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【本誌113話】世界平和 感想&考察

※この記事は文豪ストレイドッグスの考察です。
ヤングエース2024年4月号のネタバレを含みます。

24.03.04感想

終わった。平安な世がもう終わってしまった。
カウチポテトの精神状態で本誌読めた貴重な半年にさようなら。

■吟遊詩人に生まれ変わったら

ちょっとすいませんがここからいかせてくださいね。
吟遊詩人!!ドスくんの美的センスが炸裂しておりますな吟遊詩人!!!
言葉選びで雰囲気つくりあげるのうまいな~さすがだな~カフカ先生。
吟遊詩人もドスくんが生まれ変わったらなりたかったもののひとつだったのかな?ひとつひとつコンプリートしてるのおめでたいね。

ドスくんが不老不死だというのはアニメ4期の頃から噂されてるけど、どうやって不老不死になってるのかは謎ですよね。
私が今までに出した考察は二つあって、一つが「体内の血液を操作して寿命を延ばしている説」、もう一つが「ドスくんの身体は生身の悪魔だから死なない」という説。

今回のドスくんとブラムの対面の場はおそらく1400年代。ドラキュラの元ネタとなっているのがヴラド3世であり、マチャシュ王も同時代のハンガリー王のようなのでね。そうするとおよそ600年前ということになる。さすがに血液操作で600年生き延びるのは非現実的なので、肉体が人間じゃないという可能性のが高そう。
あるいは異能によって…ということなんだけれども。

だけど今回の会話でブラちゃんがすごいかっこいい…じゃなくてすごい興味深いこと言ってるなあと思ったのは「悪魔も人も等しく神の子で被造物」だと言ってるじゃないですか。
生身の悪魔説の最大の難問は「その悪魔ってのはじゃあ一体どこから生まれたんだ?」という点だったんだけど、人がいるなら悪魔もいるっていうセオリーが受け入れられる世界観ならば、やっぱりドスくんは生身の悪魔なんではないかい?という気配がしてしまう。
だとすれば、自我の芽生えも悪魔の仕業ということになり、ドスくんというのは異能の根源に近い存在なんではないかなあと。
しかしあのカフカ先生なのでね。どこでどうバッターンと掌返してくるかわからないので、こういうのも話半分として受け取っておいてくださいませ。

ブラちゃんが引き合いに出しているのは聖書なので、ブラムのいう神とはキリスト教の信仰上の神なわけだけれども、その神と、ドスくんがいつも言っている神が同一の存在なのかはまだちょっとわかりませんね。

ところで、ドスくんは槍で刺されて死ぬことにそれなりにこだわりをもっているようで。しかも今回はお身体のポーズまで真似ていらっしゃって。っていうかこの時槍で刺されてるなら既に聖痕ゲットしてるではないか。一体いくつありゃ気がすむんだい。
というかそんなに昔から生きてるなら本物のキリストの受難とか実は見た事あったりしないかなあドスくん。
シグマはどこまで時間を遡っていってくれるんだろ~。天地創造のあたりまでいったりするのかな?そうしたら文スト世界の始まりのきっかけとか見れちゃったりするのかなあ??

そういえば、ドスくんがこんなに長い間生きているのにいまだに白紙の文学書を手に入れてないのは、少し哀れな気もするわね。それとも白紙の文学書って、割と最近発明されたものなのかしらね?
それこそ36年後の未来ではまだ人が生きてて争いもしているってことは、今後36年間はドスくんの目指す「争いをなくす」という目標は達成されないということのような気もするし。だからこそ福地を動かしたはずなんだけど、こういう失敗を実は何度も繰り返してる…?わざと…?ドスくんの目的って本当のところ何なんだろ~。謎が謎を呼ぶ男~。すき~。
ドスくんとブラちゃんが会話するとこういう風になるんだあ~見れて嬉しい~とほわほわしながらものすごく楽しくて興奮した113話でした。

あ、まだ感想終わらないよ。

■自己犠牲/自己実現

福地の行動って美しい自己犠牲にも見えるし、究極のエゴイズムにも見えますよね。人類全員から「どうかお願いします」と乞われてやったのならともかく、今回の件は福地の独断なので。

文ストのキャラたちはいつも「誰かのため」や「何かのため」に戦うことのできる気高い精神を持っているけれども、「誰かのため」「何かのため」の維持継続って本当はとても難しいことで、純然たる奉仕を何の見返りも求めずに長い期間継続できるのなんてほんの一握りの聖人だけではないかなと思ったりする。
普通の人が「誰かのため」「何かのため」を無理なく継続させるためには、「自己実現」というバックボーンがきっと必要で、「誰かのため」というのは「なりたい自分になるため」という目的と一致したときにだけ成功する事業なのかもしれない。だから背骨の部分には「自分らしさを叶えるため」というある種の自分勝手さが見え隠れする。
敦くんだって自分を犠牲にするときには「自分以外の人を守りたい」という想いと同じくらい強く「生きる許可を勝ち取るため」というエゴがあった感じがするし。
結局は「自己実現のため」に「誰かのためという選択肢」を選んでいるのであって、その究極の目的は「他者救済」ではなく「自己救済」なのだとなんとなく感じています。

そういう意味では、福地さんは他者救済と自己救済のふたつが同じくらいの強さで主張してくるので、読者の見方によって自己犠牲的に見えたり自分勝手すぎるように見えたり感じ方が変化しやすいのかも。だけどそれが案外、自己実現の在り方としてはとても自然なことで、「誰かのため」と「自分のため」は紙一重なんだなということを印象付けられます。

そんな中で、燁子さんですよ。
燁子さんの決断は…あれは究極の他者救済だったと思うんだ…
もうほんとに言葉も出ないほど…

燁子さんの自己実現は「正義」のはずですよね。もちろん福地さんへの想いを叶えたいという気持ちもずっと持っていたと思うけれども、ふたりの共通の願いである「正義」や「平和」を通して福地さんと同じ方向を向いていることが燁子さんを励まし続けたのだと思うし、福地さんへの想いと正義を希求する気持ちは重なり合った状態で燁子さんの中に存在していたのではないかなと感じます。隊長を通じて正義を見て、正義を通じて隊長を見ているかのような。

もし燁子さんが隊長のことを愛していなかったり、隊長への想いよりも正義や平和への想いの方を強く抱いていたのだとしたら、燁子さんは隊長を殺さなかったのではないかなと思うのですよ。
だって福地さんが人類軍総帥でいたほうが、平和は確実なんだから。合理的に判断するなら、人類軍総帥になるかどうか迷って覚悟が決められないような人間なんかより、福地さんを生かしておいたほうが、燁子さんの望む世界を実現するためにも圧倒的にいい。本物の英雄は福地であって、福沢ではないことを誰よりも知っている。
だけど、燁子さんはそういう合理的なものも自分の願いも何もかもかなぐり捨てて、隊長の想いに寄り添うことだけを選んだのですよね。燁子さんの中のすべてを捨てちゃった。
その瞬間は、本物の究極の自己犠牲で、愛によってしか超えられない一線を、このときに燁子さんは超えたのでしょうね。
自死を選択をする隊長も含めて、すべてを愛してしまっていたのかもしれない。愛が到達できる臨界点に立ち会ったような気分で、うるうると涙がこみあげてくる…
切ないし痛いしこんなの嫌だけど、でもこれが燁子さんの愛のカタチだったと思うと、深い覚悟を伴ったひとつの愛の完成形として、自分の中に重くのしかかって刻み込まれていく。唯一無二のものとして印象に残っていきます。

そんでもってよ。
愛する人を愛するが故に殺すってこれ…大倉燁子の『魂の喘ぎ』なんですよね…。『魂の喘ぎ』って、ある母親が、人を騙したり金品を盗んだりする「巧妙な、先天的の不良」だった愛息子のことで思い煩って、人様にさらに大きな迷惑をかける前に自分の手で息子を始末してやろうとして、息子を屋上から突き落とす話なんですけどね。突然ドンと突き落として、それでも母親の髪にひっつかまって落ちまいとしていた我が息子の胸元を更にドンと突いて落下死させる話なんですけどね。
愛ゆえの残虐さ。あるいは愛ゆえに正義を選ぶ。そういうところがおおくらてるこおおおおお!!!ってなりました。
他に方法はなかったのか?って名台詞みたいになってますけど、燁子さんに関してもやっぱり「これしかなかった」と感じさせるところが、なんというか、変な言葉ですがパーフェクトフィットで、61話観たとき、すご…ってなりながらスンとした記憶があります。

■文ちゃんの使い方がせこい

ダメージ大きいですよね、あの終わり方。我々の情緒が狙われている。
アニメとトーンがだいぶ違っていた。やっぱりアニメのほうはある程度まるくおさめるためのオリジナルの部分で、実際はこれなんですね…
英雄を突き付けてきたのは福地だけじゃなくて、燁子も文も、おそらくこの先マスコミなどいたるところで社長は英雄として崇められていくのだろうか。

こんなつらいことってないよ。かけがえのない朋友を斃したことで英雄になるってどんな気分なんだろう。救ってあげられなかった慙愧と無念を抱えながら英雄になるってどんな気分なの。それこそ福地の抱えたものと同じものを抱える羽目になるのではないのかな。
福地は、自分の部下を、絶対に守りたかった部下たちを大戦で救えなかったのに、その後世界中で英雄としてもてはやされたんだもんね。どんな気分だったんだろうね。大切な人も守れない人が本当に英雄なんだろうかね。悲しいね。虚しいね。
福地さんは、自分の虚しさをわかってくれる理解者がずっとほしかったのかな。それを別の誰かにも一緒に背負ってもらって、肩を貸してほしかったのかな。だから福沢さんに、すがるしかなかったのかな。
ちょっとわからんので、しばらく泣きながら考えます。

おわり。

24.03.12追記

■落ちて落ちて落ちまくる

シグマくんの起こし方は他にもあっただろうに、わざわざ浮かせて落下させてるの面白かったね。
天空カジノから落ちて、エレベーターで落ちて、そんでまたむやみやたらと落とされて。合計17~18回落ちてるわよ。一体どんな罪を背負ったらこれほど落ちる罰みたいなものを受けなきゃいけない羽目になるのかしら。
太宰さんはシグマのこと、落としたらとりあえずなんか復活する仕様になってるとでも思ったのかね。シグマくんの落下癖(&復活癖)からはまだまだ目が離せません。

そしてシグマのどすん顔の描き方に悪意がある、あるよ35先生。超人はみんなそうやって凡人を弄って笑いものにして遊び始めるんだ。
読者も読者でこうやって遊ばれてるシグマくんを見て、ウヘウヘしながら嘲笑うんだ。人の不幸は我が身にとって快感なり。これすなわち芥川龍之介なり。人間っておそろしいなり。

■君の名は

魔人は少なくとも600年前から生きていることが判明したけれど、そんな時代にドストエフスキーという名の作家って存在してていいの?ってところが気になりますよね。
文ストに出てくる文豪はほとんどが1800年以降に生まれた文豪たちであり、いわゆる近代の文豪たちが現在軸で生きて戦っている。ドストエフスキーもその一人だと考えられてきました。

例外として、先の大戦で活躍したゲーテ(1749-1832)とシェイクスピア(1564-1616)がいますが、彼らは早い年代の作家なだけあって、過去に活躍した先人組として扱われているような感じがします。

そんな中で、今回の600年以上前の魔人の出現をどう解釈するべきか。
いまのところ稚拙ながら考えられる可能性がふたつ。

ひとつは、ブラムのように、作品の中に出てくる登場人物をモデルにしているが故に、作家本人の生きた時代とは無関係な設定になっている説。(モデルの例:『カラマーゾフの兄弟』の「悪魔」)だとすればブラムと同じように、名前は始まりのときからずっと変わらずドストエフスキーということになる。

もうひとつは、我々が知っているドストエフスキーは「ドストエフスキー」という名前を借りものとして着ていた何かであり、借りものの名前はその時代に応じて変遷していったという説。
ドストエフスキーという名前は最近になってようやく名乗り始めたものであり、将来的にはドストエフスキーではない文豪を名乗ったりすることもあり得る、とか・・・?(本体はただの魔人であり、ドストエフスキーという名前は着せ替えのお洋服である可能性。実は異能者ではなく、普通に魔人として能力を持ってるだけ)

太宰は洋上ヘリポートで「ドストエフスキーは間違いなく死んだ」と言っている。"間違いなく"死んだらしいのです。だとしたら死んだのは一体何で、不死らしいそれは一体何なのでしょうか。
というかそもそも不死はどうやって?
てことで、最近追加された情報などを整理しながら、色々なアイデアを出してみようと思います。

■死んだのはだれ

過去に目撃されたドスくんの不思議情報については以下のまとめ記事を適宜参照ください。

まず、最近追加された情報を整理していきましょう。

・「奴は悪魔だ。邪悪という文字が肉体を得たような男」(白ドスくん)
・「異能である”ぼく"」(白ドスくん)
・「人も悪魔も等しく神の子であり被造物」(ブラム)
・600年前には顔に傷がある
・自称 吟遊詩人
・ドラキュラ城にて槍で突かれるもその後生きてる
・「ドストエフスキーは間違いなく死んだ」(太宰)
・死の間際の言葉「エリエリラマサバクタニ」
・食欲がほとんどない(権化録)
・なりたいものは大体なった(権化録)
・シグマが情報を読み取ったとき、背後には鮮烈な光
・生きてる年数が長い分、秘密の数がえげつない

色々抜けてる感じもするけど、こんなとこかな?
これらの情報をまとめると、①「悪魔」という言葉がドスくんの秘密を暴いていく過程で幾度か強調されている、②生態に人間らしさがない、③傷が治癒している=肉体を造り変えているっぽい、といったところでしょうか。

そこで、過去の考察も振り返ってみましょう。
DAで明かされたように、ドスくんの異能側は「罰」、肉体側は「罪」でした。DAではそれぞれが「ぼくは~」と名乗っていて、各々自意識を持っていることから、ドスくんの中には二つの存在が同居している可能性が考えられてきたんですよね。

そんな中で私がひねり出した案は、肉体側の「罪」はドストエフスキーの姿に化けた悪魔であり、異能側の「罰」は本物のドストエフスキーの異能生命体であり、自分そっくりに化けた悪魔の姿を「これはぼくだ」と勘違いしたドストエフスキーの異能生命体が、悪魔に憑依してしまっているという説でした。もちろん何かの計画のもとに二人が合意してそういう形を取っているということも考えられます。「ふたりはなかよし」ですからね。

「ドスくんは人間じゃなくて生身の悪魔である。だから不老不死なのである。」
ずっとこの仮説を推してきた身としては、近ごろドスくんの悪魔らしさが際立ってくるたびに「うむうむ」と頷きながらも、なんか事がうまく運びすぎているような…?という謎の警戒感に包まれて、ドスくん=生身の悪魔説以外の可能性も考えてみたほうがいいのかしら…という気になってきましてですね。
遊び感覚で思いつくものを書いてみますので、ご笑覧くださいませ。

その①:ドスくんは龍宮城に住んでる説
ドスくんは普段龍宮城に住んでいる。そこは時間の流れが普通の世界と異なるので、龍宮城にいる間は歳をとらない。ドスくんは肉体的には人間なんだけれども、表の世界に出て事件を起こしている時間分しか歳をとらないので、結果的に長寿に見えているだけ。龍宮城には怪我を治したり、身体を修復したりする不思議なクスリがストックされている。月宮に対抗するかたちで龍宮が存在していて、月宮は天界を、龍宮は下界をつかさどる。
なんのこっちゃ。

その②:ドスくんは人間に変身する異能を持ってる説
ドスくんの異能に「人間に変身する力」がある。敦くんが虎に変身するように、ドスくんは人間に変身する。生身から虎の異能に変身する敦とは逆に、異能から生身の人間に変身することもできたりするかも?
異能生命体が不滅の限り、何度も人間に変身するため、身体は繰り返し、造り変えられる。

その③:ドスくんは神の力を持っている説
ドスくんは始まりと終わりを司る男。アルファでありオメガである。死を与えることができる一方で、本当は生を与える力も持つ。だが、生を与えるとき注意しなければならないのは「神は自分に似せて人を造った」という点。つまり自分に似た人間しか造れないのである。それでも土から、あるいは無から、人間を造ることができる。ドスくんは死にかけるたびに、幾度も自分のそっくりさんを造りながら生きながらえてきた。

その④:ドスくんは敦くんの真似をしてる説
これに関してはもはや一説というより、個人的には確証に近いものとして捉えているのだけれども、ドスくんはよく敦くんのことを真似しているのですよね。キリストを真似する偽キリストとしての姿。

みなさまは権化録に書かれた「自分を色で例えると?」の回答欄に、ある法則性が存在するのにお気づきでしょうか。その法則とは「みんな誰かの影響を受けて色を選んでいる」。(除く太宰。この人は染まらないらしい)

敦は芥川の影響を、鏡花は敦と芥川の影響を、芥川は太宰の影響を、国木田は鐵腸の影響を、中也は梶井の影響を受けて、色を選定した。色の先に必ず誰かの顔がある。
そんな中でドストエフスキーという男は白を選んだ。白を選んだ人がもう一人いる。敦くんである。ドスくんは敦くんの真似をしたくて白を選択したはずなのだ。頭髪が白でないことを気にかけて、わざわざ覆い隠すように白い帽子をかけるような男。意識しまくりなのである。
だとすれば、敦くんの持つ異能がドスくんの持つ能力のヒントになっている可能性もあるのではないだろうか。
なにかに変身し、再生能力を持ち、なおかつ異能力そのものになんらかの働きかけができる能力(敦の場合は「異能を切り裂く」)。そんな切り口から探ってみるのも面白い気がしている。

以上、久しぶりに妄想を好きなだけ書いてしまいました。

ドストエフスキーという存在の主体がどこに宿っているのかあんまり見極めがつかないので、「ドストエフスキーは死んだ」という太宰の台詞の「ドストエフスキー」がそもそもなにを指しているものなのか、まだ全然わかりませんね。

あと今回思ったのは、ドスくんを考えるときに忘れちゃいけないのが「大審問官」という存在ね。ドストエフスキーの一番の傑作とされる『カラマーゾフの兄弟』の中で、一番重要なシーンだとも言われている「大審問官」という叙事詩。
審問官って、カトリックの考えに反対する人たちのお首をちょんぱするお仕事の人たちなんだけれども、ドストエフスキーが書いた「大審問官」は悪魔と手を組んで人々を支配によって幸福に導こうとする(そうしてキリストの代わりとなろうとする)話なので、こういうところ、きっとドスくんともなんか繋がってると思うんです。もちろん世界征服によって平和を実現しようとした福地とも繋がってると思うんです。
ということでドスくんの旅はまだまだ続く。けど今回はいったんおわります。

■空虚な英雄の心を埋めるもの

本題、これのはずだったんだけどなあ…。

解釈がときと場合によってこんなにブレてしまうキャラってそうそういないんだよなと改めて思わせる福地隊長。そして何度書いても一向にまとまる気配がない考察。

福地さんはさ、部下や仲間たちを救いたくて戦場に行って、その戦場で仲間を守るために敵を殺しまくって、それでも仲間を守り切れずに看取ったんですよね。そんな中で、死にゆく部下から「こんな虫けらのごとく死ぬなんていやです、どうか仇襲を…!」と言われていた。

なので、福地さんの動機の根本のところには、部下たちの無念を果たすためというのがあって、福地が世界平和のために戦い続けていたのもやはり仲間の死を無駄にしないためだった部分がある気がしてます。
福地が英雄の座を捨て去って、テロリストという悪役の仮面を被ることにしたのも、罪滅ぼしというか、違和感を払拭して「違う、儂は英雄ではない」と否定しようした気持ちの表れで、福地は「英雄」を便利な武器あるいは利用できる地位として使うことはあれど、英雄としての自分を受け入れたことはもしかしたら一度もなかったのかもしれない。

そんな福地隊長が、福沢に「空虚な英雄」という自分が否定したかったものを敢えて突き付けた理由。
ひとつは、一緒に背負ってほしかった、というものですよね。平和という大義をひとりで抱え続けたけど、大義だけでは自身が救われない。死んだ部下たちへの弔いの気持ちにすがってやってきたけど、総帥になる資格までは自分は持ってない。自分を救うための最後の手段が友を信じて友に託すということで、そうすることでしか福地は己の虚しさを埋められなかった、とか。

もうひとつは、自分は「100人を救う為に1人を犠牲にできる」という悪の芽を抱えていて、なおかつ部下を救うために敵兵を皆殺しにし女子供を拷問する残虐さを持っていて、独裁まで推し進めようとする人間。そんな自分に人類軍総帥は本質的にふさわしくない。福沢のほうが、善なる心を持っていてふさわしい。だから託そうとしたのかもしれない。

福地が自己否定的なものを抱えていたからこそ、福沢にバトンを渡したという捉え方もできます。だけどそれは結果として、「空虚な英雄」という受け入れがたい葛藤も一緒にバトンとして渡してしまうことになる。

福沢が福地から託されたものを引き受けずに、目を背けてしまったら、福沢はずっと苦しい想いをするんじゃないのかなと思うんですよね。
「英雄じゃない」と否定することは友から命がけで渡されたものを否定することになるし、かといって今のまま「英雄だ」と受け入れることだって当然できなくて、唯一の救済の道といえば、友のために本物の英雄に変わっていく、ということしか私には思い浮かばないのだけど、みなさんはどう思います?福沢さん、こんなに壮絶な表情をしているけれども、このあとどんな言葉を発して、どう英雄という地位と向き合っていくのでしょうね。

自分の正義が見極められないっていうとき、迷ったとき、そういうときに頼りにするべきは、自分にとって大切な人の正義はなにかってことだったり、自分の大切な人はなにを大切にしているのかってことだったり、案外そういうシンプルなものだったりするのかもしれません。

己の正義を見極めよ!っていうのが五衰編のテーマのひとつでもあったのかなと思うんだけど、己の正義よりも友の正義を優先する!って考えそうなキャラも文ストにはいっぱいいるはずですよね。
だから二福がもう一度道を重ね合わせることがあるならば、その合流地点というのは、己の正義を捨て友の正義を選び取っていった先にあるのかもなあとも感じています。とても難しいことだと思うけれどもね。
なにはともあれ、社長、本当に大変な思いをしていてご愁傷様の気持ちですう〜。

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