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【本誌111.5話】君では私を殺せない 後篇 感想&考察

※この記事は文豪ストレイドッグスの考察です。
ヤングエース2024年1月号のネタバレを含みます。

ふむふむ。次号は休載。
1月初旬といえば『太宰を拾った日』が発売されてから程よく時間が経ち、大多数のストクラが泡吹きながら転がっている頃ですね。休載は我々ストクラへのせめてもの配慮ということかしら。
Side-Bのせいで精神科に通わないといけなくなってしまうストクラもいるだろうから、治療代がかさんで本誌買えない人が続出する未来を見越して、休載という英断に踏み切ったか。
既読勢だからと余裕の表情で頁をめくった民たちも、ところどころに散りばめられた「加筆」が想定外の威力で爆発して、あっけなくちりぢりに焼け焦げるのだろうね。
そう考えれば療養期間は必須。その間に闘病記録も執筆したい。ということで次号休載は地味に助かるかもしれません。

さてさて。今月の本誌は良い眺めでござんしたねえ。とてもしっとりしていた。
扉絵の太宰さんとともに描かれているお花はオダマキだという考察を見かけました。花言葉は「道化」だそうです。これぞまさしく道化の華?紫のオダマキには「勝利」という意味もあるそうです~。ぴったり~。

1.Night から Knightへ
手足にょきーんしたブラちゃんが颯爽とお出ましになるのですが、にょきーんしたときに服や靴も一緒に生成される仕組みになってるのほんとファンタジー。
文ちゃんにひざまずくブラちゃんは個人的に文ストいちのキュン死ポイントでした。もうなんならこのコマで最終回でええよ。本とか異能とか文豪とかあとのことは知らんわ。アニメだと文ちゃんの頬っぺたがパアアっと赤くなってとてもかわいらしいのだけど、漫画のほうはそういうのがなくて大人仕様でグッとくる。ドラマティックさの演出お上手すぎる~。

色んなものの影に隠れて忘れがちだけど、ブラムの華麗な変化も五衰編の目玉のひとつよね。
世界を暗黒に包む本質を持っていながら、その本質にさえ疲れ果てて興味を持てなかったブラム。だから福地に「噛め」と言われても断っていたし、音楽を聴きながら寝ることしか関心がなくて全部がどうでもよかった。
それなのに、ひとりの少女のひたむきな姿勢に心が揺らいで、忘れていた色んなことを思い出していく。領民を守ろうとしたかつての想いとか、娘を慈しんだかつての愛情とか。時間の中に埋もれちゃったものをブラムはもう一度取り戻していった。その先で、何かを守りたいというあたたかな情熱が再び湧き上がってきたのよね。そこではブラムの本質さえもが翻っていく。
文の覚悟を決めたまっすぐな眼差しが、途方もない年月のあいだブラムの中で降り積もってきた塵を鮮やかに吹き飛ばしていったのが実に爽快で、時間も年齢も立場も超えて影響を及ぼしていった文ちゃんの劇的な活躍に、大人の自分でも気づかされたことが多かったなあと感じます。
やっぱり世界の中心にあってほしいのは少女の純真さだし、その純真さが守られる世界こそ我々が守るべき世界だ、ということなんですよね。結局いつも鐡腸さんに着地してしまう…。

2.不確定要素
太宰さんと乱歩さんの以心伝心とかみんなのチームワークとかそういうのがぴったり噛み合わさって勝利に辿り着いたのは本当にお見事だったなあと。
ムルソーで太宰さんが言ったとおり「世界を動かすのは偶発性の嵐の中で走り叫ぶものたち」だったし、偶発性の嵐という不確定なものに振り回される世界の中で人がか細くも頼りにしていけるもの、蜘蛛の糸のように細く垂れているものって「信頼する気持ち」なのでしょうね。託す気持ち、ともいえるのかな。
神のいる世界では信頼する相手は神であり、自分の未来を託す先も神になるのでしょうけど、神のない世界ではその信頼を他者に向けていくしかないのよね。神だけを信仰したドスくんは策略の上では確かに蜘蛛の巣のように万全に罠を張り巡らしたけれども、その罠も、人間の間で結ばれていく信頼の糸でできた蜘蛛の巣には大きさでも強度でも勝てずに、逆に絡めとられてしまうという。

そこで気になるのは、文スト世界に神はいるのかいないのか問題なのですよね。太宰さんや種田さんの台詞から鑑みると、文スト世界には神はいないということになっているようで、不条理のルールが支配しているらしい。
そして実はイワンも「神なき世界に幸福を齎すお方」とドスくんを呼んでいるからやっぱり文スト世界には神はいないのかもしれない。
あれだがしかしおかしいね。文ストにはカフカ神という偉大なる神がいるはずなんだけど…
というところでふと気づいたのがカフカ先生のお名前と虫のイラストなのですよね。カフカといえば不条理、虫への変身といえば不条理。つまりこの原作者は不条理ですよっていう意味になる。不条理な作家が書いた作品の中には不条理の嵐が吹きすさぶ。だから文スト世界にはやはり神はいないのかも。だとしたらドスくんが神と呼んでいる存在とは一体だれ…

3.福地さんへのお気持ち表明
してもいいですか。本当は五衰編振り返り!みたいな記事を書けたら理想なんですが、果たして五衰編は終わったのかはたまた終わっていないのかそれすらもよくわからないので、ここで福地さんへのお気持ち表明だけでもしちゃおう。今月の本誌で優しく微笑む福地さんにお目にかかれたことですしね。

お気持ち表明でなにを表明するかといえば、私がアニメ5期の間に一体どれほどの量の涙を福地さんのために流したか、ということの表明なのですが。
そんな表明いらんと思われる方はここで記事閉じてくださいね。ここから先は福地さんのことしか書いてありません。
なんでこんな表明をするのかと言えば、今月の本誌の福地さんの顔を見て、5期最終話の予告で死ぬほど自分が号泣したことを思い出してしまったからです。単純な理由です。

5期の中で一番ダイナミックに心を動かされたのも、途方もないところから突き上げるようにして涙が溢れだしてとまらなかったのも、福地さんによってでした。(ムルソーとかはただのお遊戯なので特に感情は動きません。)
福地さんの本心はずっと隠されていたし、いまだに福地さんのことはよくわかりませんが、感想や考察を書いている中で「あ、なんか福地さんの素の内面に触れたかもしれないな…」と瞬間的に感じることが幾度かあって、その気付きは多くの場合、福地さんの言葉からではなく彼の下す選択から感じ取ったもののように思います。
たとえば福地さんは、部下の心に徹底的に配慮する習性があるらしいとか。福地さんは命令されて殺しをする人の痛みと罪悪感を誰よりも重く捉えているとか。他者が犠牲になるくらいなら己が犠牲になろうとする精神とか。福沢に自分を斬らせてでも平和と仲間を守らせようとしたところとか。
私から見た福地さんは、とにかく自己犠牲の塊でした。なんだかそのことがとても耐えられなかったのです。
ひとりで世界を背負って、悪役という自己犠牲を自分だけが支払って、自分ではないあらゆるものを救おうとする。そういう福地さんの一面に触れるたびによくわからない感情があふれ出して涙がぽろぽろと流れ出て止まらなかったものです。私はいまだにこの現象がなぜ起こるのか、具体的にどこが涙を誘うのか、明確にはわかりません。
自己犠牲はきれいごとだ、ヒーローにお決まりの陳腐なテンプレートだ、と普段の私は思います。でもなぜか福地さんの自己犠牲だけは駄目でした。仮面をかぶっているせいなのでしょうか。自己犠牲をひけらかさずに針孔にも満たないような小ささにそれを隠しこんでいるせいでしょうか。「もういいよ」と誰も肩の荷を降ろしてあげられなかったのがどうしようもなく哀れだったからでしょうか。
福地さんの自己犠牲に多くの人が気づかないままでいるのがさらに涙を助長させたように思います。仮面を被るという生き方しかできない人が他者から誤解され文句を言われ、仮面の下でグッと苦しみに耐えている姿がどうしても思い浮かんでしまって、結局は1時間も2時間もずっと泣き続けているのが5期の私でした。
そういうことが何度もあって、流した涙の量も1リットルをゆうに超えたのではないだろうかと思います。

福地さんのために流した涙はいい涙でしたが、苦しい涙でした。どこか、世間一般に対する漠然とした絶望も含まれたような涙でした。福地さんが死んだことには一滴も涙を流しませんでした。福地さんの自己犠牲と仮面と、それから周囲の誤解と密かな孤独、あるいは断絶と忍耐とがずっと私の心を揺さぶり続け、振り返ってみれば5期の中で「福地さんの内面」というのが自分の中に一番深く刻みこまれた、忘れられない記憶になっていました。
いやちょっと忘れかけていたんですけどね。本誌見ちゃったので思い出してやっぱりだめでした。
福地さんの微笑みは、誤解や孤独から受ける痛みさえをも自己犠牲で包み込んで喜んで受け入れているかのようで、そういうのがまた涙を誘うんですよね。懐の深さがはかりしれないというか…そこはかとなく柔らかい大きなマシュマロに沈み込んでいくような優しさというか。いや例えがなんか下品だな。とにかく人間精神の深遠さを、それも優しさの側の深遠さを、福地さんにはよく突きつけられるように感じます。

こういう話はいつまでも語れてしまってきりがないので...この辺で。

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