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ドスくんは「罪」と「罰」の二人いるらしい(お題箱から)

※この記事は文豪ストレイドッグスの考察です。
※お題箱に頂いたお題への返信です。

なんかさ、舞台共喰いのお見送りでそういう話があったらしいですね。片方は死んだけど片方は死ななかったとかそんな内容のことが。そういう爆弾投下は本誌勢には刺激が強すぎるう…。
大切な情報を出すときは、できる限り本誌とか小説とか原作に近いところでやってくれたらもっと気持ちよく情報を受け取れるんですけどもね。
(もちろんお見送りの話がどこまで原作を意識してるのかわからないし、DAを踏襲してみただけという可能性もあるのですが)
本誌で明かされるまでドスくんの考察待機してたんだけど、ドスくん御自ら二人存在することをほのめかしていらっしゃいますので、もう流れに任せていっちゃおう。
神聖なるドスくんを私の醜悪な考察で穢してしまうことを神よどうかお許しください。

ちょうどこんなお題も頂いていたので、回答も兼ねて。

頂いたお題はこちら:
最近ものあしさんのこと知りました!!
もう考え方がすごすぎて読むのが楽しいです!
まだ全部に目を通せてないんですけど、太宰さんとフョードル血が繋がってる説、フョードルは罪側と罰側の2人いる説って考察されてますか!?


■はじめに

お題ありがとうございます!考察も読んでくれて嬉しいです!ドスくんは罪と罰の二人いるっていう考察が出回ってる噂は目にしたことあるんですけど、みなさんってこういう考察どこから仕入れてくるのかな?TikTok?You Tube?
大変申し訳ないのだけど、自分のTLに流れてくる考察以外は見に行っていないので、お題主様の書いた太宰さんとドスくんの血が繋がってる説がどんな話か知らないし、なぜドスくんは罪と罰の二人いるとみんなが考えているのかも実はよくわかっていない…
ということで血が繋がっている説の回答は控えさせてもらって、ドスくんの異能の方だけ、二人いる説の根拠となりそうなことを書かせてもらおうかなと思います!

本誌の感想読んでくれている方には一部重複している内容です。
【本誌105.5話】隘キ部屋ニテ 其の壱 後編 感想&考察

■ドスくんの異能は独立型の異能生命体

ドスくんの異能は常時分離している独立型の異能生命体だよね、っていう話は私も以前から相互さんとしてまして、確かにドスくんは「生身のドスくん」と「異能のドスくん」の二人いそうだなと思ってます。
「異能のドスくん」は澁澤と同じような異能生命体になるわけですが、文ストに出てくる異能生命体はいまのところ以下の2パターンに分けられます。

【独立していない異能生命体】
エリスちゃん、影の仔など。
主の命令のもとで動き、主のそばを離れない。

【独立している異能生命体】
澁澤、55minのガブなど。
主が倒されたり死んだりした後に、自分の意志を持って動いている。(=主の意識の残穢、主の意識を奪っている)

ドスくんの場合はこのどちらにも該当せず、主が健在な中で自由に意志をもって動きまわるみたいなのですが、そういう異能生命体はドスくん以外にはいない。

DAの分離も、霧で分離したのではなくて、ドスくんは分離しているのがデフォルトだという可能性も。
実際、分離した異能は画面の端っこの離れたところから歩いてきているし、人間側が異能側を倒す必要もなく統合している。それに分離した異能は自分の意志を持っているようにも見えるし、分離と統合のプロセスには慣れていることを表しているような描かれ方だったと思います。

■自意識過剰なドストエフスキー

史実のドストエフスキーは自意識が過剰に発達した作家だったと言われているのは皆さまご存知でしょうか。
『地下室の手記』という作品がありますが、その主人公はやばいほどに自意識過剰で、自意識の監獄である地下室に20年もの間ひきこもります。

自意識過剰という言葉を聞くと一般的には「みんなが私のこと見てる…!」みたいな感じのイメージが湧いてくると思うんですけど、ドストエフスキーが描いた自意識過剰さは、自分で自分を観察する目が肥大化しすぎている、とめどない客観視により常にああ言えばこういう言うもうひとりの自分が脳内に住んでいるような感じの意味合いかなと思います。「客体化された自己」がもうひとり存在している、とも言い換えられるかな。
中島敦も自意識が発達した人ですし、山月記はその自意識が暴走して虎に変身する話です。
こういう史実の背景からも「もう一人の自分がいる異能」というのはドストエフスキーらしいし、自意識過剰であるが故に異能そのものが自律し独立して動けているという設定は、史実をうまく取り入れた設定だなあと感じます。

■"魔人"ですから

当たり前のように馴染んでしまっている「魔人」という呼称ですけど、この言葉を直に受け止めるなら、ドスくんは悪魔と人間のハイブリットということになりません?
罪と罰の二人いるのだとすれば、片方は悪魔で片方は人間という可能性も?
悪魔は人に罪を与えるけど罰は与えられないので、悪魔側がおそらく罪。そしてDAで「人間側が罪」と明かされたことを踏まえると、人間のように見せかけている「生身のドスくん」って実は悪魔なんじゃない?という妄想のお話になります。一方「異能のドスくん」は人間の姿に変身した異能生命体である、とも考えられますね。

■神と悪霊の右手が示す通りに

ドスくんのキャラクターの中には神と悪魔が同居していることはこれまでも考察で書いてきましたけど、さっきの話を発展させて「生身のドスくん=悪魔」「異能のドスくん=神」である可能性を少し考えてみたいと思います。

私がドスくんの考察を書くといつも象徴と現実が入り乱れた内容になってしまうのですが、それはドスくん自身の発言自体が象徴と現実の混じり合った不可思議な内容が多いからであって。ほんとにね、どこまでが実際の存在を指していて、どこからが象徴的な話なのかいつも判別がつかなくて困ってるんです。なのでこの先の考察の内容もそこのところの境目は曖昧です。

ドスくんが触れて人を殺すときの異能は、意味合いとしてはおそらく「原罪に対する罰」だと思います。脳から出血するのは脳こそが罪の発生源だから。
このときの異能発動のカラクリは相互さんから「憑依して発動させている」「血を操作して発動させている」など色々なアイデアを頂いていてどれも興味深い。
「原罪に対する罰としての死」を与えられるのは本来神しかいない。悪魔や人間にはとてもじゃないがそんな権限はない。
ということはドスくんの分離している異能生命体には「神」としての象徴が込められているはず。

人は神に似せて創られたので、外見上、神は人間と見分けがつきません。
そして悪魔(ルシファー)も変幻自在の存在で蛇になったり竜になったりするので、人間の姿に変身するのはたやすいはず。
「生身のドスくん=悪魔」であり「異能のドスくん=神」であれば「神と悪霊の右手が示す通りに」という3巻の言葉とも辻褄が合う。ではどうやって生身の悪魔は、神を異能として宿すのか?

最初はドスくんがもともと持っていた異能から生まれた「人間の姿をした異能生命体」に過ぎなかった「異能のドスくん」が、独立し自律走行していく過程で人間としての立場を強固にした。最終的に異能生命体が完全なひとりの人間へと成り上がってしまったために、異能側が独自に異能力を獲得するに至った。そういう風に考えられないでしょうか。
そして異能側が独自に獲得した能力こそ、神への憧れや楽園への憧れから生まれた「神となって人間を原罪から解放する異能」なのでは?

神の御業である罰の異能力を持つ「異能のドスくん」と、悪魔の所業である罪の異能力として異能生命体に人間と同等の思考力を植え付ける力を持つ「生身のドスくん」。そんな二人がいると考えるのが個人的には一番そそられます。

そもそもドスくんの持っている異能力は、他の異能者が持っている異能力と同じものなのか、という点も気になるところ。
異能をなくす=原罪をなくすことに近いのかなと思うんですけど、原罪は悪魔によって人に与えられた罪でもあります。人間が原罪を負って異能を持つ前から、悪魔や天使は自由に思考して言葉を話しますし、神はロゴス(言葉)を使って天地創造しています。天使や堕天使はそれぞれ固有の能力も持ってたりします。
そう考えると「生身のドスくん=悪魔」の持っている異能は他の異能者のものよりも、もっと根源的なものである可能性もありそうです。

■おわりに

私の考える考察ではたいてい最終的に「ドスくんの中には人間の成分が微塵もない」という結論に到達してしまうので、ドスくんが人間であってほしいと望む多数派のストクラさんの神経を逆なでしているという自覚はあります。ごめんね。
か弱きひとりの人間として血を操作して必死に寿命を延ばし、人間臭い執念で這いずりまわっている鼠ももちろんおいしいので、そういう方向の妄想をお披露目してくれる方いたらぜひお願いしたい。
みんなだって暴走した妄想の産物ではなく、そういうちゃんとした健全な考察を供給してほしいよね。だけど私の脳ではもうだめなんだ。妄想の限界の果ていっちゃってるからもう戻れないんだ。

あああ、ドスくんほんとにごめんなさい。
ドスくんの神秘性を尊重せず、好き放題書き散らかしてしまったこの罪は相当重いはず…死の裁きを施して頂けるなら謹んで受け入れましょう…


ドスくんの異能については私の相互さんも書いてくれていますので、こちらもぜひ読んでみてください。


今回書いた考察の内容は過去の妄想の集大成的な位置づけです。世界観に共感して頂けた方はよろしければ過去の考察もどうぞ。


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