
 彼女の悟りへの熱意、修行への真摯さは、生半可なものではなかった。20台前半で、西洋人女性としてはじめて出家したテンジン・パルモは、チベット仏教界のジェンダーの格差に悩まされた。当時尼僧は高度な聖典に触れる機会はなく、キッチンで働くなど、男性僧よりも一段下の扱いだった。尼僧たちの自己評価は低く、女性であることに傷ついていた。西洋人であるテンジン・パルモは別格扱いだったが、ラマたちは彼女とどう接していいか分からず、最初の6年間はほとんど何も学べずに過ごしたらしい。その時に彼女は、たとえ何代かかろうとも私は女性としてエンライトしようと、と誓いを立てる。
 やがて彼女はトクデンと呼ばれる密教行者たちの存在を知る。彼らはエリート修行者とも言える集団で、剃髪はせずサドゥーのようにドレッドヘアーを伸ばしたままにしている。幼い頃にその才能を見出され、隠遁し密教のプラクティスを集中して行う。彼らは僧たちよりも自由なスピリットを持ち、テンジン・パルモにもジェンダーの差別なく接してくれた。伝統的にトクデンにはトクデンマと呼ばれる女性の密教行者も存在した。彼女たちはやはり集団で隠遁修行をし、彼女たちがその長い髪を振り回して舞を踊るときは、男性は後ろで見ていることしか許されなかったという。彼女はドクデンマの存在に魅了され、グルであるカムトゥルル・リンポチェに「私はトクデンマになります。」と告げた。リンポチェは「トクデンマの伝統はすっかり途絶えてしまって、今はもう一人も残っていない。あなたがそれを復活させてくれれば。」と答えた。

 そこで彼女は僧院を出て、ヒマラヤの奥へと向かい、ラフール地方にある隔絶した環境にある小さな僧院へ移動し、隠遁修行を始めたが、数年後さらに完全なる静寂を求めて、山を登り洞窟の中で暮らし始める。そこは周囲に住む人もいなく、年間八ヶ月は雪に閉ざされるという完璧に孤立した環境であった。彼女はその洞窟を住まいとし12年間暮らし続けた。庭先でジャガイモや蕪を育て、年に数回僧院から届けられる食料でしのぐ。洞窟は小さく、夜も座ったまま瞑想をした状態で過ごす。
 特に12年のうち最後の3年間は完全に誰にも会わないという、特に厳しい隠遁行を行った。この隠遁行の際には病気でも洞窟から出ることは許されない。もしも死んでしまったとしてもそれはおめでたいことだと称えられた。彼女はある時ひどい眼病にかかり痛みで目が開かなくなった。目が開けられなければ料理もできない、瞑想もできない(チベット仏教の瞑想はわずかに目を開いて行う)。彼女はただ静かに痛みを観察し続けたという。痛みは49日間続き、やがて去っていった。
 そうした厳しい隠遁行は、或る日突然警察官の激しいノックで終りを告げる。彼女のビザに不備があるとかで、一ヶ月以内にインドを立ち去る事を命じられる。通常一ヶ月程度のサイレント修行でも、終了後は社会との接触に馴染むために、しばらくのクッション期間を必要とする。しかしテンジン・パルモは12年の修行を突然破られ、いきなり社会の喧騒と雑事の中に放り投げられてしまう。しかしそんな状況にあっても、彼女は全くひるむ事がない。
 ともかく強靭な精神力にただただ驚くばかりで、これを読んでいると「プラクティスはエゴを強化させる」なんて言葉が薄っぺらく感じてしまう。果たしてそこまでしないと人はエンライトできないのか、それとも本当に「何もせず静かにただそのままでいること。」でOKなのか。悟りの遠くにいる私にはそれは不思議な謎だった。

 しかしDGL尼僧院での数日間以来、私の中で何かが変わった。以前よりジョシーの状態について冷静に受け止められるようになったし、腹の中でグルグル渦巻いていた怒りや悲しみが、すうっと落ちていった。今でも感情的にスタックするとあの時のリンポチェの言葉を思い出す。
 何か新しい風が胸の中に入り込んで来た気がした。それが私をどこへ連れて行くのか、まだ分からないけれど。

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