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文スト24巻の考察

※この記事は文豪ストレイドッグスの考察です。
単行本最新巻24巻のネタバレを含みます。

■各話の感想・考察はこちら

【本誌105話】隘キ部屋ニテ 其の壱 感想&考察
【本誌105.5話】隘キ部屋ニテ 其の壱 後編 感想&考察
【本誌106話】隘キ部屋ニテ 其の弐 前編 感想&考察
【本誌106.5話】隘キ部屋ニテ 其の弐 後編 感想&考察
【本誌107話】隘キ部屋ニテ 其の参 前編 感想&考察
【本誌107.5話】隘キ部屋ニテ 其の参 後編 感想&考察
【本誌108話】隘キ部屋ニテ 其の肆 感想&考察
【本誌109話】隘キ部屋ニテ 其の伍 感想&考察

■24巻感想・考察まとめ

カフカ先生のお家芸。35先生のほとばしるセンス。文豪ストレイドッグスの真骨頂。もうとにかく大好き。24巻最高。
疾走感とともに駆け抜けながら左右上下にくるくる回転していくめくるめく展開の中、キャラたちは決め込んだ台詞を吐いてくる。かっこよさしか詰まってない24巻。何度も大絶叫した24巻。
ここに主な考察を残しておこうと思います。いつも本誌感想と感想追記を読んで下さってる方には、内容がほぼ重複しています。

1.敦の成長【105話】

正しさがわからないと思い悩む姿から敦くんの成長が感じられる。
院長はもう消え去ったようで、そこが敦くんにとっては大きな意味を持ちそう。しかし幻影で見る「人物」が変わってもまだ幻影が語る「言葉」は変わらない。
怖くなって自信をなくす瞬間に、溢れ出る自分を追い込む言葉。劣等感に再び支配される。

部屋の外に出る、扉から外に出る、という行為はDAから繋がっている象徴だろうか。
芥川の「外を見よ」は言葉通り機械室の外のことでもあるし、敦が閉じこもってる精神の小部屋、劣等感や怯えから閉じこもってる狭き部屋から外へ出ろ、ということでもあるような。そしてDAでは一人でこじ開けた扉を今度は信頼する人たちに誘われるようにして通り抜けるのはすごい。

しかし105話の敦くんの成長の本当のすごさは別の点にある。
一番大きな変化は、自信のなさが今までは絶対的な基準だったのに、105話で相対的な基準に変わっているということ。

「そんな事もわからないのか?」「失敗は許されんぞ」「貴方は何もしなくていい」「誰も期待しないぞ貧乏人」というそれぞれの言葉を翻すと「乱歩さんにはなんでもわかる、だけど僕は」「国木田さんは失敗しない、だけど僕は」「鏡花ちゃんはなんでも器用にこなす、だけど僕は」「フィッツには金も力もある、だけど僕は」になる。
相手より劣っている部分に目がいってしまって、それが自信のなさに繋がっているのだが、少し前まではそんな相対的な考え方を敦くんはしていなかった。「僕は無力なんだ!なにもできないんだ!」という絶対的なものだった。
これが相対的なものに変わることによって何が起こるかというと、優劣の基準が多様化するのだと思う。この部分では相手よりも劣るが、この部分では相手より優れる。つまり個性という概念が生まれて、自分はこの部分なら他者に勝るという発見を経て自尊心を獲得していける、自分らしさを見つけることができるようになっていくのではないだろうか。

心の中に登場するのが「師」ひとりだった頃にはこういうことは起こりえない。多くの人との強い繋がりを持ち、敦くんの心の中がにぎやかになったからこそ、起こりえた現象ではないかなと感じます。

2.シグマの復活【106.5話】

エレベーターの落下によって死にそうになったところを太宰に助けてもらったシグマ。シグマが死に直面したのはこれが3回目。
1回目は燁子とともにカジノから落ちそうになったところを、敦くんに助けてもらった。2回目はホーソーンの攻撃を受けて地上に落ちたが、今度はゴーゴリに助けてもらった。3回目が今回のやつ。今のところ、3度死にかけ、3度再び生きるチャンスを与えられている。そして3度の復活劇すべてに「落下」が関与している。

「落ちない」「死なない」ということが象徴するものは「原罪を負っていない」ということかもしれない。
原罪を負ってしまったが故に、人は神から罰として「死」を与えられた。落ちないというのも「堕落していない」という読み方ができるだろうか。

織田作が「贖罪のキリスト」であるならば、シグマは「復活のキリスト」という可能性を秘めている。キリストは復活してから40日目に弟子たちの前で昇天した。シグマにも天に昇る未来が約束されていたりしないだろうか。
シグマのモデルがサンテグジュペリなのだとすれば、天から砂漠に落ち、最後には天に帰る「星の王子さま」との関連性も気になるところ。

3.身体を張る太宰【107話】

エレベーターの落下により再び傷だらけになる太宰さん。彼はなぜいつも身体を張ってしまうのだろう。本当に太宰さんはただ目的意識のためだけに演技し行動をするのだろうか。なにかもっと別の心の働きがあったりするのではないか。ドーナツの空洞に無謀にも挑戦してみる。

太宰さんは弱い人間だと思う。太宰さんの知能は、彼を痛みから守るために築き上げられてきたもののように感じる。失う痛み、傷つけられる痛み、その痛みを和らげるために太宰さんは思考を巡らして、死を正当化し感情を抑制する。死を選ぼうとするのはその方が痛みがマシだからであり、感情を抑制するのは傷口が開かないようにするためなのではないか。

本編軸の太宰さんは死を正当化しなくなり、代わりに織田との約束を守るという目的意識のもと、人を救うための行動を選択し続けた。そんな中でも太宰さんの心にはまだ変化が起こっていない領域が実はあって、それは意識や理性のもとで抑制されてきた感情や"熱量を伴うなにか"が噴出するべき領域だったりするのかもしれないなあと感じる。
それらが噴出するはずの場所に沢山の鎧を重ねて封じこんでしまえば、感情に支配されて心が暴れることもないし傷口も開かない。波風立たない平静さを維持でき、心は落ち着きを保てる。そうやって太宰さんはやっぱり今も自分の傷や弱さを守っているように思う。その結果に培われてしまったものが2000歳にも及ぶ精神年齢ではないか。

そして、太宰さんの「身体を張る」という行動の原動力になっているのは、実は目的意識の方ではなくて、鎧を重ねて封じ込めていた感情や熱量のある領域から、壁を突き破ってなにかがあふれ出して太宰さんを突き動かしているのではないかなと、そんな気がしてしまうのです。
そのときに、感情や熱量は意識を介在することなく身体に直接作用する。意識を介在しないので、実は太宰さん自身もなぜ自分が身体を張るのか、あるいは死のうとするのか、本当のところ理解していないのかもしれない。
「必要性」や「目的意識」という理性を超えたところにある、太宰さんの熱情のほとばしり。死にたいのに不本意にも助かってしまう理由も、実は同じ場所から噴出する熱情のほとばしりのせいなのでは?

107話で見せた太宰さんの満身創痍の表情には、どこか満足感のような、あるいは「またやってしまったな」という照れのような、そういう気持ちがほんの少しだけ浮かんでいるように見えてしまうのでした。
DAのときも刺されて「気持ちいいじゃあないか」と言ったり、共喰いで撃たれたときに顔が笑っていたり、自分の身体を犠牲にするときに今回と同じような表情を浮かべる太宰さん。
その表情は、かつては自分のためにしていた「自分を傷つける」という行為を、いつの間にか人の為にするようになっている自分が不思議と愉快だったり、気恥ずかしかったり、あるいは純粋に昔の自分を思い出して懐かしかったり、複雑な感情を孕んでいる表情なのかなあと思う。
そして今回の太宰さんの表情もそんな太宰さんらしい表情で、色々な想像を掻き立ててくれる魅力的な表情だったなあと感じました。

4.ブラムの愛【107.5話】

かつて愛した人と文ちゃんが重なって見えたブラム。
ブラムは何百年も生きて、数えきれないほど人間の醜さや世界の無意味さをその身で体感して、だからこそ世界なんてどうだっていいと思っていたのに、そんなあらゆる汚辱に晒されてもなお、一人の女性への想いだけは捨てきれずにいる。

どんな人間も、自分より早く死んでしまうという悲しき現実。
人外であるが故の孤独、人外であるが故に忘れられない遠き日の思い出。
ブラムが生きている数百年という長い時間の中で、人の生死だけでなく、国や社会の秩序さえも幾度にもわたって混沌によって淘汰され、そこから再び新しい秩序が形成されていったはず。世界を形作る概念そのものが生滅する絶え間ないサイクルをその目で見てきたブラムはそこに世界の無常さを感じ取っていたのではないだろうか。
そんなあらゆるものが終いには渾沌に飲み込まれていくような暗き世界の中で、ブラムの中にはたったひとつだけ変わらないもの、数百年間消えることなく唯一維持され続けたものがあった。それが「愛する人への想い」だったのだとしたら。
世界は無常で残酷に変わり続けても、決して消えることなく灯り続ける想い。ブラムが心を動かし何かを決意するに値するものは、世界なんかではなくて内側からの、愛や想いの奔出だったようですね。

5.白ドスくんの偽り【108話】

衝撃的だった白ドスくんの登場。偽りの言葉の中にどれだけの「真実み」が込められているかわからないが、演技で語られたことはなんだったのかを一応整理しておこう。

・人間である"僕"の意識を異能である"ぼく"がずっと奪っていた
・55minのガブのように、本体の意識が遠のいた上で異能が主を支配していたパターンと似ている
・"ぼく"は"僕"の弱さから生まれた異能で邪悪そのもの
・本来の"僕"と異能である"ぼく"の二つの人格がドスくんの中に同居していた(=二重人格)

二重人格を無慈悲にも"陳腐なシナリオ"と一蹴したドスくん。異能が悪魔であること、異能が弱さから生まれたこと、二つの存在が同居していること、これらの観点がどこまで否定されたのか正直よくわからない。それぞれちょっとずつ真実と違うのかもしれないし、逆になにかのヒントも隠されているのかもしれない。

6.叙事詩【108話】

ドスくんは天空カジノで「神」をプレイし、ムルソーで「ルシファー」をプレイしている。
天空カジノとはシグマにとっての「最初の家」であり、つまりはアダムとイブにとっての楽園。
ドスくんは神となって、シグマにカジノという楽園を与えたが、同時にこう忠告した。「すべてを捨てて逃げなさい。貴方に勝ち目はありません。」と。この忠告は神がアダムとイブに対して言った「知恵の実を食べてはいけません」という忠告と同じ位置づけのもの。
その約束を守ることができれば、楽園を失わずに済むが、忠告を守らなければ楽園を失うこととなる。
だが当然、シグマはその忠告を守れない。イブがそうであったように。
「想いの力」を宿すシグマは、楽園から追放される運命にある。
そうして"PARADISE LOST"ならぬ、"SKY FALL"が天空カジノ編で再現され、ドスくんは神としての立場で楽園追放をプレイした。

そしてドスくんは108話において、ムルソーという地底で悪魔となり、ルシファーを演じてシグマくんを弄んでいる。

探偵社は神から与えられた家(楽園)ではなく、楽園の外にある家。つまり、探偵社に入る覚悟を決めるということは「楽園を追放され、苦しみと痛みを永遠に背負いながら生きていく覚悟を決める」ことと同義。そのことは108話のドスくんの台詞からも読み取れる。
覚悟を決めた先には、ルシファーから差し出される「リンゴという知恵の実」を自らの意志で受け取らなければならない。

「その勇気があるなら」と手を差し出すドスくんの掌には目に見えないリンゴが乗っている。
ドスくんが今差し出しているものは二つ。
ひとつは「リンゴという罪を食べますか」
もうひとつは「毒リンゴかもしませんが、それでもよければどうぞ」

触れたら死ぬかもしれない…という懸念から毒リンゴである可能性を気にしてしまうが、注目したいのは差し出されているものが「罪」である、ということ。
特殊部隊などを触れて殺したのが「罰」の異能であり、原罪に対する罰としての死が与えられた結果なのだとしたら、今ここで差し出されている「罪」は受け取ったときに一体どうなるのか。そこに待ち受けているのは死よりももっと悲惨ななにかだったりしないだろうか。

ムルソーで「始まりの悲劇=楽園追放」が再現されているのとほぼ時を同じくして、空港では「終わりの喜劇=終末」が執り行われている。
始まりと終わりが同時に再現されるというのは、なんとも常識はずれで規格外のエンターテインメントだ。間違いなく神々しい荘厳さに満ち溢れた光景となるだろう。

ジョンミルトンもダンテもひっくり返りそうな一大叙事詩の様相を呈してきた文豪ストレイドッグス。
ドストエフスキーという文学界の巨匠の名に恥じないほど、ドスくんというキャラクターの持つスケール感とその深遠さは計り知れない。

7.相棒を殺せないやつら【109話】

太宰さんが死んだかのように見える109話。着目してほしいのは、ドスくんの別れの言葉。ドスくんは人が死ぬ時に「さようなら」なんて言葉は捧げない。彼が死にゆく人に捧げるのは祈りであり祝福のはず。つまりドスくんは太宰さんが死んでないことをおそらく見抜いている。なので一旦はさようなら、いずれまた約定の地で、そういう意味を込めた言葉として捉えておくべきだろうか。

(元)相棒に殺されかけながら、死に切れていない男が3人転がっている。「観客として必要だから」と屁理屈をこねて福沢を半殺しにする福地。「やつがれ約束は守る」と言い訳して敦を殺さない芥川。7年間お互いに殺したいと思ってきたのにいつまでも実行に移さないごみかすみたいな意志の弱さの双黒。
なぜこの3組の相棒はそれぞれに相手を殺そうとしながらもそれでもなお殺せないのか、強固で鮮烈な憎しみや嫌悪を抱えている相手になぜトドメを刺せないのか、そういうひとりひとりの葛藤に目を向けてみたい。
なぜ救う?なぜ殺さない?それを問われているは芥川だけじゃない。双黒だって双福だっておそらく同じだ。

107.5話で聖剣を握るために文ちゃんの前に現れたとされる福地は、ブラムを盗んだ本人である文ちゃんに手を下さなかった。つまり福地は文ちゃんも殺せなかったということではないだろうか。
良心から逃げきれずにいる人間たちのその迷いが、盤面を覆す一縷の糸となって世界を地獄から引き上げようとしているのかもしれない。

8.おまけ

最後に...好きな台詞TOP3を選出してみました!

・第3位
「貴方達の神の腕に抱かれんことを(ドスくん)」
貴方たちの信仰する不条理と偶発の神にそんな慈悲があるとは思いませんけどね、という皮肉と嫌味丸出しのドスくんがじわーっときます。

・第2位
「客の賭金には応じるのがカジノの流儀だ(シグマ)」
いまだにズッキューンと胸を貫かれたダメージから回復しきれておりません。カジノの男ならではの覚悟と言葉選びがたまらない。

・第1位
「何故僕を扶けたんだ!(敦)」
ダントツNo.1で大絶叫に大絶叫を重ねたこのシーン。唐突に挿入される主人公の純粋で無限大の魂の叫びが文ストらしさの極みではないでしょうか。

ちなみに衝撃度No.1だったコマはドスくんの「今は何年だ?」でした。ジェットコースターどころじゃない、地球がひっくり返った思いをした名演技でございました。

おわり。
以上の考察はどれも肥大化した妄想世界の産物ですので、信憑性などは期待しないでください。

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