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歯抜けの犬は肉を噛めない

〈禿げ猫〉について覚えていること。全身無毛。爪に毒。妖猫のような瞳。女。本名不詳。

 三十分。絞め殺すのにそれだけの時間を費やした。可愛らしい、小柄な老婆だった。爪に垢が詰まっている。老眼鏡の奥で白内障の瞳が濁っている。ずり落ちた鬘の下には綿毛のような白髪。表の名札には、当然〈禿げ猫〉ではなく桜井葉子という名が書かれていた。

 復讐の必要はない。五十年前、そう告げて死んだ依頼人の名は思い出せない。無数の仕事の中に埋もれた失敗をなぜ今更思い出したかもわからない。理由が追い付く前に焦りが背を押した。彼らに老衰で死なれては困るからだ。なぜ困る? なぜ?なぜだろう……。

 ともかく忘れぬよう名前を繰り返す。〈禿げ猫〉〈トーク〉〈鳥撃ち〉〈青信号〉。〈禿げ猫〉は今殺した。いや殺したのは〈鳥撃ち〉だったか? まあいい。終わるまでやるだけだ。彼らは仕事でも私情でもなく、ただのボケ老人の癇癪によって死ぬことになる。

【続く】