見出し画像

インド 瞑想を巡る旅6

瞑想の中で迷走する

ステート・オブ・プレゼンス

 ダラムサラを訪れるまでは、チベット仏教にはほとんど興味がなかった。昔中沢新一の著作を夢中で読んだこともあったが、そのミステリアスな修行法は自分には無縁のものだと思っていた。そもそも伝統的な宗教という枠組みに今更はまるつもりもなかった。
 しかし意外なことにそこには、明確に瞑想とは何か、なぜ必要かを説明し、初心者に向けて、丁寧に瞑想を教えてくれる場があった。あなたは瞑想なんてまだ早いなんて言わない。心は世界を見るベースになるのだから、その心のありようを変えていくことが何より大切だと先生たちは言った、10分でも15分でもいいから座る習慣をつけなさい、と。
 心をどう扱うかというテーマに何千年と取り組んでいる深い伝統と豊かなメソッドがあり、そしてチベット仏教を学びに来ている外国人の多さにも驚いたのだった。西洋人の僧や尼僧たちが町を歩いている。ユニヴァーサルなスピリチュアルティーチングとしての仏教が育まれているのは、新鮮な驚きだった。
 全く思いがけず、私はその世界に魅了され、もう少し突っ込んで学んでみたいと思った。しかし間口は広いがそこは伝統的な宗教世界、きちんと修行するには、仏教に帰依する必要があったし、特定のラマについてイニシエーションも必要らしかった。当然経典も学ぶ必要があり、浄化のためにマントラを何万回と唱えなくてなならないとか。ようするに、今までサットサンで繰り返し聞かされて来た、プラクティスは必要ないということの真逆の、厳しいザ・修行の世界が広がっていた。

 修行は必要ないのか山ほどの修行が必要なのか、それはどちらも極端すぎるように思えた。多くのサットサンの中で、ジョンの言葉とエネルギーは中でも一番心に響いたが、彼の言うことは初心者の私には難解なことも多く、ただだまってそばにいるだけでは何かが変わるとは思えない。やっぱり多少のdoingは必要な気がした。
 だからとって、難解な経典を読んだり、何年も山籠りする、それはそれで遠回りのようにも思った。ようするに相変わらずどっちつかずの私であった。
 そんな折に忘れかけたいたアナディの存在に、意外なところで出会ったのだった。縁は本当にすぐ近くにあった。
 ジョシーの古くからのお弟子さんである、ヨガ友のMさんが、実はアジズ時代の本を翻訳した萩原智子さんから瞑想を学んでいたのだった。Mさんが女性の先生から瞑想を学んでいることは知っていたが、まさか萩原さんとは。実は彼女のWEBサイトは以前にもチェックしていて、連絡を取ってみようか迷っていたこともあった。全てはどこかで繋がりあっている。世界は本当に狭いのだ。
 ちょうどビザの取り直しに日本帰国しなければならなかったので、Mさんにお願いして伊豆の萩原さんの自宅にお伺いできることになった。

 アナディのメソッドで一番知られているのは「ステート・オブ・プレゼンス」という概念を打ち立てたこと。それは意識の中心の場で、「ゾクチェンにおいてはリグパと呼ばれ、禅においてはクリアマインド(無心)と呼ばれている。」とアナディはフーマンとの共著「エンライトメント」中で書いている。(以下引用は全て同著作より)
 通常の瞑想法、仏教でもヨガの瞑想でもそうだが、呼吸や身体の感覚、思考に意識を向けたり、チャクラを観想したり、マントラを唱えたりする。それらは全て自分の外側の特定の対象に意識を向ける技法だ。あちこち飛び回るマインドのおしゃべりを、特定の対象に集中することで静め、気づきを確立し、常に今ここにとどまれるようにする。

 もう一つ別のアプローチがある、これはラマナ・マハリシやニサルガダッタ・マハラジ、そしてアドヴァイダ系の先生が説く方法で、気づきを外側の何かではなく、気づいている主体そのものに向ける。
 ラマナ・マハリシの説いた有名な「私は誰か?」という問いかけは、気づいている主体そのものに意識向けさせる問いかけである。
 同様に「ステート・オブ・プレゼンス」でも、外側の対象物でなく、観察している注意そのものに、意識を向ける。注意の向きをくるっと内側に変えて、自分自身へと向けるのだ。「その時人は体験のゼロ地点で自分自身を見つける。」

気づいている私は誰か

 「私は誰か」という、私の根源に至るための有名な問いかけは、しかしそこへ、どうやって踏み込み、その先へどう進むのかという具体的な地図は描かれていない。それをクリアに「ステート・オブ・プレゼンス」という概念で解説したのがアジズとフーマンの天才的な功績を言われている。
 「注意深さには二つの側面がある。対象に注意深くあることと、センターに注意深くあることだ。センターへの注意深さが、当然ながら私たちのゴールだ。瞑想のために何が選ばれたとしても、それはただの道具にすぎない。呼吸であろうと、マインド、身体、あるいはフィーリングであろうと、対象への瞑想はどんなものであれ半瞑想、もしくはネガティブな瞑想と言うとことができる。なぜ「ネガティブ」かというと、それは対象に関係していて、主体にではないからだ。対象物は、全て「過去」に属している。「今」に属している知覚以前の状態は、主体だけなのだ。」

「マインドを超えるために、私たちはまず注意の側面を目覚めさせなければならない。それは、マインドの中で意識的になるための種だ。この注意は、マインドの中で作り出され、それによってそのマインド自体の無意識的で機械的な側面が超えられて行く。自己を認識する注意が「知覚されたもの」から分離してとらえられた時、ステート・オブ・プレゼンスが生じる。注意を養う目的は、このプレゼンスを統合し、安定化させることだ。すると、それは最終的に、心理的自己のバックグラウンドに常にある、確固とした気づきのセンターになる。」

 またさらに、彼らは「悟り」を、仏教的な「無の境地」とキリスト教的な「ハートの悟り」を人間が到達しうる一つの真理の二つの側面だと述べている。「全てが無」だけでもなく「全てが神」だけでもない。その両方に開かれること。それが人間が探求する「ホールネス(全一性)」への旅路であると。
 彼らの著作は難解だが、注意深く読むととてもバランスが取れていてる。伝統をリスペクトしつつ、新しい時代の精神の中で、古く不要になったものを大胆に取り外し、より研ぎ澄まされた形に再構築しているように感じた。もちろん読んでも不可解な箇所も多く、その人の成熟度で、書かれていることへの理解も変化していくのだろう。

 Mさんに萩原さんの家を訪れる手配を整えてもらい、伊豆の山の中にある素敵なおうちに伺ったのは去年の6月。彼女はパートナーの稔さんとともに、瞑想のセッションやリトリートを行なっていた。
 彼らはアジズがフーマンとともに日本でWSを行なっていた頃、ずっと彼らの生徒だったという。萩原さんはそれまで10年ほど密教のプラクティスを続けていたが、何かもの足りない気持ちでいた。それが彼らと出会うことで、内側の渇きが満たされ、夢中になって彼らから学んできたと説明してくれた。そのティーチングのひとつひとつが宝石のように貴重で、それをシェアするために書籍の翻訳も手がけることにしたそうだ。

 しかし彼らも、二人が日本でWSを行わなくなってからは、独学で今まで学んだことを深めて行くしかなく、フーマンが亡くなり、アジズが隠遁してしまったのでそれからはあまりコンタクトが途絶え、アナディになってからの事情にはあまり詳しくないようだった。
 とはいえ日本語で瞑想についての様々な質問ができるのはほとんど初めてのことで、私はうれしくてたまらなかった。インドでのサットサンでは英語の講話についていくのが精一杯で、質問しようかと考えているうちにどんどん話が進んでしまう。話の内容も分かったつもりでいてもどこまで正しいかは甚だ怪しい。
 気がつくと徹夜で話をしていて、たくさんの貴重なことを伺い、初歩的なプラクティス方法も教わった。
 帰り際智子さんに言われた。「フーマンは亡くなってしまったけど、アナディはまだ生きているわ。深い境地に達した人と一緒に座るのは、それだけで貴重な経験よ。話が分からなくても十分価値があると思うわ。」

 萩原さんのお宅を後にし、その数日後には再び私はインドへ戻った。思わぬところからアナディとの繋がりが生まれたが、それでもまだリトリートに参加するふんぎりがつかなかた。アナディのメソッドは難解で、英語についていけるか自信がなく、何よりも経済的な事情もあった。
 インドではゴエンカ氏のヴィパッサナー10日間瞑想をはじめとする、いくつかの瞑想リトリートに参加することができたが、宗教法人が主宰するリトリートはドネーションで価格は非常に安かった。しかしアナディのリトリートは個人で運営されているし、彼はヨーロピアンだから、それなりのお値段で、ちょっと躊躇してしまったのだ。

 とりあえず、リトリートは11月からで、参加を決めるまでには時間もある、私は再びダラムサラ向かうことにした、5月に満席だったTUSHITAという瞑想センターでの仏教瞑想講座に参加し、その後のダライ・ラマのパブリックティーチングを聴講するつもりだった。アナディもさることながら、5月の尼僧院での出来事が私の心に深く響いていた。たとえほんの入り口でも、チベット仏教の世界と少し知ってみたいと思ったのだった。なんとってもこちらはドネーション運営で、ほとんど懐は痛まない。

濡れそぼる雨のダラムサラ

 8月のダラムサラは雨季だった。空気はじっとりと冷たく湿り、洗濯物が全く乾かない。山の上にあるTUSHITA瞑想センターはいつもミルク色の霧に覆われていた。ここで行われる10日間の初級者向けの仏教講座には、なんと100人以上の参加者がいた。チベット仏教の関心の高さが窺われる。しかし、日本人は私一人だ。
 部屋は四人のドミトリー。一人部屋もあるが、申し込みの先着順に好きな部屋を選ぶことができる。一ヶ月以上前に申し込んだが、すでに私は後半の方で、選択の余地は全くなかった。部屋にはベッドが4つ置かれているきりで、トイレもシャワーも屋外のものを使う。ルームメイトはイスラエル人の若い二人組とアルゼンチン人の女性。リトリート期間はサイレントなのでこうした情報は後で知ったのだが。
 1日のスケジュールは結構びっしりある。早朝と夜に瞑想の時間、残りは1日6時間ほど講義で、うち1時間のディスカッションタイムがあり、そこだけ話していいことになっている。休憩中にそれぞれに割り当てたれたカルマヨガを行う。(私はトイレ掃除)そんな訳で、部屋には寝に帰るだけ。
 何と言ってもこの瞑想センターも素晴らしく良い気に満ちていた。針葉樹の森の中、いつもあたりはすっぽり霧に囲まれ、よく雨が降った。そんな事情なのでランドリーサービスがしっかり充実していて、いつも下着や靴下まで頼んでいた。手洗いして外に干したら乾くのに何日もかかりそうな天候だった。しかしそうしたくぐもった天気は自然と心が内向きになり、瞑想するにはもってこいだった。
 雨が続き、家にこもりがちな雨季は瞑想の季節だ。このTSHITAでも雨季の季節は上級生徒向けの三ヶ月の長期リトリートが行われていた。彼らは離れの小さな小屋に集団で寝泊まりし、夜以外は外に出ることはないという。

 講座の内容は初心者向けの基本的なものだ。仏教に触れたことのない西洋人たちに
仏教の基本的な概念や歴史を知ってもらう。特に輪廻やカルマの概念を理解してもらうのに苦労していた。講座にはイスラエル人が多く、ディスカッションの時間に「おれのおじいちゃんはホロコーストの経験者なんだよ。小さい頃からずっとその話を聞かされてきたんだ。それがカルマなんだって言われても一体どうすればいいんだ?」とまくしたてる。あるオーストラリア人は「仏教ってクールだから、来てみたんだよ。」と言った。
 カルマとは逆に大乗仏教が大切にする「慈悲」「奉仕」の概念はキリスト教圏の人々にはしっくりくるようで、瞑想などの修行に重きを置くのではなく、日々の生活の中で他者に対する慈悲や慈愛の心を育んでいくことの大切さを、かなり強調して教えていた。悟りの本当の目的はこの世の全ての生き物を救うため、それが菩提心である。本当の覚者は輪廻を超えた後も、他の生き物を救うために何度も何度も生まれ変わってくるのだと。
 チベット仏教はミスティカルな修行法が多ので、自分のためでなく他者のために悟る、という利他心を大前提をすることが、修行によってエゴが肥大化してしまうストッパーになっているのかもしれないと感じた。

 毎日の瞑想は集中力を養うサマタ瞑想とともに、学んだことを深く洞察していく誘導瞑想が行われた。ただサイレントで座る瞑想に慣れていた私は最初落ち着かなかったが、確かい誘導があることで退屈しないし、時には深いところまでいくことができた。チベット仏教の学びでは、最初はただ器を空っぽにして真摯に学び、次にそれをしっかり洞察し、確かな自分の智慧とするステップが踏まれる。
 以前尼僧院に滞在していた時も、小さな尼僧たちが廊下に出てディベートを行なっていた。瞑想はただ集中するだけでなく、学びを自らの血肉にしてゆく場でもあった。
 毎日誘導をしてくれるのは、レナート先生という若いドイツ人で、いつも困ったような顔をして、角刈りヘアスタイルにメガネにちょび髭という、とっちゃん坊やのような佇まい。しかし誘導はとてもマジカルだった。彼の声は非常にソフトで低く、滑らかにゆっくりと心の奥に響いてきた。私はすっかり彼のファンになって、毎日の瞑想が楽しみだった。

静かな声

 日々誰とも話さず、静かにただ自分自身と共にいると、だんだん自分にも周りの環境にもセンシティブになっていく。心を煩わされる雑事もないし、イライラさせられる人もいない。向き合うのは自分の心とミルク色に霞んだ森の木々だけだ。五感がだんだんリラックスいていって、感受するものが鮮烈に響いてくる。心が透明になると思いがけないこともやって来る。
 ある日の瞑想でとても印象深い出来事があった。

 それは講座の8日目で、講義が一通り終わった最後の二日だけ、終日瞑想のセッションが行われた。その一コマに内なる智慧と繋がるという誘導瞑想があった。内容は、ガイドに従って、愛と智慧に満ちた友人を自分の家に招く情景をイメージする。そこで友人たちは私をとても大切に扱ってくれて、それぞれが私に何かを語りかけるという内容。
 そこで私は当然ジョシーを招き、親しい友人、別れた夫、色んな人を招いた。彼らは口々に私を元気付けてくれた。「心配するな」とか「リスクを取りなさい」とか「前へ進め」とか...するとそこに年老いた女性が現れた。白髪でメガネをかけて、髪を三つ編みにしていた。それは年老いた自分の姿だと分かった。彼女は私を見つめ、にっこり笑って言ったのだ。
「どうか、自分は一人では生きていけないなんて、思わないで下さいね。」
 
 何かが頭の中でパチンと弾け、涙がどっと流れた。それは人には何気ない言葉かもしれない、けれど私には目が覚めるような静かで強い響きを持っていた。彼女は「一人で生きていける」とも「一人で生きていきなさい」とも言わなかった。ただ「一人では生きていけないと思わないで」と言ったのだった。
 そうなんだ。
 私は一人では生きていけない。そんなに強い人間じゃない。心の底でずっと思い続けてきた。自分は一人ではとても無力だと感じていた。そして何かをする時、いつもその恐れをベースに動いていたのかもしれない、と気がついた。
 一人ぼっちでは私は不十分だ、誰かの助けが、愛情が必要だ。その思いがどんなに自分自身を混乱させ、エネルギーを奪ってきたのかと。でも、その怖れを埋めるために手を伸ばしても、望んだ幸せが手に入る訳でなないと、私はすでに知っていた。
 その声を受け止めた時、とても怖かった、聞かなきゃ良かったとすら思った。なぜなら、一人になることは、途方もない恐怖だったから。私はまだ希望を捨てていなかったのだ。誰かと出会うことでこの孤独感が癒されること、社会的な不安から逃れられることを。でも声はそれに、はっきりノーと言っていた。
 私は動揺した。「私は一人で生きられる。」と認めると、自分は一人で生きていかなければならなくなるかもしれない、考えただけで、身のすくむ抵抗感が湧き上がってきた。
 
 思いがけず深い体験が起こり、初心者向けの仏教講座といえど、とても印象的な10日間だった。そして一度このコースを終了すればこの後はTUSHITAやネパールにある同系列の瞑想センターで行われる中級向けのコースに参加することもできた。特にポカラで毎年11月に一ヶ月間行われる仏教講座はとても人気が高く、内容も充実していたオススメだと言われた。ということで、秋にアナディのリトリートに行くか、引き続きチベット仏教講座を受けるか、私は迷い始めた。
 
 ダラムサラを後にして、次に私はネパールへ向かった。理由はビザのため。これまで、インドのビザは六ヶ月間で何回でも出入国できるマルチプルを取得することができたが、2017年の4月に突如ルールが変わって、半年のマルチプルビザでありながら、下の方に小さく「90日以内に国外へ出国するように」と書かれていた。本当に小さな印刷で、ビザを取得した時、うっかり見落としそうになるくらいだった。
ビザセンターの人に「この記載は一体何なのですか?今まではありませんでしたよね?」と尋ねてみた。「4月から急に変わったのです。」「もし出国しなかったらどうなるんですか?」「こちらもよくわかりません。」と要領を得ない答えが帰ってくる。それでも、書かれている限りは出国しなければなるまい。

 特にネパールへ行く用事もなく、9月後半にはジョシーを迎えて、前述のヨガ友Mさんとケーララでヨガと瞑想のリトリートを行う予定でいたので、出国スタンプのためだけの駆け足ネパール旅行だ。
 ダラムサラから夜行バスでデリーへ戻り、陸路でネパール国境を越えて、国境沿いのブッタ生誕の地、ルンピニーで数日過ごし、カトマンドゥへ抜けて、飛行機を乗り継いで一気にケーララに戻るという強行ルートを取った。

 この頃から、私は何かに駆り立てられるように、ケーララに戻ってはまた北インドへ行き、また南へ帰りと、北から南へインド国内の移動を繰り返すようになった。今思えば、なぜそこまで移動し続ける理由があったのかと思うほどだ。
 この旅を始めた当初は、気に入った場所があれば定住して働きたいと考えていた、実際デリーでしばらくヨガの先生の仕事をしようかとも考えた時期もあった。しかしいつのまにかそれよりも、私は徹底的に自分の内面を見つめてみたいという情熱にかられ始めた。もっともっと深いところまで行きたい。この世界のリアリティを、真実を知りたい...
 そして旅をしながら同時にいつも、崖っぷちを飛んでいるような、高揚感と恐怖を感じていた。「落ちるかも」と思うと本当に落ちていきそうだったから、その前に動く必要があったのだ。移動をしていれば、新しい場所へ向かう準備や期待で、頭をいっぱいにすることができたし、体力も使っていつもへとへとだった。トラブルなく目的地にたどり着けば、それだけでありがたかったから。余計なことを考えずに済んだ。

ブッタの生まれた地へ

 世界遺産に指定されている、ブッタ生誕の地ルンピニーは、遺跡の周囲は大きな公園になっていて、中には世界各国のお寺が点在していた。車は公園の中には入れず、一般のゲストハウスやレストランは公園の外にある。
 ルンピニーに行くなら韓国寺に泊まるといいよ、と旅人から勧められていたので、私はまっすぐそこへ向かった。
 ネパールの国境からタクシーでここまで来たが、よくありがちだが、運転手の他にもう一人男が乗り込んで来て、あれやこれやと話しかけて来る。ホテルは決まってるのかとか、観光客があまり来ない美しい場所があるとか。私はきっぱり、「ルンピニでは韓国寺に泊まるし、瞑想しにきたから放っておいてくれ。」と言い放つと、彼は返す言葉がなくなった。ああ、サトヴィックなヨガ旅行はこういう時便利。

 ルンピニーでは韓国寺に泊まり、Panditarama というヴィパサナーの瞑想センターへ訪れる予定でいた。ヴィパッサナー瞑想といえば、世界各地にセンターがあるゴエンカ式が有名だが、ここPandtarama 瞑想センターは同じヴィパッサナーであっても流派が違い、マハーシ・サヤドーというミャンマーの僧侶が確立した技法による。
 ゴエンカ式の身体のセンセーションに意識を向けるのではなく、サティと呼ばれる瞑想中の気づきを言語化しラベリングしていく、歩行瞑想をしっかりと行う、サマタ瞑想に関しては、ゴエンカ式の鼻の周辺に意識を向けるのではなく、ハラに向ける。そして先生の個別指導がある、など...より伝統的な手法で瞑想を行なっているという。
 瞑想期間もゴエンカ氏のセンターの様に10日間と決まっている訳ではなく、最低7日からセンターに滞在できて、一ヶ月以上の長期間の滞在も可能。生憎私はケーララに戻らねばならず、どう調整しても5日しか滞在できないので、センターには泊まれず、ヴィジター扱いで瞑想しに行くことにした。

 最初このセンターにメールで問い合わせた時、かなり強面な対応にちょっとビビった。最初は返事がなかったので、再度FB経由で同じメッセージを送ると、返事は「誰からの紹介ですか?あなたの瞑想するモチベーションはなんですか?」
 うわ、これは一限様お断りって感じなのね。しかし私もひるまず、「私は今瞑想を始めたばかりで、色々なスタイルにトライしながら自分の道を決めたいのです。」と返した。すると「それならばどうぞ、5日では泊まることはできませんし食事も外で取ってください。予約は必要ありませんので、とにかく座りに来てください。」というような、硬派な返事が来た。
 そういうわけで、韓国寺に宿泊し、そこから歩いて15分くらいの瞑想センターに朝10時から夜5時までへ毎日通った。9月のルンピニはどても蒸し暑かた。見渡す限りの平地、そして大地には常に靄がかかって霞んでいる。風はなく、雨が降りそうな湿度なのに、雨が来ない。じっとりと湿った熱気が大地に停滞している感じだった。湿度はケーララで慣れているはずだが、風がなく淀んだ空気が堪えた。しかも頻繁に停電した。

 緑に囲まれた瞑想センターに着き、責任者を訪ねた。やはりニコリともしない厳格そうな西洋人の僧侶で、「瞑想のやり方はわかってる?」と聞かれたので「はい、なんとなく」と答えると「まず、ハラに意識を集中させなさい、瞑想中に湧き上がってくる全ての感情、思考、感覚を気づいてラベリングしていきなさい。全てを見ているのです。それから歩行瞑想の時はできるだけゆっくりと、気づきを保ちながら、呼吸とともに足の裏が土に触れ、離れてく感覚にしっかり気づき続ける。簡単ではないけどね。では、やってごらんなさい。」と言って立ち去った。その後は完全なるサイレントの放置プレイであった。
 瞑想ホールには参加者が5、6名いた。それぞれに個人用の扇風機と蚊帳があった。ホールの後ろに積まれたクッションを自分向けに調節して座る。私は暑くて扇風機を回したかったが、その音ですら遠慮してしまうほど、ホールは物音ひとつしない。時間割は掲示板に貼ってある。見ると朝4時半から夜の10時まで、食事を挟んで座る瞑想と、歩行瞑想が繰り返される。時間を告げる鐘が鳴ると、各々立って庭に出て歩行瞑想を行う。その繰り返し。
夜の時間に講話があるようだったが、ヴィジターが中に入れる日中はひたすら黙って瞑想するのみ。いや、マジでハードコア。

酷暑の瞑想虎の穴

 ともかく暑すぎて、私は全く瞑想に集中できない。いやーダラムサラの涼しさが懐かしい。頼みの扇風機もしょっちゅう止まって、何時間も復旧しない。停電の多さはインドの比じゃない。扇風機が止まると、湿気で汗がだらだら流れる。暑いし、眠いし、物音ひとつ立てられないし、そんなの今までの瞑想リトリートだって同じなのだが、やっぱり外から通って来ていると、瞑想のエナジーに入りにくいのかもしれない。イライラしてウキーっと、テンションが上がる。おっと、こんな時こそ瞑想のチャンスだ。自分の感情や感覚を見て、ラベリング、ラベリング...
 しかし昼間だけ来ている私はまだいい、ここの滞在者は早朝から夜までこんな過酷な瞑想を続けているのだ。確かに毎回満員御礼のゴエンカ式のヴィパッサナーに比べたら、ここに滞在している人は10人に満たないのだから随分少ない。それだけ厳しいということなんだろう。その代わり思う存分長期間瞑想したい人には穴場かも。

 ちなみにチベット仏教とヴィパッサナー瞑想を修行するテーラワーダ仏教は、同じ仏教といえど大きな違いがある。チベット仏教は日本の仏教と同じ大乗仏教に属するが、テーラワーダは上座部仏教、初期仏教、とも呼ばれる。タイ、ミャンマー、ラオス、スリランカなどに広まり、パーリ語の仏典が使われる。ちなみに、チベット仏教の経典はサンスクリット語であり、ヒンドゥー教からの影響も強い。密教にあたる豊穣なタントラの伝統が今も生きているが、テーラワーダにはタントラは存在しない。
 テーラワーダの最終到達地は、解脱(ニルヴァーナ)これに対して大乗仏教では菩提心(ボディチッタ)。ただ自分だけが解脱するのではなく、他の人をも解脱に導くという責任とコミットメントが必要とされる。という解説はチベット仏教の講座で習った情報で、テーラワーダ側からすれば、ブッダのオリジナルな教えを守っているのは我々だということになる。確かに密教はブッダの死後、7世紀ごろに生まれた潮流でブッダの時代にはなかったものだ。

 しかし、確かに私にはこのスタイルはハードコアで、ストイックすぎた。まさに瞑想虎の穴!5日間ただただ暑さと睡魔と戦いながら、ヘロヘロになって過ごした。あとで調べたところによると、伝統的なミャンマーの瞑想修行では、集中力を養うサマタ瞑想だけでも何年もかけて行うらしい。一方で誰でも悟れるという人がいて、一方でこうした厳しい修行がまだ生きている。本当に悟りの世界は摩訶不思議だ。

 暑さと湿気、そして停電には参ったが、さすがにブッダ生誕の地だけあり、ルンピニには特別な空気感があった。何か女性的でとても古い香りがした。
 宿泊をしている韓国寺は、広大な敷地に百以上の宿坊が並んでいた。値段は三食込みで500 ネパールルピー。部屋は質素で、木のベッドに本当に薄いマットが敷かれているだけ。伝統的に仏教の修業中は柔らかな寝台は禁じられているから、それがそのまま実践されているわけ。食事はカレーが中心だが、キムチは必ず添えられていた。シンプルだが悪くない。
 シーズンオフなのか泊まっている人はわずかで、夜になると本当に静まり返る。ここでも停電はしょうっちゅうで、電気が止まった夜に、外のトイレに出向く時、廊下の庇の間かから、霞んだ月が見えた。とてもしんとしたエナジーが心に染み渡る。
 夜明けには、勤行を知らせる鐘がゴォーンと響き渡り、目を覚まして窓の外を見ると、うっすらとお堂のシルエットが浮かび上がる。空はうす青く、大地はどこまでも続いている。夕方に公園の外に出ると、霞んだ地平線に沈む太陽を見ることができた。

 ある日、ブッダ生誕の地の遺跡を見に行くと、その裏に大きな菩提樹があり、オレンジ色の衣を着た僧侶たちと、ヒンドゥー教のサドゥーが仲良く輪になって座り、その木を囲んで、お経を読んでいた。その様子を木陰で休んで眺めていると、隣に車椅子のチベット仏教の僧侶が現れた。「日本人?」と聞くので「そうです。」と答える。「あのオレンジ色の衣の人たちはどこから来たんですか?」「彼らもネパール人だよ。彼らはテーラワーダで私はチベット仏教だ。」「チベット仏教とテーラワーダの違いはわかるかい?テーラワーダはヒーナヤーナ(小乗)でチベット仏教はマハーヤーナ(大乗仏教)でタントラがある。テーラワーダにはないタントラはない。」と僧侶はマニ車を回しながらにっこり笑った。その何かを見透かしたような魔術的な眼差しは、どちらかといえばお坊さんというよりはサドゥーのようで、私はテーラワーダの僧侶と、チベット仏教の僧侶の纏う空気感の違いを肌で感じて、興味深かった。

聖なるものを孕み、聖なるものが育まれたこの大地
なぜか誘われて、ブッダの地にやって来た
けれど私の心は定まらず、あっちこっちへと動き回る
一体どこへたどりつくやら

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?