見出し画像

【本誌112話】 何ぞ我を見捨て給うや 感想&考察

※この記事は文豪ストレイドッグスの考察です。
ヤングエース2024年3月号のネタバレを含みます。


24.02.02感想

YES本誌!WELCOME本誌!
今月、中身詰め合わせてんこ盛りだった
そしてアニメになかったシーンの破壊力よ!
諭吉少年に思わず「まじで恋する五秒前☆」になってしまってほんとわたし犯罪すれすれで危険すぎる…

■ムルソー劇場終幕

想像以上にアニメにみっちり忠実だったサバクタニ。
「さようなら太宰くん」と言ったドスくんに呼応するかのように「さよならドストエフスキー」と告げる太宰さん。心中お察しする~…
似た者同士で双子みたいで片割れみたいでお互いが何考えてるかわかってて気が許せてお喋りするのが楽しいオアシスのような相手の死を見届けるのは、やはり太宰さんと言えど胸に来るものがあるのだろうか。
なんというか、二人の言葉の掛け合いや反復する言動に、どこかしら深い親愛のようなものが感じられてさ。太宰さんにとってちゃんと「さよなら」を告げたい相手の一人だったんだなと思うと切なくもあるわね。
太宰さんが心を許せる相手って、織田作とドスくんとあとヴェル兄くらいなのかなと個人的には思ってるんだけど、織田作はともかく、残り二人は太宰さん自らが関係性を絶っていったようなものだから、役割のために痛みや孤独を自分の手で選びとって引き受けていくことの悲痛さがじわりと滲み出ているような感じがする。

サバクタニのドスくんの表情、アニメにそっくりだったね。神よ何故我を見捨てたもうやって、十字架にかけられたキリストが生涯の中でたった唯一、一度だけ、神への信仰が揺らいだその瞬間に天に向かって叫んだ言葉なのですよ。全身全霊で神に訴えかけた本当はとっても辛いお言葉なのですよ。こんな薄笑い浮かべて言う言葉じゃねえのよ。右手もね…不自然で気になるよね…あやしいよね...

だけどゴーゴリの感情だけは、これはきっと本物だ…泣ける。
偽物だらけで、道化だらけで、全部が芝居じみていて、ほんとくそったれなんだよムルソーって。
でもその最後に、ゴーゴリの感情が、道化でも芝居でもない、抗うことのできないどうしようもないほどの友を想う感情が、ドシンとのしかかって幕が閉じられていくの、本当にすごいなと思うんだあ。とっても大切にしたいシーンだなと思うし、雰囲気も表情もすごいいいよね…。

■世界大戦を防ぐため

福地さんの演説は、アニメよりもだいぶ具体的になっていてカフカ先生節が炸裂していたので読んでて楽しかった~。
「二億一千万の人命を奪うと」のコマで地球から血が滴ってるの美しすぎる…生命の血でもあり、人々が流した涙でもあり、惑星に刻まれた悲しい記憶でもあるように見えてとてもきれい。

今回の事件は、未来で起こる戦争を阻止するために、未来で犠牲になる数よりも少ない数の人間を犠牲にして戦争を終結させるテロだったけれども、話が壮大な分、論点ってたくさんあるんですよね。

まず一番に、未来の100人の死を回避するために、目の前の1人を殺せるのか、という話があって。一般的にはトロッコ問題と呼ばれたり、ドストエフスキーの『罪と罰』の主題にもなっていることなんだけれども、答えの出ない難しい問題がひとつ。

二番目に、戦争の原因は「われら」と「かれら」の境界線から生まれるという話。だからこそ国家を統一しすべての人類を「われら」にしてしまえば、自ずと戦争はなくなっていく。この問題は国家以外にも言えることですよね。宗教間の対立も人種間の対立も、やはり「われら」と「かれら」という認識の上に起こるものなので、裏頁を使用して「人類は統一されてしかるべきだ」と人々に思い込ませることはすなわちあらゆる分断を消滅させていくことに繋がる。頁を使った人類統一は、一見すると非常に効率的だし、すがりたくなってしまうもの。

三番目に、世界の軍事力をひとりの人間が支配し所有するという話。福地さんが言ったように右手と左手は喧嘩しないので、一人の指揮下のもとにおかれた軍は互いに争うことをやめて戦争が終結する。だけど福沢さんの指摘どおり、軍をひとりが所有するということは独裁になるので、あまりにも危険すぎる、ゆえに福沢さん的にはそれはNOだと判断した。

だいたいこんな感じかなと思うんだけど、二番と三番はシステムの話なんですよね。なので案外自分で考えたり議論して何かの選択に繋げたりするのって難しくて。

もう少し身近なものに置き換えて考えてみると、こういう論点になっていくのかなと思うんです。

①なぜ100人を救う為であっても、目の前の1人を殺してはいけないのか。あるいは殺すのを躊躇してしまうのか。
②なぜ相手を「かれら」と判断した途端に人は簡単に争いを始めてしまうのか。
③たとえ命が救われようとも、人が独裁のもとで支配されたり統一されたり洗脳されたりすることを嫌がるのはなぜなのか。

このくらいのサイズにしておけば、考えやすいでしょうかね。生きていく中でいつかどこかで直面するような問題ばかりだと思うので、しばし時間をとって自分の考えを整理しておくことって何かの役に立つ気がします。
私もここ最近だらだらと考えているので、いずれまとまったら自分の個人意見として感想に追記するかも(しないかも)。

■どこまでも純粋に相手を信じる

双福の少年時代の回想が尊すぎてもうほんとに、なんなんですかねこれはあああ!
諭吉少年が…結構素を出しているというか…イラっとしたりするんだ…となってギャップで速攻落ちた。
しかも!二人がきんとん食べながら対面してるところ!源一郎少年がさも自信ありげに人差し指をたてて提起した議題に対して、理解し受け入れつつも批判的な立場から冷静沈着に反論をしているであろう諭吉少年の表情と手!!!
これ…やばいもの見ちゃった…という感じで罪悪感生まれるレベルに尊かった…すごかった…そのあとの幸せそうな顔が…これまた胸を締め付けるんだな…

そんでね、今月の本誌とは直接関係ないんだけど円盤24巻のブックレットの話していいですか?
色々衝撃的な情報があった中で一個取り上げたいなと思ったのがありまして。ちょっと引用させてもらいます。

榎戸:先の大戦がどうやって収まったかという事は具体的に描かれていませんが、福沢が戦争継続派の人間を何人か暗殺したことが一端になっていると思って良いんですよね?
朝霧:はい、少なくても日本においてはそうです。
榎戸:そのことって、福地は知っているんですか?
朝霧:知らないと思います。福地は戦争をなくすためには人を殺すこともやむを得ずと思って行動していますから、実は福沢もそれがわかっていると知ったら、一番最初に天人五衰に誘っていたのではないでしょうか。

文豪ストレイドッグス円盤24巻 ブックレット

福地は福沢が暗殺していたことを最後まで知らなかったという…胃に穴あきそうな新事実…

ということで。
ちょっとこの情報をもとにもう一度二人の関係性を整理してみたいなと思います。
ブックレットを読んでても感じたんですけど、この二人、どこまでも相手の善性を心の底から信じていたんだなあと。

福地が福沢の暗殺を知らなかったとなれば、福地は「福沢は100人を救うために1人を殺すような人ではなく、その1人さえをも救おうとする人だ」と信じていたということですよね。だから福地はもしかしたら、自分の悪を裁いてほしい、自分がしてきたことを過ちだったといって終止符を打ってほしいと思って、福沢に最後バトンを繋いだのかもしれない。

福地も自分がやっていることの正しさが自分自身でわからなくて、違う考えを持つ信頼できる友の判断を仰ぎたかった、ということでもあって。だけど身近な人を大切に思う福沢はきっと自分を裁かないだろうというところまで理解していたから燁子さんに依頼をしてるんですもんね。
福地は福沢の正しさと優しさをどこまでも信じてきっていた。
反対に福沢も、福地のことを悪だとは決して思わずに「自分への復讐(悪は自分)」もしくは「世界平和を願う」気持ちからテロを起こしていると考えて、一度も福地の善性を疑うことはしなかった。
このあたりの、どんな状況であろうとも相手の正義を信じるという気持ち、とても胸熱なんだよなあ。

そこでですよ。
ブックレットの対談にあった「天人五衰に誘ってた」という言葉。まじでこういうの天地ひっくり返っちゃって恐ろしいよ…
思えば、福地は戦場に仲間を救いに行く「善の所業」や猟犬で悪と戦う「正義の所業」には福沢を勧誘していたけれども、テロという「悪の所業」には勧誘しなかったですもんね。
でも実際は、福沢も福地と同じように「100人を救う為に1人を犠牲にできる人」で二人とも同じことを考えていて、表面上ではすれ違っているように見えても、同じ道を歩んでいた。

「福沢が暗殺のことを秘密にしていた」というたったひとつの点から生まれたすれ違いや誤解が、最後にツケとなりドカンと束になって福沢に押し寄せてきて清算させられている、という感じでもあって。
福沢さんにとって、かつての自身の暗殺と向き合うことと、友が起こしたテロや人類軍と向き合うことのふたつはきっと同じ土俵にあることなんじゃないかなとも思う。だとすれば、友の願いや友の目指した正義を受け入れていくことが、自分自身の過去を赦すことに繋がっていくというのもあったりするのかもしれませんね。もちろん逆パターンもありえるけれども…。

そんな中で「親しき人を守る強さを願う」と目を輝かせた諭吉少年が、何をきっかけにして戦争終結に執念を燃やし暗殺の道に進んだのか、というところがやはり気になってくるところ。
このあたりもう少し深掘りをしてくれそうな雰囲気のコメントが対談に載っていたのでこれからが楽しみです。

あ、そうそう。これもブックレット情報なんですけど、アニメの終わり方はアニメオリジナルらしいです。だけど6期をやっても一応繋がるようにはしてあるとのこと。アニメの終盤のところ、本当はもっと大変なことになっているらしいので、来月以降の本誌が怖すぎて心臓の不穏などきどきがとまらない。
最近すっかりぬるま湯につかってしまって耐性よわよわなので、急に振り回されたりして衝撃与えられたらちょっとどうなるのか…不安だあああ…

24.02.16追記

五衰編でまだ振り返れてないところなどを少しずつ拾いながら、今回の追記で整理していきたいと思いまーす。テーマが割とデカめ。

■友情と神の狭間で

五衰編はドスくんが計画を立てていたわけだけど、ドスくんの計画が裏切られる局面では「友情」というのが鍵となっていた気がする。
一番最初は虫くんで、ヨコミゾとの友情の痕跡だった「原稿用紙」が、ドスくんにとっての誤算を生んでいく。
次の誤算はおそらくゴーゴリ。ゴーゴリが自分に対して親友という感情を抱いていることをドスくんは想像してない&理解できなくて、その感情によってゴーゴリが死を回避したのもやっぱり誤算だったのではないかなと。
最後の局面で太宰と探偵社の信頼関係によってチェックメイトされるのも同じ種類の誤算の延長線上にあるもの。
福地が死んで福沢が生き残るという「友情あってこその逆転」も、ドスくんにとっては大きな誤算だったのかもしれない。
ドスくんに降り注いだ「友情アタック」によって、無残にも敗北を期したのが五衰編のドスくんではなかろうか。

そうした先で、ドスくんは「神よ、神よ、何ぞ我を見捨て給うや」と叫ぶ。このフレーズに「復活の予兆」以外の意味がないかちょっと考えてみたい。

ドスくんは初登場シーンで「神と悪霊の右手が示す通りに」という言葉を座右の銘のごとく語っていて、今回ムルソーで右手を負傷しそれがきっかけで死へと至った。死後には右手だけが残された。ひたすらに見捨てられる右手。
神の意志に従って動いていたのに、神の意志の象徴たる右手はドストエフスキーを裏切る。その姿は確かに、十字架の上で神から見放されたキリストと重なるようにも見える。信仰や忠実さに報いない厳しい神。人類を良きものとするために自らの愛する子供を犠牲にする神。
ドスくんが従った「完璧と調和」を好む神というのは一体どんな存在なのか、結局そこがとても気になるポイントとして浮き上がってくる。

自分のことを「白♡雪のように純白♡」とか言ってるごりごりに黒い魔人は、一見するとやっぱりサタンなのだが、サタンにはサタンなりの苦悩があるというのが個人的な持説でして、ヨブ記にあるような神の命令のもとで働くサタン、あるいは『カラマーゾフの兄弟』に出てくる「しょうがないから事件を起こしてやってんだよ」と愚痴る悪魔というのが、ドスくんに与えられたロールプレイのイメージに近いような気がしている。

だとすれば、「神よ、何ぞ我を見捨て給うや」という言葉は、ドスくんのとても深い部分の、自身の存在そのものへの不満の告発だったりするのかもしれない。
不利益な役割を我慢して担っているぼく。本当はいい人にだってなれるぼく。でも神からの仰せのとおりに悪役として踊るぼく。こんなに忠実に働いているのにやっぱり見捨てられるぼく。見捨てられるのが仕事だというのは初めからわかっていたぼく。
ドスくんの最期の顔には悪役として踊り切ったことに対する安堵感や開放感が多少含まれてたようにも見えるなあと。
だけど、復活の予兆はあるし、世界が続く限りサタンのお仕事は終わらないので、第二幕的な感じで、もう一芝居する予定でいてくれたら嬉しいなあと願っています。すべては演目ですからね。

■受難の系譜

「神よ、神よ、何ぞ我を見捨て給うや」はキリストの受難を象徴する言葉だけど、文ストには「無実の人間が不条理な悲劇を受け入れる」という受難の系譜があるような気がする。(系譜という言葉、榎戸さんのインタビューからパクらせてもらった)

一番は織田作。改心し贖罪し、善行を尽くした人が辛い目に遭って死にゆく姿はやはりキリストの受難を想起させるもので、同時に「良い人間が必ずしも幸福になれるわけではない」という不条理も描き出されていたのではないかなと感じる。
そして太宰は感情を押し殺しながらもそれを受け入れた。だから不条理という言葉をムルソーで語りながら太宰は織田作の姿を回想していたのかもしれない。

不条理な悲劇を受け止めるという受難の系譜は太宰を通じて敦に引き継がれていく。敦の悲劇は彼の生い立ちにあるわけだが、生い立ちも傷も決して否定しないで受け入れるのが敦であり、その強さは舞台共喰いでもっとも顕著に放出されていたのではないだろうか。
敦の場合、異能そのものにも何かしらの不条理性が込められているという可能性も。

そんな敦の受難の系譜は、シグマに引き継がれていくことになる。
何のために生きているのかわからないからといって生きることを諦めてはいけない、そう言って誰かを救おうとする敦の言葉は、織田が太宰に託したものと同じ流れの中にあるものであり、救いの連鎖と呼ばれるものなのだろう。

シグマは凡人の宿命的な悲劇も抱えている。非凡人だらけの世界の中に、ひとりだけ凡人として生まれてしまうことは、それ自体がネガティブな因子。
才能というのが生まれたときに天賦されるのだとすれば、凡人か非凡人かの属性もやはり不条理なもので、才能のなさを受け入れたくなくて、否定したくて、凡人は努力するのだが、その先にあるのは努力する非凡人との対決であり、結局は不条理によって凡人は地に叩きつけられてしまうのだろう。

生まれる前に「自分の才能」を決めて生まれることができればいいのだけど、実際は「才能がない」状態で生まれたり、「ほしい才能とは違う才能を持つ」状態で生まれたりする。
才能がないという不運に見舞われた凡人たちにできることといえば、群衆として行動を起こす、という集団としての戦いくらいなのだろうか。
何も持たない宿命を背負わされたシグマもやはり不条理の悲劇を抱える人物であり、シグマが敦や太宰とのやりとりを通じて、自身の悲劇性を受け入れる過程が描かれたのが五衰編ではないでしょうか。

これらの受難の系譜にある人達はやはりどこかキリストらしさが感じられるし、彼らこそ真に「神に見放された運命」を痛苦に耐えながら引き受けてきたのではないかなと感じます。

■マルタとマリア

ここからは「人ってなぜ争うの?」って話です。福地さんの演説に対する個人的な意見を追記するかも~っていってたやつの追記。けど、難しい話は私もよくわからないので簡単なたとえ話を・・・

聖書に出てくるマルタとマリアのお話を聞いたことがありますでしょうか。

一行が歩いて行くうち、イエスはある村にお入りになった。
すると、マルタという女が、イエスを家に迎え入れた。彼女にはマリアという姉妹がいた。
マリアは主の足もとに座って、その話に聞き入っていた。
マルタは、いろいろのもてなしのためせわしく立ち働いていたが、そばに近寄って言った。
「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。」

主はお答えになった。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」

ルカによる福音書 10章 38 - 42節

マルタとマリアという二人の姉妹が住む家にイエスが来たとき、イエス様をおもてなししなければと思ったマルタは、飲み物を準備したり食事を用意したり、とにかく忙しく働いた。だけど、姉妹のマリアは忙しいマルタをそっちのけにして、イエスのそばに座り、ただお話を聞いていた。
そんなマリアの姿を見たマルタは「なぜ私だけがこんな大変な想いを!それに比べてあの女は!」とカンカンに怒って、マリアを咎めるためにイエスに文句を言った。けれどもイエスはマリアの選択を正しいといって、マルタをたしなめた。

そういうお話なのですが、私はここに現代女性の争いの縮図を感じてましてですね…一番身近な争いの構図なんじゃないかなと思うんです笑
そして多くの女性は「マルタ派」だという噂を聞きまして、マルタを擁護する声が多いんですって。みなさまはどっち派?イエス様にちゃんと尽くしているのは一体どちらなんでしょ?
どちらがより献身的かという論争はキリスト教の中でもずっと続いていて答えが出ているわけじゃないみたいなんですが、この争いの中に「われら」と「かれら」というものがまさに見てとれるよなあと感じています。

マルタは自分が正しいと思っている。だからマリアにも、自分と同じようにしてほしいと思っている。むしろなんでやらないの?私は頑張ってるんだから、あんたも同じくらい頑張りなさいよ、というある種の「考えの押し付け」のようなものがマルタにはある気がするんですよね。
こういう押し付けってどこにでもありふれていて、夫婦や子供との関係の中だったり、仕事の中だったり、とても身近な「他者の征服」の例なんじゃないかなと。
自分と違うものを大切にしている人を理解することが難しくて、それ故に「かれら」として敵対心が生じ、怒りや不満という感情に繋がる。そういう争いの「一番最初のちいさな種」みたいなものがマルタとマリアの話では描かれているなあと感じます。

一生懸命であれば一生懸命であるほど、気付けばマルタ化してぷんぷんしちゃう。そういうのって自分も含めて、あっという間に落っこちてしまう精神状態なんだけど、そうすると他者を咎めたくなっちゃうんですよね、ほんとに。
マルタはマリアを自分に近づけようとしたけれど、本当はマルタがマリアに歩み寄ることもできたはず。おもてなしをやめて自分もただ座って話を聞くことだってできたはず。

なので、ときどき「自分はマルタ化してないかな?大丈夫かな?」と自己点検しながら、違いを認め合って他者が大切にしているものに耳を傾けてみるというのが、日常の中でできる争いを減らすための一歩になる気がしているのでありました。
頁を使って「かれら」を「われら」にすることって現実世界では到底無理なので、別の方法を使って「かれら」を「われら」にするしかない。そうなったときに、案外こういう聖書の逸話って身に沁みたりするんですよね。

・・・本当のことを少し白状すると。
ホモサピエンスって凶暴な種族なんだぞ、何万年も前から征服と虐殺を繰り返してきたんだぞ、ネアンデルタール人とか原住民とかそういうの根こそぎ滅ぼす種族だぞ、血がそういう風にできてんだ、今だって狩猟採集民だった頃と身体も脳もなにも変わらないのだから人間は残酷な生き物としての自分らをいい加減受け入れたほうがいい、っていうのをはじめは書こうかと迷っていたんです。けどそんなの書いたら悪影響が過ぎるので、マルタとマリアの話を代わりに置いておきました。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?