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インド 瞑想を巡る旅 4

飛んで踊って泣きわめく

OSHOニサルガ 

 ケーララを出てからリシュケシュにいる間、ジョシーとはほとんど連絡を取らなかった。ジョシーは携帯を持っていなくて、一緒にいる弟に電話して繋いでもらうしかないのだが、彼らはカンニャクマリの郊外にいて、私はリシュケシュの山の中にいる。なかなか電話がうまく繋がらない。おまけに私が持ち歩いていたMTSというメーカーのポータブルWIFIは北インドの田舎では全く使えなかった。宿にもWIFIがあったがこれもしょっちゅう不通になった。
 リシュケシュを発つ直前に、数週間ぶりに弟に連絡をしてみた。すると思いがけない返事が返ってきた。ジョシーが再び転倒して右ひじを骨折した。二回目なので動かさないで絶対安静なのだが、言うことを聞かなくて困る。夜も寝ないから大変だ。今ようやっと寝てくれてるから、起こしたくない、と電話を繋いではくれなかった。
 

 ごつんと頭を大きく殴られた。また骨折?!12月に一度右肩脱臼&右ひじにヒビが入った時、ジョシーの日本の生徒さんにお願いしてお金を集めて、3週間のアーユルヴェーダの治療を受けさせたのだ。それで私がケーララを去る頃には大分良くなっていたというのに...あれからたった一ヶ月。
 これにはかなりショックを受けた。なぜなら12月の怪我の時、私はかなりのエネルギーを傾けて彼の世話をしていたからだ。アーユルヴェーダの治療も功を奏し、体の動きもスムーズになってきていた。あのエネルギーとあのお金、全部無駄になっちゃった。それにしても何故、彼の身体にはトラブルが次から次へと起こるんだろう。
 たかが右ひじの骨折くらい死ぬ訳じゃないし、と言われればそうなのだが、彼の場合そうやって寝たきりになってしまうと、今度は記憶障害のほうも同時に悪化してしまうのだ。むしろそっちの方が心配だった。
 
 ダラムサラでは初めに、OSHOニサルガという、OSHOのアシュラムで9日間のダンスのリトリートを受ける予定でいた。しかしこんな状況では、踊る気分になどなれない。一瞬、再びカンニャクマリへ戻ろうかと考えたが、来客があって部屋がないと言われたので、旅を続行することにした。
 現代インドにおける偉大なマスターOSHO、その革命的な思想から日本ではまだ色眼鏡で見られこともあるマスターではあるが、インドを旅していると、彼の影響力の深さに驚くことが多かった。旅先で親しくなる人の多くがOSHOの弟子だったし、堅気に見えるインド人の家にもOSHOの書籍が並んでいるのをよく目にした。
 

 私もこの数年の大変な時、OSHOの本に出会って衝撃を受け、たくさんの勇気をもらった。彼の本拠地であるプーナに一度行ってみたいと思っていたが、アシュラムは今メディテーション・リゾートと名前を変えて、滞在費が結構高くつくと聞いていたのでためらっていた。
 するとティルバンナーマライで仲良くなった長年のOSHOのサニヤシンである女性に、それならばニサルガへ行け、と強く勧められた。「あなたは一度インテンスなリトリートに参加して、感情をリリースした方がいいわよ。ダラムサラの方に行くならニサルガがオススメよ。あそこは綺麗で洗練されてるから。」
 彼女にはこの数年のゴタゴタを相談してもいたので、それを慮ってかわざわざスケジュールまで調べてくれ、このコースでこのファシリテーターは良いけど、こっちはイマイチだと思う、などいろいろ相談に乗ってくれた。結果初心者向けの9日間のダンスワークにしたのだった。OSHOのワークは感情の深い所をリリースしていくものが多いので、若干過激なアプローチもあったりするし、躊躇しないでもなかったが、ダンスワークなら何とかついていけそうだ。
  
 OSHOニサルガは友人の言うとおり、確かに素晴らしく気持ち良い場所だった。施設はこじんまりしていたし、小さな村の中にあって静かだった。近くには澄んだ川が流れ、雪をかぶったヒマラヤがまじかに見える。一番安い二人部屋を取ったが、小さいながらも、戸棚や引き出しなどが、使い勝手よく配置され、お湯シャワーもバッチリ出る。その辺のインドの宿とは確かに洗練度合いが違う。しかしその平和な静けさとは裏腹に私の心は重かった。今回の骨折で彼の心身がさらにどこまで衰えて行くのか、ことジョシーに関しては自分が良かれと思ってやったことが、こうも実を結ばずに水泡に帰すのは一体何の因果なのか。
 一応ここはアシュラムではあるが、ストッイックな感じは全くない。働くOSHOの弟子達はマルーンカラーの服を身につけていたが、色がマルーンであればよく、インド人女性でも垢抜けた雰囲気で、露出度の高いワンピースやタンクトップを普通に着ていた。サイレンスである必要もないし、男女の接触も問題なし、wifiも食堂周辺では普通に使える。

タントラはすべてを受け入れる

 OSHOは実にさまざな古典や過去のマスターたちについて、深く洞察し語り続けた、中でもタントラについて沢山の講話を残している。タントラとは「縦糸」という意味のサンスクリット語で、9世紀から12世紀に仏教とヒンドゥー教が相互に影響しあいながら発展した思想である。(仏教では密教がタントラにあたる)インドの正統的な哲学は、位の高いバラモン階級の人々によって育まれてきた、抽象的で難解な思想体系。
 それに対して、タントラはもっと実践的なテクニックを発展させてきた。修行者たちも階層が低い人々も少なくなかった。スワミと呼ばれる人が、正統派系で、ヨーギやサドゥーがタントラ系のひとたち。そこには、呪術や占星術、医学、武術そしてヨガも含まれる。どうやったら、私たちは神と一体化できるか、絶対的な幸福を手にすることができるか。それを身体技法や、エネルギーワーク、ヴィジュアライゼーションなどの瞑想法などを駆使して探求されてきたものだ。そして一番の特徴は、人間の持つ欲望や肉体を否定しなかったこと。特に性エネルギーを積極的に使って、神との合一に至る乗り物としたこと。数多くの宗教の中でタントラは性を否定しなかったほとんど唯一の流派であった。実際過激な儀式を行なっていた流派もあったようで、それらはやがてはコントロールし難い欲望の大波に飲まれて退廃し、歴史の中で封印されてしまった。
 OSHOはその思想を革命的で美しい表現で現代に甦らせ、衝撃を与えたのだった。

「タントラは言う、あるがままの自分を受け入れなさい。あなたは多くの多元的なエネルギーの大いなる神秘なのだ。それを受け入れ、そのあらゆるエネルギーとともに動きなさい。深い感受性、気づき、愛、理解とともに。それと一緒に動きなさい!そうすればあらゆる欲望がそれを超えるための乗り物になる。その時あらゆるエネルギーが助けになる。そしてその時、このまさに世界がニルヴァーナ、このまさに肉体が寺院となる。ー神聖な寺院、神聖な場所に。」

 OSHOが提唱した多くの瞑想方法やセラピーの中でも、一番知られているのは「ダイナミック瞑想」と呼ばれる瞑想法だろう。OSHOは始終マインドを働かせ、様々な心理的な抑圧の中にある現代人にとって、いきなり座って瞑想するのは困難だと考え、座る瞑想の準備段階としてこの瞑想法を考案したという。瞑想は全部で1時間、5つのステージに分かれている。行う時間は早朝が良い。
 

 第1ステージ:ランダムで激しい呼吸。お腹の底から全身を使って激しく息を吐いて行く。規則正しく呼吸すると、注意力がそれてしまうので、ランダムに全身全霊で呼吸する。これを10分間行う。
 第2ステージ:カタルシス、第1ステージで充填したエネルギーを一気に放出する。湧き上がってくる感情を全てリリースしていく。他人に殴りかかったりしなければ何をしてもいい。笑いたければ笑う、泣きたければ泣く、枕を叩きつけたければそれにしたがう。一切ジャッジメントしないで行う。10分間。
 第3ステージ:フーのマントラ。スーフィズムのマントラ「フー」と両手を上げてジャンプしながら唱え続ける。ジャンプし「フー」と言いながら第一チャクラを床に叩きつけるような感じで。10分間。
 第4ステージ:静止。「ストップ」という声とともに全てを静止させる。そのまま動かないで15分間。
 第5ステージ:セレブレーション。止まっていた体に再び命が吹き込まれるように自由に踊る。心のままに感情のままに自由に。15分間。
 

 かなりハードな1時間の瞑想法なのだ。瞑想は静かに座るもの、という概念を覆す革命的な方法だ。泣いたり叫んだり飛び回ったりするので、多分これを読んでドン引く人も少なくないと思うけど、やってみると実はかなり素晴らしい。心の中に溜まっていた澱のようなものが抜けるし、全身に(特に下半身)エネルギーが通って、スッキリ爽快感。最初は確かに筋肉痛になるが、慣れると心身が軽くなり、元気に1日を始められる。

 ヨガや仏教の瞑想など、東洋の伝統的な精神修養は、基本的に禁欲主義だし、感情というものをあまり積極的には扱わない。感情は過ぎゆくものとして、巻き込まれずにただ観察する。しかしOSHOのワークは、感情だけでなくあらゆる欲望に対しても全てジャッジメントしないで、オープンに開いて行く。なぜなら感情や欲望は押さえつけるほどに、奥に入り込んで、しこりになって残る。それが意識しないレベルで、人生の様々な場に大きな影響を及ぼしていく。
 OSHOが未だ偏見を持たれている理由には、フリーセックスというイメージがあるからだと思うが、それはフリーセックスを奨励しているのではなく、むしろ逆で、それと真っ向から向き合うことで、性に対する抑圧をリリースしなさいと言うことだ。
 性愛に希望や恐れを抱き、そこに絡め取られ、もがく。それが決して永続しないのだと心底わかるまで、人はそれを繰り返し続ける。そしてそこにどんな夢や恐れや抑圧も無くなった時、性を性としてあるがままに受容したとき、ようやく自分にまっすぐ垂直に降りて行く準備が整う。
 生のいかなる面も否定しないし、こうあるべきという規範もない。ただ瞬間瞬間に正直に生の神秘と向き合い続けること。起こっていることを楽しむこと、生とダンスを踊ること。

「タントラは言う、最初に肉体を浄化しなさい。そのすべての抑圧を浄化しなさい。肉体的なエネルギーが動くのを許し、ブロックを取り除きなさい。ブロックのない人間に出会うことは滅多にない。そのこわばりを解きほぐしなさい。その緊張があなたのエネルギーをブロックしている。その緊張があるかぎり流れることはできない。」

身体には感情がある

 アシュラムの朝はダイナミック瞑想ではじまった。その後ダンスのワークがあって、夕方にはホワイトローブ瞑想というOSHOの講話を聞く時間がある。それまでも何度かダイナミック瞑想をはじめOSHOの瞑想を試したことはあったけれど、9日間連続して行うのは初めてのことだった。
 結果的に私は正しい時期に正しい場所にいたのだと思う。あのOSHOのサニヤシンの女性が言ったように、私は感情をリリースする必要があったのだろう。とにかく毎朝のダイナミック瞑想の時間、私はひたすら喚いて泣き続けていた。ここ数年の自分に起こった悲しい出来事を次々と思い出し、次第に子供の頃の悲しい出来事まで蘇ってきた。泣きながらその悲しみに怒りをぶつけ続けていた。この世界がなくなってしまえばいいと思った。この世界もこの世界の人々も、自分もろとも全て消えてなくなってしまえと。日本人は誰もいなかったから「ばかやろー」と叫びながら枕をバンバン叩きつ殴りつけていた。なんて書くとますます引かれそうだけど、いい年してここまではばかることなく大声で暴れる機会なんて滅多にないから、かなり貴重。
 でも9日間が終わる頃には、だんだん涙も枯れてきて、今度は転げて笑ったりしはじめた。ダイナミック瞑想が終わると、心も身体も空っぽになった。

 ダンス・ワークのファシリテーターはアミヨという多分60代くらいのフランス人の女性で、グルジェフのダンスワークをメインに世界中でワークショップを行なっている。今回は5エレメンツというテーマで「火」「水」「土」「風」「スペース」といった各エレメンツを体感し表現するダンスやワークを通して、自分自身を見つめていくという流れ。毎日グルジェフダンスのワークも少しづつ入っていた。

 リトリートの参加者は40人ばかりで半分はインド人。初心者OKのコースだったので、OSHOのワークは初めてという人が多かった。育ちの良さそうな青年から、アーティストっぽいアニキ、50代くらいのおばさまもいた。西洋人は年齢層が若く、
マレーシアからの7人くらいのグループも参加していた。日本人は私一人。
 日本人が一人だったこともあり、最初はなかなか他の人と気軽に会話を交わせなかった。今思い起こすと大分ふさぎ込んでいて、あまり人とは関わりたくなかった。二人ペアでやるようなダンスワークも面倒に感じることもあった。
 けれどあの時、体を思いっきり動かし続けていたのは、多分自分にとってとても良かったのだと思う。私は体の各部位ががそれぞれ違った感情を持っていることに気がついた、私の中の情熱と恐れ、孤独でいたいと言う気持ちと繋がりたいという想い。 感じる心も、喜びも、希望も、そして悲しみすらも。身体はもっと世界をヴィヴィッドに感じたいと望んでいた。
 毎朝のダイナミック瞑想で、私は世界に絶望しながら泣き続けていたが、一方で私の体には自分が思っている以上にエネルギーが宿っていた。私の心は絶望しても体にはまだ情熱があった、それに気がつく時、また涙が出た。結構始終泣いていたように思うが、それ対して自然にそっとしておく、というベースがあったので、気楽だった。
 OSHOのワーク心身を深いところから解放するものが多い、弟子達は親密な気持ちをハグして表すことも厭わない、それに毎日飛び跳ねたり踊ったりし続けてるわけで、時が経つにつれてだんだんと、心も身体もほぐれて来た。グループにオープンなムードが流れ始めて、最終的にはみんなと仲良くなって、ハグしあって別れたわけだけど。
 
 すで OSHOの弟子になっているサニヤシンの参加者とも話をした。一人60代くらいのイラク人の女性がいて、彼女いわく、息子がある日急にOSHOに傾倒し始め毎日ヴィデオをみたり、本を読んだりし始めたという。それまでは鬱気味で難しい息子だったが、インドのOSHOアシュラムヘ出かけ帰ってくるとすっかり元気になって人が変わっていた。それで自分も興味を持ちはじめ、結局OSHOの弟子になってしまった。このニサルガにももう何回も来ている。プーナよりもこっちの方が天国よという。
 そして滞在中お忍びである有名なインドの政治家も泊まっていた。朝は彼と一緒にダイナミック瞑想をして飛んだり喚いたりしていたのだ。
 OSHOのアシュラムはインドの他のアシュラムのように堅苦しいところもまるでなく、非常にオープンで確かに居心地が良かった。弟子になれと言う勧誘をされるわけでもなかったし。機会があればさらにインテンスなコースも受けてみたいと思いつつ、アシュラムを後にした。

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