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BEASTはユダを賛美する物語である(お題箱から)

※この記事は文豪ストレイドッグスの考察です。
※お題箱に頂いたお題への返信です。

頂いたお題はこちら:

こんばんは!
織田キリスト説すごく納得しました。
キリストは盲目の目を開く奇跡を起こしていますが、織田が太宰の包帯をほどくのがそれを示しているのかなぁなんて思ったり。
そこで気になるのは、ユダは誰なのか、です。
安易に二重スパイで、ジイドとつながっていた安吾なのかなとも思いますが、
織田の死は太宰が足を洗うきっかけですよね?
キリスト、ユダの足を洗ってませんでした?
ユダも自殺していますし、太宰の自殺マニアにかかっているんじゃないかな?なんて。
ものあしさんはどう思われます?


お題を頂きありがとうございます!
もうすぐ『太宰を拾った日』が発売になりますね。Side-BつながりでBEAST熱がストクラの中で再燃しているのをひしひしと感じます。
ということで、このお題がぴったりでした。
太宰さんがあの裏切り者のユダ…?そんなの受け入れたくない…が最初の私の所感でしたが、思えば思う程、太宰さんはやっぱりユダだなと感じるようになったので、BEASTの話も交えて、お題に回答させてもらおうと思います。

確かに普通に考えたらユダは安吾なのですよね。自身の利得のために織田作を売り飛ばしたので、疑いの余地がないほどに「裏切り者」です。
一方BEASTの太宰さんは、裏切り者の安吾をも上回るくらいに「ユダ的」なので、BEAST軸も含めて太宰さんを解釈するならば、やっぱり太宰さんはユダだと感じます。

太宰治の著作に『駆け込み訴え』という作品があります。
これは、太宰治がイスカリオテのユダになりきりながら、キリストを売り飛ばすまでの心情を描き出している作品であり、世の中で「悪人」と呼ばれている日陰者の気持ちに寄り添おうとする太宰治の作家としての想いが表れている作品のひとつでもあると思います。

そこで、ユダはキリストに対して抱いていた心情を吐露します。
("私"がユダで、"あなた""あの人"がキリストです)

私は天の父にわかって戴かなくても、また世間の者に知られなくても、ただ、あなたお一人さえ、おわかりになっていて下さったら、それでもう、よいのです。(略)
私には、いつでも一人でこっそり考えていることが在るんです。それはあなたが、くだらない弟子たち全部から離れて、また天の父の御教えとやらを説かれることもお止よしになり、つつましい民のひとりとして、お母のマリヤ様と、私と、それだけで静かな一生を、永く暮して行くことであります。(略)
私は天国を信じない。神も信じない。あの人の復活も信じない。なんであの人が、イスラエルの王なものか。(略)私はてんで信じていない。けれども私は、あの人の美しさだけは信じている。あんな美しい人はこの世に無い。私はあの人の美しさを、純粋に愛している。それだけだ。(略)ただ、あの人の傍にいて、あの人の声を聞き、あの人の姿を眺めて居ればそれでよいのだ。そうして、出来ればあの人に説教などを止してもらい、私とたった二人きりで一生永く生きていてもらいたいのだ。あああ、そうなったら! 私はどんなに仕合せだろう。私は今の、此の、現世の喜びだけを信じる。次の世の審判など、私は少しも怖れていない。あの人は、私の此の無報酬の、純粋の愛情を、どうして受け取って下さらぬのか。

『駆け込み訴え』太宰治

人類のための救世主なんかにならず、現世の喜びだけを追求してほしい。このユダの想いがBEASTの太宰さんの想いと重なっているように私は思います。

以前Side-Bの考察で、織田作が人類のために贖罪をしなかった世界がBEASTなのだとお話しましたが、言い換えてみればBEASTとは、ユダがキリストに救世主となることをやめさせるのに成功した世界であるとも言えます。『駆け込み訴え』のユダの切実な願いが、世界の犠牲と引き換えに成就している。そしてそれを成就させた世界というのはやっぱり太宰治らしい世界だなと感じます。

こうしてBEASTを軸にして考えると、太宰さんにはユダらしさがあるように思いますが、本編軸の太宰さんはそのユダらしさが和らいでいますよね。
もともと太宰さんは善も悪も関係ないというポリシーで、悪びれもせずに悪行を積み重ねてきたので、本質としてはユダ側ですが、キリストの言葉を素直に受け取って改心したユダ、というのはちょっと不思議な感じがします。
本編世界では、やはりユダの役割を担っているのは安吾さんで、裏切り者の安吾がいないBEAST世界だからこそ太宰さんは盛大にユダを演じきった、みたいな。そんな都合の良い考えに到達しました。

話が反れますが、BEASTというのは太宰がちゃんと太宰治として生きた世界なんじゃないでしょうか。
『人間失格』を読んだ後の胸糞悪さと同じ胸糞悪さを私はBEASTから感じます。これ一応誉め言葉なんですけど…
BEASTは太宰治らしい世界だと思うのです。
逆に本編軸の太宰さんは、太宰治らしさの半分しか持っていない。
太宰治は弱さを賛美した作家であり、『人間失格』では弱さによって破滅していく主人公のことを「神様のような子だ」と言って救済します。弱さによって蝕まれていくことを是とした作家です。
そしてBEASTでは、登場人物たちは己の中に抱えている恐怖心や復讐心といったネガティブな弱さを決して克服することなく、むしろその弱さによって突き動かされていきます。太宰さん自身も、未練という弱さによって世界を動かします。自分のことが大事なのです。自分がかわいいのです。世界のことなんか見えないで、自分のことでいっぱいいっぱいなのです。太宰治の描いた世界と同じです。
痛みや傷を強さに変換せずに弱さのまま引きずることの何が悪い。三島由紀夫など強さを賛美する作家もいますが、太宰治は弱さの賛美の極致にいるような作家だと思います。太宰が太宰治らしい世界を思い描くなら、そこでは弱さや悪や暗さは否定されず、日陰者が日陰者のまま生きていける。

BEASTと『人間失格』はいくつも似ているところがあるので、BEASTというのは太宰が太宰治らしく、創造主の立場になって物語(戦略)を描いた世界なんじゃないでしょうか。
そしてそこでは、ユダは否定されるべきものでも責められるべきものでもなく、世界の中心に堂々と居座って自分自身をさらけ出せる。そういう日陰者のための救済の世界として、可能世界の中に用意された貴重な世界でもあるかなと思います。

あまりパッとしない回答しか思いつかず申し訳ありません。
お題を頂きありがとうございました!!



太宰治が弱さに寄り添う文豪であることなど、こちらの動画で解説していますのでご興味ある方はぜひ。


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